幸せな花嫁

寄賀あける

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 お師匠さんにおいとますると『帰りますよ』と言ったきり手代てだいは口をきいてくれない。お琴を持ってあたしの後ろをついて来るけど振り返れば『前をお向きください』と言うだけ、立ち止まれば立ち止まって待つ。

 行きはお稽古の時間があるから『お急ぎください』と言われもしたけれど、帰りの今は先を急ぐこともない。できればどこかに寄り道して、おっさんが言うように思いのたけをぶつけてみたい。だけど歩きながらする話じゃないし、だいたい後ろにいる相手に話しかけるなんて難しい。

「あっ……」
考えあぐねていると、不意に手代の声が聞こえた。

 思わず振り返ると、琴の上にちょこんと乗って温和おとなしくしていた子猫がどうやら飛び降りて、手代を驚かせたようだ。
「おまえ、どこへ行く」
子猫は我が物顔でするするとどこかへ行こうとする。琴を持っているせいで、手代はすぐには捕まえられなかった。

 子猫はあたしの足元もすり抜け、弁天さまの境内に入ってしまった。嬉しくて、思わず笑ってしまった。あたしの思いを打ち明けるのに、弁天さまとは丁度いい。

「お琴の上達をお願いしに、弁天さまにお参りして帰りましょう」
こうなれば、手代はあたしに逆らえない。

 節分の昨日と違って弁天さまの境内は閑散としていた。子猫はお手水ちょうずの前でチロチロ流れる水を眺めている。手代が近づくと、自分から手代の体をよじ登り、頃合いの良いところに納まった。

「ちょっと待っておいで」
形ばかりの……いいえ、本気で本気のお参りをすませる。どうぞあたしの思いが手代てだいに届きますように。

 お手水の前で手代は待っている。その先に赤い椿の花が見える。お手水の前よりあそこがいい。そっけない場所よりも美しい花の前のほうが今のあたしにきっと有利だ。やはりあたしはおっ母さんの娘だ。やる、となればどうすれば自分の思いが通るか、しっかり計算している、肝が据わっている。

 すいっと、手代の横をすり抜け、椿の前に出る。花を眺めるふりをしながら手代を待っていると、手代は少し離れたところで歩みを止め、あたしが歩き出すのを待っているようだ。

「あ、痛っ……」
枝を手折ろうとして指を傷つけた。
「お嬢さんっ!」
慌てて手代が駆け寄ってくる。
「大丈夫、心配いらない」
指を咥えながらそう言うと、琴を傍らに置いて
「お見せ下さい、ちゃんと手当てしないと……」
と、手を差し出した。

「あら、心配してくれるの? 嬉しい事」
「大事なお嬢さんにお怪我があっては旦那さまに顔向けできません」
「なぁんだ、自分の心配をしているのね」
「滅相もない……」
いけない、いけない、こんな憎まれ口がいけないのよ。あたしは素直にならなくてはいけない。

「あたしを心配してくれたと思って、嬉しかったのに」
手代を見つめる。きっとあたしの顔は不安でいっぱいの事だろう。もし、目を逸らされてしまったら。それは拒絶を意味するかもしれない。

「お嬢さん……」
手代は迷うように、あたしの目を覗きこんでくる。
「お嬢さんはあたしのことをお好きだと、勘違いなさってはいないでしょうか?」
「そんな……」
あたしを拒むだけでは足りず、あたしの気持ちまで否定しようとおまえは言うのかい? 足元が崩れてしまう。

「あたしはね、あたしはね」
言葉と同時に涙が溢れてきて、目の前がかすむ。おい、あたし、肝が据わったのではなかったの?

「あたしはずっとおまえのことを……おまえを思っていると言うのに、どうしておまえは気が付いてくれないの?」

 いったん溢れ出た気持は収まらず、止めようとしても止まらない。泣きじゃくりながらあたしは手代に訴えた。こんな子どもじみたことしちゃダメ、と自分に言い聞かせてもどうにかなるもんじゃない。

「子どものころからそうよ、喜んで欲しかったからお菓子の時間に呼ぶのに、おまえったらおっさんにはお礼を言うのに、あたしには目もくれない。嫌みの一つも言いたくなるじゃないの」

 おまえを呼んだのはいつだってあたしなのに、そんなこともおまえは気が付いていないのでしょう?

「あたしが頼めばいつも、はい、はい、って聞いてくれるし、そのくせ我儘過ぎるかな、って自分でも思っていると、それは旦那さまに伺ってからにしましょうって」
そんなおまえを信頼して頼りと思う、あたしのどこが可怪おかしいの?

「お嬢さん、お嬢さん……」
手代てだい狼狽うろたえているようだ。

「ここでは人目もありますし、どうぞ泣くのはおやめください」
「そうできればしてるわよ」
あぁ、また嫌味を言ってしまう。

「あたしなんぞにお嬢さんは勿体なさ過ぎます」
手代の言葉、
「ありふれた言い訳なんか聞きたくない」
と言うあたしに手代は続けた。

「丁稚のころのお話しですが、お嬢さまはあたしには眩し過ぎて、見ることさえしてはいけない、そんなおかただとご存知ですか?」
 主人あるじのお嬢さんは主人あるじなのです。やたらと見るなど無礼はできません。声をお掛けするなどとんでもない。それをお嬢さんはご存知ですか?

「わかった、それじゃ、もう子どものころの話はしない」
でも、だったら今は? おっつぁんから話は聞いてくれたのでしょう、それでどう思ったの? あたしが嫌い?

「嫌うなんてあり得ません。お嬢さんは大事なお人。お守りするのはあたしの勤め。しかし、そんなあたしがお嬢さんと夫婦になぞ、果たしてなってよいものでしょうか」
「あたしはね、あたしはね」
また新しい涙が溢れてくる。
「大事にして欲しいわけじゃないの。守って欲しいわけでもないの」
ただ、ただ……おまえの笑顔が見たいだけなの。

「うちに来て、初めておっさんがおまえを呼んでお菓子をふるまったとき、そうね、あの時は母がおまえを呼んだんだったわ ――あの時お菓子を食べたおまえの顔がとっても嬉しそうで、幸せそうで、その顔をまた見たいと思って、あたしはおまえを呼ぶようになったんだわ」
おまえの笑顔があたしの喜びだったのよ。

「それをおまえに否定させない。あたしはおまえが好きだし、おまえの笑顔が好きだし、笑顔が幸せの証ってことも知ってる。あたしはおまえの笑顔で笑顔になれるのよ。だから、おまえはあたしの幸せだし、それはあたしがおまえを好いてるってことよ」

 おっ母さん、思いのたけをぶつけるって、これで良かったの? 手代は困ったような、不思議そうな、悩ましそうな、悲しそうな、怒ったような、いろんな顔をしてあたしを見ているわ。

「それで、おまえはどうなの?」
あたしはなおも言い募った。

「あたしでは、おまえの幸せにはなれないの?」
はっと、手代があたしを見た。

「お嬢さんは、あたしの幸せまで心配なさるのですか?」
「当り前じゃないの。おまえが幸せじゃなきゃ、あたしは幸せになれないのよ」
さっきから言ってるじゃないの、おまえの笑顔があたしの幸せ、って。

 手代は目をつぶると、何か考えているようだ。それから静かに目を開き、あたしを見つめてこう言ってくれた。
「あたしでいいんですね? お嬢さんがそうおっしゃるなら、あたしに異存はございません」
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