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Chapter 5 『ミュージック・ボックス』

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 成田和弥は既に死んでいた。ただ死んでいた訳ではく、前城一樹として死んでいた。

 どう伝えれば、小峰を納得させる事が出来るのだろうか? いや、例え納得させる事が出来なくても、蔵前の話を脚色なしに伝えるしか術はない。理解し難い話だとしても判断は小峰に委ねるしかない。

 いつまでも悩んでいても仕方がない。小さく息を吐きゆっくり宙を仰いでみる。だがキーボードに置いたままの指が動き出す事はない。

「さっきからずっと固まっていますね」

 並んで書類へ向かっていたはずの君生が、グラスにビールを注ぎながら首を伸ばしてくる。

「何だ。お前は余裕だな」

「だってあんな話を報告書に上げたら、何を言われるか分からないじゃないですか。神のパワーなんて俺は信じていないですし、自分が信じられない非現実的な話。そもそも報告できないですから。まあ、捜査は別のアプローチで進める事になるんじゃないですか」

 グラスに口を付けるその顔がやけに澄ましたもので羨ましくもあったが、煮え切らない何かが上昇してくる。

「別のアプローチって何だよ。ホモ狩り犯三人が殺されて、その三人に関わっていた成田と前城はあの教団にいたんだ。そして成田は前城として死んだ。成田が前城になったって事は事実なんだ。お前も写真を見ただろ。蔵前の話の通りじゃないか。それを別のアプローチって何だよ! お前にそんなもんがあるとは思えないけどな」

 纏まらない小峰への報告書が声を大きくしていく。信じ難い話ではあるが、蔵前の話を信じなければ説明など出来ない。それを説明できるなら、報告書に纏めてやるから教えて欲しいもんだ。

「もう! うるさい! あたし映画観ているんだから、邪魔しないでよ。もっと小さな声で話してくれる?」

 臙脂色のソファにだらしなく体を伸ばした直樹が、タブレットをずらし睨んでくる。

「何だ? ここは俺の店だ。お前こそ映画観るなら家に帰って観ればいいだろ?」

「何言っているのよ。家に帰ったらお酒飲めないでしょ。あたしはお酒を飲みながら、ソファに寝転がって、映画を観たいの。ねえ、君ちゃん。どっかにがあるはずだから探して頂戴」

 人の話を耳に入れる事なく、指一本で君生を使う直樹。そんな直樹に言われるがまま、グラスを口から離す素直な君生。

「えっ? って何ですか?」

「赤ワインよ。ラベルにエグリ・ビカヴェールって書いてあるボトルを探して頂戴」

「赤ワインなんて俺は仕入れた覚えはないぞ」

「秀三になくてもあたしには覚えがあるの!」

 いつの間にそんな物を仕入れた? 酒屋に注文を出したのか? 人の店で本当に勝手な事をしやがる。

「あっ、これの事ですか?」

 そのラベルの文字までは読めないが、君生がボトルを手にしている。

「それよ、それ。折角だから君ちゃんも一緒に飲みましょう。この今観ている映画なんだけど、つい最近配信が始まったの。プライムで見つけて、絶対この映画観ながらを飲むんだって誓ったの。そうしたらたまたま仲通りでいつもの酒屋のイケメンちゃんに会ってね。お店のワインリスト見せて貰ったらあるじゃないの、エグリ・ビカヴェールが。これは運命だって発注しておいたのよ。……って、確かにあたしが頼んだんだけど、受け取ったのは秀三のはずよ。それなのに気付いていないなんて、自分のお店の在庫くらいちゃんと把握しておきなさいよ」

 勝ち誇ったその顔を前に、反論をすれば、更なる攻撃が待っている事は分かっている。人の店で勝手に映画を観て、勝手に酒を注文して、勝手に飲んでいればいいさ。ここはバーでもあるが探偵興信所だ。今は小峰への報告書で頭がいっぱいで、直樹に対抗する気なんて少しも沸いてはこない。

「最近配信されたって、その映画新しいやつなんですか?」

「配信は最近だけど、もう三十年は昔の映画よ」

「三十年前って、俺まだ生まれてもいないんですけど」

「やだ、あたしだってまだ子供だったわよ」

「えっ? 直樹さんにも子供の頃があったんですか?」

 からかうように笑う君生を応援したくなる。これ以上絡むつもりはないが、直樹に向けられる君生のとげが小気味いい。だが君生の攻撃もあっさりと終わりを迎えたようだ。

「それで、どんな映画なんですか?」

「んんー。すごく重い話なんだけどね。父親がユダヤ人虐殺ぎゃくさつ嫌疑けんぎを掛けられて、弁護士である娘が父親の弁護をするの。今はアメリカで永住権を得て、暮らしているんだけど、父親はハンガリー人で元々は警察官だったの。そのハンガリーの警察官達がユダヤ人やジプシーを大量虐殺していたって。勿論第二次世界大戦中の話よ。今になって父親がその虐殺していた警察官だったって事実が出てきてね。まあ、父親は否定するんだけど……」

「確かに聞いているだけで重い話ですね。それでタイトルは?」

「ああ。『ミュージック・ボックス』って言うの。娘がハンガリーへ行くシーンもあって。それに映画の中にもが出てくるの。今、海外なんてなかなか行けないじゃない。何度も仕事で訪れたブダペストへ行けなくなる日が来るなんて。だから映画でブダペストの景色を見ながら、このワインを飲みたかったの」

「ハンガリーのワインなのか?」

「やだ、秀三ったら。知らん顔しながら聞いていたのね」

 今はフードデリバリーをしながら、この探偵興信所の調査員だなんて名乗ってはいるが、それは本来の姿ではない。元々ツアコンとして世界中を飛び回っていた直樹だ。話の端々に当時の思い出が滲んできても仕方はない。いずれ世の中が落ち着いて、本来居るべき場所へ戻ったなら、こんな時間を持つ事も出来なくなるのだろう。

「俺にもそのワインを淹れてくれよ」

 普段出番のないワイングラスを並べ、君生がボトルを傾ける。

「突然襲い掛かって来るものだって」

「何の事だ?」

「このワインの事を映画ではそんな表現をしているの。突然襲い掛かって来るほど美味しいって意味だろうけど」

「突然襲い掛かって来る?」

「そうね。こじつけるなら、蔵前さんの話なんか突然襲い掛かって来たものじゃない? この感染症の蔓延も突然襲い掛かって来たものだけど。まあ、それくらいインパクトのあるワインって事じゃないかな? 蔵前さんの話なんてインパクトしかなかったじゃない」

「まさか直樹さんもあんな話を信じているんですか?」

 黙って聞いていたはずの君生が食って掛かる。また元の話に戻ったじゃないか。

「あたしは全面的に信じているわよ。だって作り話をしているようには見えなかったもの。写真だって見たじゃない。前城一樹は確かに成田和弥だったわけだし。永井さんの息子さんの写真だってあったじゃない。現に永井さんの息子さんは今、高幡颯斗としてあの教団の代表になっているんだし。永井享が高幡颯斗に、成田和弥が前城一樹になる理由なんて、蔵前さんの説明以外どう説明すればいいのか分からないわ」

「確かに他の説明は出来ないんですけど」

「入神状態だっけ? 確かに何度もトランス状態に陥れば、記憶障害が起こっても当然じゃない? あっさり解決してなんだけど、依頼を受けていた成田和弥も永井さんの息子も行方が分かった訳だし。万々歳じゃないかしら。ねえ、秀三だってそうでしょ?」

「ああ、そうだな」

 やはり小峰には蔵前の話をそのまま伝えよう。直樹が言うように真実なら他の説明なんて何一つ必要はない。

「確かに成田和弥と永井享の行方は分かりましたけど、それじゃあ今野と高橋と河野の三人は誰に殺されたって言うんですか」

 別のアプローチがあるんじゃないのか? ふと口にしそうになった嫌味を引っ込める。

「それじゃあ、お前は誰が怪しいと思っているんだ? お前だって刑事の端くれだろ? 今までの状況から判断して、目ぼしい容疑者くらい頭に浮かんでいるだろう?」

「まあ、それは」

「君ちゃん、さすが刑事さん。犯人が分かっているって事?」

 直樹が急に目を輝かせたが、黙っていろと言わんばかりにその顔をきつく睨みつける。

「最初はもちろん成田が怪しいって思いましたよ。殺人の動機って考えると、成田しかいないって。だって恋人を死に追いやった奴らですよ。憎んで当然です。だから成田が犯人で間違いないだろうって。でも成田は既に死んでいた。死んだ人間に人は殺せないですからね。だから今は——」

「今は——?」

「前城一樹が怪しいと思っています」

「お前が言う前城一樹とは?」

「前城として死んだ成田じゃなく、本物の前城一樹ですよ。永井享が高幡颯斗を名乗っていますが、本物の高幡颯斗は蔵前さんです。と、言う事は、どこかに本物の前城一樹がいるはずです。十七年前の事件に関わった人物で唯一生きているかもしれないのは前城だけです。その前城を真っ先に疑うのは当然じゃないですか」

「それって、君ちゃんも蔵前さんの話を信じているって事よね?」

「そう言う事になるな」

 何も言えなくなった君生に穏やかな声を投げる。信じ難い事。理解し難い事。不条理な事。そんなものはこの世の中に幾らでもある。自分の目だけを信じて判断を下せる程、この世の中は分かり易く出来てはいない。

「それでその映画だけど、実際のところ父親はユダヤ人の虐殺をしていたのか?」

「何よ、急に! 一応法廷物のサスペンスなの。そんなオチを先に知ってしまったら観ていてつまらないじゃない。もし真相を知りたいなら、秀三も観てみればいいでしょ? ほんの二時間ちょっとよ」

 真相を先に知ってしまったら、映画を観る楽しみなど無くなってしまう。真相に辿り着くまでの過程があるからこそ、そこに映画の価値があると言う事か。たった一つの真相に向かう過程。

——前城一樹。

 君生が考えるように、もし三人を殺害した人物が前城だと言う真相があるなら、そこへ辿り着くための過程はやはりワーリン・ダーヴィッシュを探る事しかないだろう。そう易々と別のアプローチなんてものが姿を見せるはずはない。
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