抒情小編⋆収納箱

寄賀あける

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 すうっと首筋を撫でた冷たさに、私はびくっと振り向いた。いきなり踏まれたブレーキがキキキィッと音を立てる。

「なによ、危ないじゃない」
大きく前のめりに揺らされて、女が苦情を告げた。

「冷たい手で急に触るからだ」
もう女の手は私の首には居ない。それでも残った感触に身震いする。

 ふふふ……女は薄笑いを浮かべて後部座席にゆったりと座り直した。それを確認すると、私はタバコに火をつけ、煙を逃がすために窓を細く開けた。

「私、あなたのうなじが好きよ――セクシーだわ」
艶やかな唇をルームミラー越しに眺めながら、私は再び車を走らせた。こんな事が何度もあったな、と思い出しながら・・・

 湖の形に沿って曲線を描く道がヘッドライトに浮かんで消える。三日月に照らされた湖面が木々の間に、見えて隠れる。風のない夜、私が走らせる車が起こす風だけが路側の草をなびかせていた。

 助手席ではなく、後部座席に当たり前の顔をして座る女、それでも私は彼女を愛していた。彼女にとって私は、その指を飾る宝石と同じアクセサリーに過ぎない。ただ少しばかり見映えがよく彼女を飾ることができる、それだけの事で恋の相手に選ばれた――それでも私は彼女を愛していた。見栄を張ることを生きがいとしているような女に、なぜ私は惚れたのだろうとつくづく思う。

 それでも私は確かに彼女を愛していた。今となっては彼女だけが私の生きがいだった。

「あなたのうなじが好きよ」
よくそう言って、女は私の首に触れてきた。そして口づけを催促するのだ。私は女に顔を埋め、女に心を埋めた。私も彼女の白いうなじが好きだった。艶やかな唇も、やさしく盛り上がった脹らみも、すべて私のものだと信じていた。

 だから別れを言い渡されたとき、私は慌てた。彼女のために失ったものは大きい。妻も、子も、名声も、みな彼女のために私は捨てた。だが名声を失った私では彼女の飾りにはなれないのだ。

「――!」
再び冷たい手が私の首筋を撫でた。だが私はもう驚かなかった。私をからかって楽しんでいるのは判っている。

 いや、あるいは今のは妻かもしれない。ルームミラーでみると、二人はなにを話すでもなく、仲よく後部座席におさまっている。きっとお互いの存在を知らぬままなのだろう。そのほうが平和だ……

「あなた、奥さんいるんでしょ? そこに戻ったらいいわ」
蔑んだ目が私を嘲笑う。
「何もかもなくしたあなたを受け入れてくれるかどうかは知らないけどね」

 私にもう用はないと言う女に、私はどうすることもできなかった。だからこうして今、車を走らせている。そして女の言うとおり、惨めな私に妻は冷たかった。元のさやに収まるどころか、何もかもなくした私に妻が切り出したのは慰謝料の話だった。

「あなたと結婚して以来、私があなたにもらったものはこのネックレスだけよ」
細い鎖を引き千切り、妻はヒステリックに私を責めた。それは事実だった。だが……そのネックレスは無名のころの私がやっとの思いで買ったもの、一生大事にすると言ったのを妻は忘れてしまったのか。

 許しを乞うことも許されず、私になす術はなかった。怒りを感じていただけだ。その怒りは妻へのものか、私自身へのものなのか、あるいは女へのものなのか、自分にすらよくは判らない。そして気がつけばこうして車を走らせていた。

 急なカーブで、後ろの二人が大きく揺れた。また私の首筋を冷たい手がさっと触った。あるいはそれは煙を逃がすために開けた窓から入り込んだ風なのかもしれない。風が私の首筋を通り抜けただけなのかもしれない……だが、そんなことはもう、どうでもいいことだ。風だろうが手だろうが、冷たいことに変わりはない。

 月は細く空に輝いている。研ぎ澄まされたナイフのようだ。二人の首を切り裂いたナイフも冷たかったに違いない。

 私は窓を閉めた。だが風は、このドライブが終わるまで、私の首を撫で続けるだろう。後ろにいる、私に殺された二人の代わりに吹き続けるのだろう。

 そして私は車を走らせた。首筋に冷たい感触を感じながら、探すのは死に場所だった。
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