4 / 10
その音……3(完)
しおりを挟む
『もはや己に勝ち目はあらず。そうとなれば憎き女子を道連れに死するのみ』
「ひょっとしたら殺されているのか、と思っていた妹が無事だと知った安堵に、吾はつい出遅れてしまった。庭に飛び出したヤツを追ったが、見当たらない。どこに行ったかと探してみれば、白い土壁に設えられた窓が開け放たれているのに気が付いた。覗き込めば中に床はなく、随分と低いところに土間があるだけだ。そこに、汝と、汝の母と、ヤツがいた」
慌てて飛び降りると、ヤツは咽喉を掻き切って息絶えたあと、ヤツに斬りつけられた汝の母は虫の息で、かすれる声で吾に訴えた。
『兄者……すべて誤解じゃ』
「吾は何度も頷いた。判っている、と妹に答えてやった。汝が慕ったのは己の夫だけだと、ちゃんと判っているぞ、と答えてやった。妹が納得したかは判らない。息を引き取る間際に娘のほうを見て吾を見詰めた。それに吾は頷いた。そして妹は薄く微笑むと目を閉じ、それきり動かなくなった」
吾は己の不明を恥じた。館を訪ねてくる度に見せたヤツの妹に向ける視線、そして妹がヤツの前で見せる仕種、それだけを信じて娶わせた結果がこれだ。
「汝は傍らで、その一部始終を見ていた。己の父によって幽閉された母、そして父によって殺された母親を……壁には汝の言うとおり、爪で掻いたあとがあった。キリキリという音はその時、心に刻まれた音なのであろう」
自ら命を絶った実の父は、公には物の怪に憑りつかれ、罪のない者を殺めたため成敗され、その妻は驚きと悲しみのあまり自害したことになっていると言う。そしてそれから十余年が過ぎたのだ。
その夜、やはり月は赤く、だが燃えるような赤味は消え始めていた。
父者は長い話のあと、『汝を責める者は誰もいはしない』と言い置いて部屋を後にした。上の兄者は、何か言いたげだったが、迷ったあげく『大事にしろ』とだけ言って部屋を辞した。それは、身体を大事にとも、もっと違う意味にもとれた。母者だけはしばらく傍に寄り添い、吾が寝入るのを黙って見守っていてくれた。
目覚めたのはどれほど眠ってからだろう。差し込む光は月が高く上がっていると教えている。
予感に誘われて、吾は部屋の戸を開けると庭を見た。思ったとおりそこには地に座し、そして吾を見上げている涼しげな瞳があった。吾もまた、その瞳を見詰めた。全てが明かされたためなのか、もうあの、キリリと吾を責める音は聞こえない。思ってみればあの音は、後ろめたさが己を責める音だったのかもしれぬ。
「いつからそこに?」
「……母者が己の居室に戻ってからだ」
吾が訊きたかったのはそんなことではなかった。上の兄者が言っていた、婚儀が決まってから魘されるようになった、と。ならば鷹目は婚儀が決まる以前からここにこうしていることがあったのだろう。いったいそれはいつ頃からか、心惹かれたのはどちらが先か、急に知りたくなった。だが、そんなことはどうでもよいと思い直し、別のことを尋ねた。
「明後日までに月は色を戻すであろうか?」
鷹目ははっと吾を見たが、すぐに視線を月に投げた。
「妻になってくれるのか?」
「……妻にしてはくれぬのか?」
ゆっくりと鷹目が吾に向き直った。
月はさらに清らかな光を増したようである。
「ひょっとしたら殺されているのか、と思っていた妹が無事だと知った安堵に、吾はつい出遅れてしまった。庭に飛び出したヤツを追ったが、見当たらない。どこに行ったかと探してみれば、白い土壁に設えられた窓が開け放たれているのに気が付いた。覗き込めば中に床はなく、随分と低いところに土間があるだけだ。そこに、汝と、汝の母と、ヤツがいた」
慌てて飛び降りると、ヤツは咽喉を掻き切って息絶えたあと、ヤツに斬りつけられた汝の母は虫の息で、かすれる声で吾に訴えた。
『兄者……すべて誤解じゃ』
「吾は何度も頷いた。判っている、と妹に答えてやった。汝が慕ったのは己の夫だけだと、ちゃんと判っているぞ、と答えてやった。妹が納得したかは判らない。息を引き取る間際に娘のほうを見て吾を見詰めた。それに吾は頷いた。そして妹は薄く微笑むと目を閉じ、それきり動かなくなった」
吾は己の不明を恥じた。館を訪ねてくる度に見せたヤツの妹に向ける視線、そして妹がヤツの前で見せる仕種、それだけを信じて娶わせた結果がこれだ。
「汝は傍らで、その一部始終を見ていた。己の父によって幽閉された母、そして父によって殺された母親を……壁には汝の言うとおり、爪で掻いたあとがあった。キリキリという音はその時、心に刻まれた音なのであろう」
自ら命を絶った実の父は、公には物の怪に憑りつかれ、罪のない者を殺めたため成敗され、その妻は驚きと悲しみのあまり自害したことになっていると言う。そしてそれから十余年が過ぎたのだ。
その夜、やはり月は赤く、だが燃えるような赤味は消え始めていた。
父者は長い話のあと、『汝を責める者は誰もいはしない』と言い置いて部屋を後にした。上の兄者は、何か言いたげだったが、迷ったあげく『大事にしろ』とだけ言って部屋を辞した。それは、身体を大事にとも、もっと違う意味にもとれた。母者だけはしばらく傍に寄り添い、吾が寝入るのを黙って見守っていてくれた。
目覚めたのはどれほど眠ってからだろう。差し込む光は月が高く上がっていると教えている。
予感に誘われて、吾は部屋の戸を開けると庭を見た。思ったとおりそこには地に座し、そして吾を見上げている涼しげな瞳があった。吾もまた、その瞳を見詰めた。全てが明かされたためなのか、もうあの、キリリと吾を責める音は聞こえない。思ってみればあの音は、後ろめたさが己を責める音だったのかもしれぬ。
「いつからそこに?」
「……母者が己の居室に戻ってからだ」
吾が訊きたかったのはそんなことではなかった。上の兄者が言っていた、婚儀が決まってから魘されるようになった、と。ならば鷹目は婚儀が決まる以前からここにこうしていることがあったのだろう。いったいそれはいつ頃からか、心惹かれたのはどちらが先か、急に知りたくなった。だが、そんなことはどうでもよいと思い直し、別のことを尋ねた。
「明後日までに月は色を戻すであろうか?」
鷹目ははっと吾を見たが、すぐに視線を月に投げた。
「妻になってくれるのか?」
「……妻にしてはくれぬのか?」
ゆっくりと鷹目が吾に向き直った。
月はさらに清らかな光を増したようである。
10
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる