きみの嘘。ぼくの罪。すべてが『おもいでだ』としても

寄賀あける

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 タオルでひたいの汗をぬぐう。じっとりと汗をいているのは、昼寝する懐海なつみのために弱めたエアコンのせいだけではない。真由美まゆみとの会話を思い出し、自分で自分を追いつめているからだ。

 もし懐空かいあがナツミの存在を知ったら、どう思うだろう? その真由美の問いかけが愛実を責める。

 子どもが欲しいという愛実あいみに懐空は、今は待ってと言い、子どもたちの母親になって、と言った。

 もし、できたらどうするかという問いには迷いもせずにと答えた。愛実から見た懐空は常にブレることなく、前を見ているように見えた。一度決めたら突き進むタイプ、それでいて必要と感じれば柔軟に対応する、そんな人だ。

 そんな懐空だから、妊娠に気が付いた愛実はそばに居てはいけない、と考えた。懐空の優先順位が変わってしまうと思った。

 ふと愛実は思う。なぜ懐空はわたしを好きになったのだろう。アパートの隣人、時おり顔をあわせ、アパートにあった桜の木の下でちょっとだけ会話し、たまにくる地域猫のサクラにいやしてもらう仲間で、ほんの少しだけ互いに同情したり慰めあったり、それだけの関係だった。

 接近していったのは愛実のほうからだ。自宅で仕事をするようになり、話し相手が欲しくなると何かしら理由をつけて懐空の部屋を訪ねるようになった。

 最初は戸惑ったが拒絶することもなく、懐空は部屋に入れてくれた。きっと愛実を意識していなかったからだ。そして二人きりの部屋で過ごしても、桜の木の下で過ごすのと同じ時間が流れていた。

 愛実の母親は三つ違いの弟だけに愛情を注ぎ、愛実をかえりみることがなかった。母と呼べばうるさいとののしられ、顔も見たくないと目をらした。その母に溺愛された弟は愛実を姉とは認識していたようだが、姉と慕われたことはない。母と一緒にさげすんだ目を愛実に向けた。

 もし、ごく普通の姉弟の関係が築けていたら、こんなふうに笑って会話することもあったのかもしれない、と懐空と話しながら何度思ったことだろう。まったく気を使わないわけではないけれど、懐空との時間は肩の張らない、楽しい時間だった。

 話し相手が欲しい、なんて言い訳だったのかもしれない。初めて懐空を見た時のことを愛実は思い出す。親の愛をけて育った真直ぐな瞳、それを羨ましいと思い、憧れた。あの瞳で見つめて欲しいと思い、同時に見られたくないと思った。見詰められたい、でも、あの目はきっと自分のけがれを見抜く、と感じた。そして思う。あの時からわたしの無意識は懐空を求め始めていたのではないだろうか。

 だとしたらわたしはなんて罪深いのだろう。さして恋愛経験のない初心うぶな若い男を、どこかで誘惑してはいなかったか? 自分でも気が付かないうちに、欲望を刺激したりしなかったか?

 今となっては判らない。意識してそうした覚えはなかったけれど、気安く腕や肩や背中に触れたことが何度もあったように思える。それが懐空の中に眠る男を刺激していないと言い切れない。

 つまりわたしは、と愛実が思う。その気がないフリをして、懐空を誘惑し、その気になった懐空を拒んでさらに気持ちをあおった――きっとそうだ。

 地域猫のサクラの死に打ちひしがれ、心のり所を亡くしたと感じた愛実は、誰にも愛されたことがない、親にさえも愛されなかった、と泣いた。親にも愛されなかった自分は誰からもがないと泣く愛実に、『僕が愛している』と懐空は言った。

 その言葉をわたしは待っていなかったか? 愛実は自分に問いかける。誰にも愛されない、愛される資格がないと言いながら、それを否定してくれる誰か、愛してくれる誰かを、わたしは待ちびていたのではないか?

 父親からの長年に渡る虐待で肉欲を教え込まれた身体が、心と裏腹にを求める。逃れようと足掻あがいてもからみついてくる呪詛じゅそに苦しむ愛実を、僕がいると懐空は守ろうとした。

 知られれば非難され、さげまれ、離れていくと思っていたのに、愛実の告白を聞いても懐空は愛実から逃げなかった。愛実は少しも悪くない、と言った。そして……

「僕にはあみの苦しさなんか判らないんだ。本音を言えば、判ろうとも思ってないし、判るはずないと思ってる――判ろうと思えば、それは同情だ。判ったつもりになってしまう。それよりも僕は、そこにあるものとして受け止めよう。あみは心に傷を負っている。その傷は僕が頑張ってもえる事はないだろう。あみが癒すしかない傷だ。僕にできる事は、僕の愛しい人が傷を負っているという事をという事だけなんだ」

 愛実が悪夢にうなされるなら、一生 僕が抱いて眠る。夢から目覚めさせ、僕がここにいて、あみがここにいる、それが現実だよと何度でもささやこう。生きているのは過去ではなく、未来へ続く今だ。手を取り合って未来を築いていこう。

「僕はあみの気持ちを知ってる。あみは僕から離れたくないんだ。あみは僕のことが好きなんだ。あみは自分に素直でいる事をときどき忘れる。僕はそばにいて、そのたび『素直になりな』ってあみに言う。覚悟しておくんだよ」

 いつでも前を見ている懐空、ブレることのない懐空……

 もし懐空がナツミの存在を知ったならどう思うだろう? そう真由美に問われた時、今更言えない、と真っ先に思った。もし言うのなら、妊娠を知った時、それしかないと思った。もうその時に戻ることはできない。五年も前に過ぎてしまった。

 懐空にとって一番に優先すべきは愛実のこと、それでもあの時、懐空は掴んだチャンスに挑戦することを選んだ。慎重で堅実な懐空を愛実は知っている。先を見据えた準備を怠らず、努力を重ねることを忘れない。確実にできることを常に選び、決して無茶をしない。そんな懐空が、挑戦したいと言った。

 許して欲しい。愛実に負担をかけることになるかもしれない――その言葉は、少しでも愛実のためになるようにと、いつも懐空が考えている証拠だと思った。そんな懐空が初めて愛実に、苦労を一緒に背負って欲しいと言ってくれたのだと愛実は感じていた。

 嬉しかったし、安心もした。これで自分は懐空に負担をかけるだけの存在でなくなったと思った。だから……

 妊娠を知った時、懐空には言えないと思った。懐空が知ればきっと軌道修正する。愛実は決して負担とは思わなかったけれど、懐空にとっては愛実に負担をかける専業作家は諦めるだろう。 

 愛実に負担をかけてでも、と口にするのに、懐空はどれほど悩み考えたことか。わざわざ言いはしないが、相当の覚悟をしていると思った。その覚悟をひるがえさせていいものか。軌道を間違った方向に修正させてはいけない。

 だから何も言わずに懐空から離れた。それが懐空にとって一番だと思った。

(懐空にとって一番……)

 ナツミの寝顔を見つめていた愛実が気付く。

(わたしは自分にとって一番大事な懐空のために、懐空の子であるナツミを犠牲にしているんだ)

 子どもを犠牲にするなんて、きっと懐空は許さない。愛実が自分のい立ちを告白した時、懐空は何度も怒りをたぎらせていたと、愛実は感じている。あの怒りは愛実への虐待だからというのもあるだろうが、それ以上に、幼い子どもへの虐待だったからではないか。

 今、わたしにできるはなんだろう? このままここでナツミと二人、懐空から離れて暮らす? ナツミに懐空のことを知らせないのは無理だ。すでにナツミは懐空に気が付いている。隠しようもなくなるのが見えている。

 懐空の強さが懐かしい。真直ぐに進みたがるのに、間違いに気が付けば修正することを恐れない。見習わなくてはいけない――

 でも、どうしろと? あの時言えなかったのに、今更なんていう? 子どもが生まれたの。あなたの子よ。

 そんなこと言えない。そんなこと言ったら、そんなこと知ったら――懐空はどんな顔をするのだろう? なんと愛実に言うだろう?

 愛実の脳裏に懐空の顔が浮かぶ。いつも通りの穏やかな笑顔を見せる。

「一人で頑張らなくていいんだよ――約束だ。二人で未来を築いていこう」

 懐空の声が聞こえた気がした。濡れた頬に手を伸ばす。涙が温かいことを、愛実は思い出していた。
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