きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

文字の大きさ
19 / 32

19

しおりを挟む
 原稿を送信して、ほっと息をき時計を見る。深夜一時を回ったところ、自分が立てた予定より少しばかり遅れたけれど、間に合ったのだから良しとするか。今日の十五時までに送ってくれと言われていた。

 そういえば空腹だ。由紀恵が運んだ食事はとっくに冷め切って、傍机に置かれたままだ。下に降りて温め直して食べてから、シャワーを浴びて寝よう。立ち上がろうとしてすぐそこにジョイが寝ているのに気が付いた。

 こんな時間になんでここにいる? 母さんはまだ寝ていないんだろうか? 懐空かいあが動いたのに気が付いて、ジョイが懐空を見上げ尻尾しっぽを嬉しそうに降る。

 見ればスマホが点滅し、着信を知らせている。由紀恵からのメッセージだった。

『帰ろうと思っていたけど無理みたい。ジョイをよろしくね』

 着信はついさっきだ。いつの間に出かけたのだろう。食事を運んでくれたのは十九時ころだ。懐空は食事を乗せたトレーをもって階下に降りた。

 ダイニングテーブルにトレーを置き、キッチンに行って薬缶やかんを火にかける。急須を洗う手間を省こうと、緑茶のティーバッグを取り出してマグカップに放り込み、個包装を捨てようと紙ごみ入れをなんとなく覗き込み、動きを止めた。紙ごみ入れは始末したばかりなのだろう、中には1枚のメモ用紙が丸めて放り込まれているだけだった。

 きっと由紀恵ゆきえは、『出かける』と書いたメモ用紙を思い直して捨てたんだ、と思った。懐空が愛実あいみがいなくなった時のことを思い出さないように――僕は母さんに心配ばかりかけている。そう思いながら、個包装を紙ごみ入れに捨てた。

 この家に帰ってすぐのころ、テーブルにメモ用紙があるのを見て僕が眩暈めまいを起こして倒れたことを、母さんは忘れていないんだ……

 ただの偶然なのに。眩暈を起こした時、たまたまテーブルにメモ用紙が置いてあった、それだけなのに由紀恵はそう思っていない。それとも僕が、いるだけなのだろうか?

 茶をれて、二階から持ってきたトレーを眺める。立ち上がり、トレーを持つと料理を冷蔵庫に入れた。すっかり食欲が失せていた。

 由紀恵からのメッセージを見て、着信時間を見た時に感じた吐き気が徐々に強くなっていくのを感じている。着信はついさっき……なら、今頃、母さんは――

 嫌だ! 嫌だ、そんなの嫌だ! 母さんがになっている。そんなの耐えられない。

 判っているけど耐えられない。勝手だと思うけれど嫌なものは嫌なんだ――肘をテーブルについて両手で頭を抱え込む。

 割り切れたと思っていた。最近は由紀恵が出かけて帰ってこなくても、と、何も感じなくなっていた。それが、相手の男に会って欲しいと由紀恵が言い出してから、再び強い嫌悪感に見舞われるようになった。

 僕はただ、現実から目を背けていただけか? 見て見ないふりをしていただけなのか?

 愛実に会いたいと思った。愛実がいたら、どんな言葉を僕にくれるだろう? 懐空は少しも変じゃないよ、と言ってくれるだろうか? そして優しくさとしてくれるだろうか?

 懐空が母親の恋人の存在に気が付いた時、愛実は『素敵ね』と言い、『お母さんは幸せなのね』と言った。そして『二十二年間、懐空だけのお母さんだったのだから』懐空が寂しく思っても仕方ないよと言ってくれた。それだけで、スーッと落ち着けた。

 この家に帰ってきてからも、由紀恵は毎月男に会いに行っていた。嬉しそうな顔で出かける由紀恵に、一抹の寂しさは感じたものの、その頃は今ほど嫌な気分にならなかった。

 懐空の前から愛実は消えた。恋人を失うつらさを、母さんには味わって欲しくない、そんな気持ちもあった。母さんが打ち明けてきたら、なんて言って祝福しよう、そんなことを考えるときもあった。

 それなのに、いつまでたっても由紀恵は何も言いださない。今日はデートかい? 懐空が話を振っても、友達と会うだけよ、としか言わない。

 知らされなければ想像たくましくなっていく。そして想像は妄想を呼ぶ。

 近頃では、懐空にとって由紀恵の恋人は、大事な母親を都合よく利用している敵であり、その敵と由紀恵は二人で懐空をけ者にしてないがしろにしているようにしか感じられなくなっていた。

 だから思った。僕には関係ないことなんだ。それなのに、なんで今更僕を巻き込む?

「そうだよね、懐空がそう感じるのも無理ないよね」
愛実はそう言って、その腕で懐空の頭を包み込んでくれるだろう。

「でも、判っているんでしょう? そうじゃないんだって」
優しい声でそう言ってくれただろう。

 付き合うようになる前から愛実はいつも懐空に言葉をくれた。その言葉はいつも懐空を前に向かせてくれた。

 父親のことで落ち込む懐空に『肝心なのは懐空がどんな男になるかだ』と言ってくれた。付き合っていた彼女との関係に悩む懐空に『恋は責任感や義務感でするものじゃない』と言ってくれ、懐空の気持ちを軽くしてくれた。

 恋人の裏切りに苦しむ懐空に何も聞かず『泣きたいときは我慢しちゃダメ』と言って、愛実は懐空に泣き場所をくれた。その後も、何があったか聞くこともなく、他愛ないおしゃべりで懐空の気持ちを引き立たせてくれた。

 やっと懐空が彼女のことを愛実に打ち明け、自分にも落ち度があったと言った時、『そうかもね』と愛実は言って、懐空を驚かせ、そして安心させてくれた。同じことを言ったら、忠司ただしは絶対そんなことはないと全否定した。きっと愛実も同じ反応だろうと思っていたのに、そうかもね、と愛実に言われ、そうだ、やっぱり自分にもよくないところがあったんだ、すっきり認めることができ、これで前に進めると思った。

 満里奈まりなに、どうして愛実を好きになったか尋ねられた時、よく考えもせず、『心が揺れて崩れそうになった。それを支えてくれたから』と答えたことを思い出す。

 満里奈に答えた時はなんとなくそう思っただけだったけれど、こうやって考えてみると、その通りだったんだと思う。僕には愛実が必要だった。そして今も必要なんだ。だからこんなに恋しくて、会いたくて、どうしようもないんだ。

 そして不意に思考が元に戻る。何度も愛実と愛し合った。自分たちの行為は『愛』で、母さんと恋人の行為はなぜ『不潔』に感じるのだろう?

 同時に愛実との夜を思い出す。

 愛実は子どもを欲しがっていた。もし、僕が躊躇ためらうことなく求めに応じていたら、愛実はいなくならなかったんじゃないか? あの時は、愛実に負担をかけたくないと本気で思っていたけれど、本当にそうだったか?――違う気がする。

 確かに経済的に困窮することもあったかもしれない。でも、愛実がいたし、由紀恵だって必ず助けてくれたはずだ。少しの間を乗り切れればなんとかなったものを、僕は自分のプライドを守るため、拒んだんじゃないのか?

 子どものことはもう少し落ち着いてから考えよう、その言葉は愛実の気持ちを踏みにじっていなかったか? 懐空の卒業前に子どもができていたならば、愛実がどこかに行ってしまうことはなかったんじゃないのか?

 そう考えて、再び懐空の物思いが由紀恵に戻る――もし、由紀恵の恋人が懐空の父親だとしたら?

 子どものころ、懐空は自分に父親がいないと言うことを信じて疑わなかった。成長に伴い、必ず存在すると言うことは理解した。だけど、自分の父親がどんな人なのか、生きているのか、そんなことを由紀恵に問いただしたこともなければ、由紀恵が語ることもなかった。

 もしその父親が生きていて、由紀恵と再会し、再び愛を共にするようになったのだとしたら?

(そうか……)
すっかり冷めてしまったマグカップを手に取り、お茶を口に含む。

(僕が母さんの恋人を認めたくないのは、僕にとって他人だからか?)
でもやっぱり少し違う。もしも由紀恵の恋人が懐空の実の父だとしても、すんなり受け入れられそうもない。

 二人が別れた理由が懐空の納得いくものでなければ、父親だと言う事実がむしろ懐空の怒りを燃え上がらせるだろう。由紀恵の職場の人は、どんな話を知っていたのか判らないが、懐空の父親を『酷い男』と言っていた。どう酷いのかまでは判らない。だけど……

 二人が愛し合うことに、今ほど嫌悪感をいだかない気がする。だって、二人が愛し合わなければ、僕は生まれなかった。二人を嫌悪するならば、僕は僕を一番に嫌悪することになる。いや、『酷い男』と聞いた時でさえ、自分にその血が流れていることに思い悩んだ。今度こそどうにかなりそうな気がする。

 出かけていくときの由紀恵の顔を思い出す。母さんは、少なくとも今の相手を愛している。僕に対して後ろめたさを感じても、相手に会える喜びを隠しきれていない。後ろめたさを感じるのはその人といるとき、きっと『母親』ではなくなるからだ。『子』である僕に対する遠慮だ。

 そして思った。僕は母さんに愛されている。だったら……今の相手が誰であれ、僕を身籠ったとき、母さんは僕の父親をきっと愛していたはずだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

サンスクミ〜学園のアイドルと偶然同じバイト先になったら俺を3度も振った美少女までついてきた〜

野谷 海
恋愛
「俺、やっぱり君が好きだ! 付き合って欲しい!」   「ごめんね青嶋くん……やっぱり青嶋くんとは付き合えない……」 この3度目の告白にも敗れ、青嶋将は大好きな小浦舞への想いを胸の内へとしまい込んで前に進む。 半年ほど経ち、彼らは何の因果か同じクラスになっていた。 別のクラスでも仲の良かった去年とは違い、距離が近くなったにも関わらず2人が会話をする事はない。 そんな折、将がアルバイトする焼鳥屋に入ってきた新人が同じ学校の同級生で、さらには舞の親友だった。 学校とアルバイト先を巻き込んでもつれる彼らの奇妙な三角関係ははたしてーー ⭐︎第3部より毎週月・木・土曜日の朝7時に最新話を投稿します。 ⭐︎もしも気に入って頂けたら、ぜひブックマークやいいね、コメントなど頂けるととても励みになります。 ※表紙絵、挿絵はAI作成です。 ※この作品はフィクションであり、作中に登場する人物、団体等は全て架空です。

身代わり召喚された俺は四人の支配者に溺愛される〜囲い込まれて逃げられません〜

たら昆布
BL
間違って異世界召喚された青年が4人の男に愛される話

中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています

浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】 ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!? 激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。 目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。 もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。 セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。 戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。 けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。 「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの? これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、 ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。 ※小説家になろうにも掲載中です。

お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない!?

すずなり。
恋愛
幼いころ、母に施設に預けられた鈴(すず)。 お母さん「病気を治して迎えにくるから待ってて?」 その母は・・迎えにくることは無かった。 代わりに迎えに来た『父』と『兄』。 私の引き取り先は『本当の家』だった。 お父さん「鈴の家だよ?」 鈴「私・・一緒に暮らしていいんでしょうか・・。」 新しい家で始まる生活。 でも私は・・・お母さんの病気の遺伝子を受け継いでる・・・。 鈴「うぁ・・・・。」 兄「鈴!?」 倒れることが多くなっていく日々・・・。 そんな中でも『恋』は私の都合なんて考えてくれない。 『もう・・妹にみれない・・・。』 『お兄ちゃん・・・。』 「お前のこと、施設にいたころから好きだった・・・!」 「ーーーーっ!」 ※本編には病名や治療法、薬などいろいろ出てきますが、全て想像の世界のお話です。現実世界とは一切関係ありません。 ※コメントや感想などは受け付けることはできません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 ※孤児、脱字などチェックはしてますが漏れもあります。ご容赦ください。 ※表現不足なども重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけたら幸いです。(それはもう『へぇー・・』ぐらいに。)

【完結】男の後輩に告白されたオレと、様子のおかしくなった幼なじみの話

須宮りんこ
BL
【あらすじ】 高校三年生の椿叶太には女子からモテまくりの幼なじみ・五十嵐青がいる。 二人は顔を合わせば絡む仲ではあるものの、叶太にとって青は生意気な幼なじみでしかない。 そんなある日、叶太は北村という一つ下の後輩・北村から告白される。 青いわく友達目線で見ても北村はいい奴らしい。しかも青とは違い、素直で礼儀正しい北村に叶太は好感を持つ。北村の希望もあって、まずは普通の先輩後輩として付き合いをはじめることに。 けれど叶太が北村に告白されたことを知った青の様子が、その日からおかしくなって――? ※本編完結済み。後日談連載中。

処理中です...