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目の前が真っ暗になるのを感じた。なぜ、真由美はそう思った?
「懐海ちゃんを妊娠した時、あみが住んでいた住所は大野懐空の通っていた大学の近くだった。そして最近、大野懐空は杉山涼成の隠し子じゃないかって噂が立っているの」
「杉山涼成の隠し子?」
「出所はよく判らない。聞いた話だと、あの二人、見た目や文体がよく似ている。それで誰かが言い出したみたい。ただの噂だけど、あみの反応で噂じゃないって思った」
「わたしがそんなこと、知ってる訳ないじゃない」
これは嘘じゃない。事実は知らない。でも、わたしもそうじゃないかと思っている。
「あみは『少なくとも父親じゃない』って言った。祖父ってことよね?」
やっぱりあの言い方は拙かった。どうしよう、わたしのせいで懐空が困ることになる。それに、杉山との噂も気になる。懐空は大丈夫なのだろうか?
「ねぇ、あみ。教えて。ナツミちゃんのお父さんは誰?」
「真由美……」
愛実が溜息を吐いた。
「それを知って、真由美はどうするつもりなの?」
「どう、って……」
少しだけ口籠ったけれど、すぐに真由美は捲し立てた。
「慰謝料取ってやる。養育費も。そんで、隠し子がいるって告白させる」
「いつ、彼が隠したの?」
「え?」
スマホの向こうで真由美が息をのむ。愛実の目頭が熱くなる。
「あみ、あんた。まさか子どもができたって、言っていないの?」
「うん……言えなかったの」
「言えなかったの?」
「そう、言えなかったの」
「なぜよ?」
真由美が泣いているのを、愛実が感じる。
「なんで言わなかったのよ?」
「……なんでだろう?」
愛実の返事に真由美が泣き笑いする。
「それをわたしが訊いているの――そんなに彼が好き?」
「うん。彼がいないと生きていけない」
「ナツミちゃんがいても?」
「ナツミはわたしのものじゃないから」
「彼はあみのものなの?」
「彼が言ったの。あみは僕のすべてだって」
「あみが彼のもの?」
「ううん。彼はわたしのすべて――彼はわたしの救いで、わたしの心で、わたしの生きる指標」
「彼があみを救った……あみが何かを抱え込んでいることはわたしも感じてた。そこから彼が救ってくれたのね? そんな人からなぜ離れたの?」
「あの時は――傍にいては彼のためにならないって思った。多分それが正解」
「あの時って言うことは、今は違うのね?」
「ううん、今もそうよ。何も変わらない。でもね――」
「でも?」
「時どき思うの。ううん、いつも思うの。彼に会いたい――でも無理、会っちゃいけない。彼の足を引っ張ることになる」
愛実の言葉に真由美が黙る。真由美が泣いていると愛実は思う。そして真由美が愛実も泣いていると気が付いていると感じる。真由美は愛実に同情して泣いているんだろうか?
やがて真由美の静かな声が聞こえる。
「あみ……もし、彼が世間から悪く言われないでいられるなら、彼のもとに帰りたい?」
「……そんな方法あるのかしら?」
「判らない。杉山先生に会ってみようかと思う。なぜあみを探しているのか聞いてみたい」
「ダメよ、そんなの!」
つい愛実が大声を出す。そして慌てて声を小さくする。襖の向こうではナツミが眠っている。
「それじゃ大野先生に訊いてみる? どっちにしたって訊いてみなくちゃ判らない。なぜ杉山先生が愛実を探しているのか。大野先生は今、愛実をどう思っているのか」
「彼がわたしを?」
「そう、戻ってきて欲しいと思っているのか、それともそれは困ると思っているのか。聞いてみなくちゃ判らないでしょう? それに、ナツミちゃんのことは、いつか必ず言わなきゃだめよ」
「ねぇ、真由美――もし、わたしが死ぬようなことがあったら、その時はナツミを彼のところに連れて行ってくれる?」
「馬鹿言わない!」
今度は真由美が怒鳴った。
「そんな縁起でもないこと言わないで」
「わたしがいつもしているリング、あれを持っていけば、ナツミはわたしの子だって彼には判る。彼から貰ったものよ。わたしと彼の名前が彫ってある」
真由美が深い溜息を吐く。
「あみのわからず屋はよく判った。とりあえず、わたしは杉山先生に会うわよ。あみの住所とかは教えない。それならいいでしょう?」
杉山はどうせナツミの存在を知っている。だったら真由美が会いに行っても問題はなさそうだと思った。
「どんな話をしたか、ちゃんと教えてくれる?」
「なによ、あみだって杉山先生がなんで自分を探しているのか気になってるんじゃない」
「うん。本音を言えば気になって仕方ない。でも、怖くて自分じゃ訊けない」
少しだけ真由美が黙る。
「そうね。判らないでもないわ……それじゃ、また電話する。自宅からの電話になるから、夜遅くになるけど、大丈夫ね?」
「うん、ありがとう。誰にも聞かれちゃいけない電話だものね」
「杉山先生は忙しいからいつ会えるかは判らない。でも、樋口愛実のことで、と言えば、必ず会ってくれるはず。だって、どんな小さな情報でも欲しいって言ってたらしいから……少し時間がかかると思うけど、思い悩んだりしないでね」
そう言って真由美は電話を切った。
その後しばらく愛実はパソコンの画面を見つめていた。目はパソコンを見ていたけれど、心は別のものを見ていた。そして一度目を閉じてから立ち上がる。
本棚の上段には大野懐空の本が並んでいる。デビューして五年、印刷された書籍としては七冊、それが多いのか少ないのか愛実には判らない。Web小説はもう何本になるのだろう? そのすべてを愛実は読んだ。
手を伸ばして一冊の本を取り、表紙を捲る。タイトルページには『ラブバードは羽搏かない』と印刷してあり、その下に『大野懐空』とある。懐空のデビュー作だ。じっくりとそのページを眺め、掌で撫でる。そしてゆっくりと次のページへと進む。
タイトルページの裏を愛実が見つめる。そこには『愛が実ると信じている』と印刷があった。何度も指でなぞり、何度もそのページに涙を落とした。文字のある部分はうっすらと手垢で汚れ、ところどころ紙がふやけた跡がある。
(懐空……会いたい。会いたくて堪らない)
今日も涙の跡がそのページに増える。
「ママ……」
ナツミの声が向こうの部屋から聞こえた。ハッとして、急いで涙を拭う。
「どうしたの? 目が覚めちゃった?」
愛実が行くとナツミがほっとした顔で愛実を見つめた。
「夢でよかった」
「いやな夢を見たの?」
「うん……ナツミを置いて、ママが一人でパパに会いに行っちゃうの。ナツミも必ず連れて行ってね」
思わず愛実が息をのむ。
「うん。その時は一緒よね」
やっとそう答え、もう一度寝ようね、と愛実はナツミに添い寝するようにナツミの寝具に自分を潜り込ませた。
嬉しそうにナツミが愛実に縋りついてくる。顔にかかった髪を愛実が指先で払うと、ふふっ、と笑って目を閉じた。掛け布団の上から、とんとんと体を叩いているうちに静かな寝息を立て始める。
もう、仕事をする気になれない。今夜はこのまま寝てしまおうか? そう思いながらナツミの顔を見つめ続ける。
生まれたての時は誰にも似ていないと思った。それなのに一時間もしないうち、懐空にそっくりだと思った。
子どもの顔は次々に、変わっていく。懐空にそっくりだと思ったのに、気が付くと自分にそっくりだと思い、しばらくすると、誰に似ているか判らなくなる。そして由紀恵に似ているのだと思いついたりする。今夜のナツミは懐空によく似ている。そっくりだと思う。それとともに、杉山に似ているのかも、とも思う。
そっとナツミの頬を撫でる。パパに会いに行くのなら一緒に連れて行って。ナツミははっきりそう言った。
ナツミは懐空に会いたがっている。懐空の写真はスマホの奥に隠して誰にも見せていない。ナツミにもだ。
それなのに、パパはいつ帰ってくるの、と愛実に問い、一緒に会いに行くと言う。そうかと思うとお友達に『うちはママとナツミの二人なの』と言っていたりする。その時のナツミから寂しさは感じられない。
ナツミは父親に会いたがっている。たとえ愛実との二人暮らしが寂しくなくても、ナツミは父親を求めている。そして――
自分の母親がその父親を恋しがっているのだと知っている。そう思えてならなかった。
「懐海ちゃんを妊娠した時、あみが住んでいた住所は大野懐空の通っていた大学の近くだった。そして最近、大野懐空は杉山涼成の隠し子じゃないかって噂が立っているの」
「杉山涼成の隠し子?」
「出所はよく判らない。聞いた話だと、あの二人、見た目や文体がよく似ている。それで誰かが言い出したみたい。ただの噂だけど、あみの反応で噂じゃないって思った」
「わたしがそんなこと、知ってる訳ないじゃない」
これは嘘じゃない。事実は知らない。でも、わたしもそうじゃないかと思っている。
「あみは『少なくとも父親じゃない』って言った。祖父ってことよね?」
やっぱりあの言い方は拙かった。どうしよう、わたしのせいで懐空が困ることになる。それに、杉山との噂も気になる。懐空は大丈夫なのだろうか?
「ねぇ、あみ。教えて。ナツミちゃんのお父さんは誰?」
「真由美……」
愛実が溜息を吐いた。
「それを知って、真由美はどうするつもりなの?」
「どう、って……」
少しだけ口籠ったけれど、すぐに真由美は捲し立てた。
「慰謝料取ってやる。養育費も。そんで、隠し子がいるって告白させる」
「いつ、彼が隠したの?」
「え?」
スマホの向こうで真由美が息をのむ。愛実の目頭が熱くなる。
「あみ、あんた。まさか子どもができたって、言っていないの?」
「うん……言えなかったの」
「言えなかったの?」
「そう、言えなかったの」
「なぜよ?」
真由美が泣いているのを、愛実が感じる。
「なんで言わなかったのよ?」
「……なんでだろう?」
愛実の返事に真由美が泣き笑いする。
「それをわたしが訊いているの――そんなに彼が好き?」
「うん。彼がいないと生きていけない」
「ナツミちゃんがいても?」
「ナツミはわたしのものじゃないから」
「彼はあみのものなの?」
「彼が言ったの。あみは僕のすべてだって」
「あみが彼のもの?」
「ううん。彼はわたしのすべて――彼はわたしの救いで、わたしの心で、わたしの生きる指標」
「彼があみを救った……あみが何かを抱え込んでいることはわたしも感じてた。そこから彼が救ってくれたのね? そんな人からなぜ離れたの?」
「あの時は――傍にいては彼のためにならないって思った。多分それが正解」
「あの時って言うことは、今は違うのね?」
「ううん、今もそうよ。何も変わらない。でもね――」
「でも?」
「時どき思うの。ううん、いつも思うの。彼に会いたい――でも無理、会っちゃいけない。彼の足を引っ張ることになる」
愛実の言葉に真由美が黙る。真由美が泣いていると愛実は思う。そして真由美が愛実も泣いていると気が付いていると感じる。真由美は愛実に同情して泣いているんだろうか?
やがて真由美の静かな声が聞こえる。
「あみ……もし、彼が世間から悪く言われないでいられるなら、彼のもとに帰りたい?」
「……そんな方法あるのかしら?」
「判らない。杉山先生に会ってみようかと思う。なぜあみを探しているのか聞いてみたい」
「ダメよ、そんなの!」
つい愛実が大声を出す。そして慌てて声を小さくする。襖の向こうではナツミが眠っている。
「それじゃ大野先生に訊いてみる? どっちにしたって訊いてみなくちゃ判らない。なぜ杉山先生が愛実を探しているのか。大野先生は今、愛実をどう思っているのか」
「彼がわたしを?」
「そう、戻ってきて欲しいと思っているのか、それともそれは困ると思っているのか。聞いてみなくちゃ判らないでしょう? それに、ナツミちゃんのことは、いつか必ず言わなきゃだめよ」
「ねぇ、真由美――もし、わたしが死ぬようなことがあったら、その時はナツミを彼のところに連れて行ってくれる?」
「馬鹿言わない!」
今度は真由美が怒鳴った。
「そんな縁起でもないこと言わないで」
「わたしがいつもしているリング、あれを持っていけば、ナツミはわたしの子だって彼には判る。彼から貰ったものよ。わたしと彼の名前が彫ってある」
真由美が深い溜息を吐く。
「あみのわからず屋はよく判った。とりあえず、わたしは杉山先生に会うわよ。あみの住所とかは教えない。それならいいでしょう?」
杉山はどうせナツミの存在を知っている。だったら真由美が会いに行っても問題はなさそうだと思った。
「どんな話をしたか、ちゃんと教えてくれる?」
「なによ、あみだって杉山先生がなんで自分を探しているのか気になってるんじゃない」
「うん。本音を言えば気になって仕方ない。でも、怖くて自分じゃ訊けない」
少しだけ真由美が黙る。
「そうね。判らないでもないわ……それじゃ、また電話する。自宅からの電話になるから、夜遅くになるけど、大丈夫ね?」
「うん、ありがとう。誰にも聞かれちゃいけない電話だものね」
「杉山先生は忙しいからいつ会えるかは判らない。でも、樋口愛実のことで、と言えば、必ず会ってくれるはず。だって、どんな小さな情報でも欲しいって言ってたらしいから……少し時間がかかると思うけど、思い悩んだりしないでね」
そう言って真由美は電話を切った。
その後しばらく愛実はパソコンの画面を見つめていた。目はパソコンを見ていたけれど、心は別のものを見ていた。そして一度目を閉じてから立ち上がる。
本棚の上段には大野懐空の本が並んでいる。デビューして五年、印刷された書籍としては七冊、それが多いのか少ないのか愛実には判らない。Web小説はもう何本になるのだろう? そのすべてを愛実は読んだ。
手を伸ばして一冊の本を取り、表紙を捲る。タイトルページには『ラブバードは羽搏かない』と印刷してあり、その下に『大野懐空』とある。懐空のデビュー作だ。じっくりとそのページを眺め、掌で撫でる。そしてゆっくりと次のページへと進む。
タイトルページの裏を愛実が見つめる。そこには『愛が実ると信じている』と印刷があった。何度も指でなぞり、何度もそのページに涙を落とした。文字のある部分はうっすらと手垢で汚れ、ところどころ紙がふやけた跡がある。
(懐空……会いたい。会いたくて堪らない)
今日も涙の跡がそのページに増える。
「ママ……」
ナツミの声が向こうの部屋から聞こえた。ハッとして、急いで涙を拭う。
「どうしたの? 目が覚めちゃった?」
愛実が行くとナツミがほっとした顔で愛実を見つめた。
「夢でよかった」
「いやな夢を見たの?」
「うん……ナツミを置いて、ママが一人でパパに会いに行っちゃうの。ナツミも必ず連れて行ってね」
思わず愛実が息をのむ。
「うん。その時は一緒よね」
やっとそう答え、もう一度寝ようね、と愛実はナツミに添い寝するようにナツミの寝具に自分を潜り込ませた。
嬉しそうにナツミが愛実に縋りついてくる。顔にかかった髪を愛実が指先で払うと、ふふっ、と笑って目を閉じた。掛け布団の上から、とんとんと体を叩いているうちに静かな寝息を立て始める。
もう、仕事をする気になれない。今夜はこのまま寝てしまおうか? そう思いながらナツミの顔を見つめ続ける。
生まれたての時は誰にも似ていないと思った。それなのに一時間もしないうち、懐空にそっくりだと思った。
子どもの顔は次々に、変わっていく。懐空にそっくりだと思ったのに、気が付くと自分にそっくりだと思い、しばらくすると、誰に似ているか判らなくなる。そして由紀恵に似ているのだと思いついたりする。今夜のナツミは懐空によく似ている。そっくりだと思う。それとともに、杉山に似ているのかも、とも思う。
そっとナツミの頬を撫でる。パパに会いに行くのなら一緒に連れて行って。ナツミははっきりそう言った。
ナツミは懐空に会いたがっている。懐空の写真はスマホの奥に隠して誰にも見せていない。ナツミにもだ。
それなのに、パパはいつ帰ってくるの、と愛実に問い、一緒に会いに行くと言う。そうかと思うとお友達に『うちはママとナツミの二人なの』と言っていたりする。その時のナツミから寂しさは感じられない。
ナツミは父親に会いたがっている。たとえ愛実との二人暮らしが寂しくなくても、ナツミは父親を求めている。そして――
自分の母親がその父親を恋しがっているのだと知っている。そう思えてならなかった。
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