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08 小林憲治
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八月に入り雨の降らない日はなかった。太陽に直接照らされる訳ではなかったが、日中に上がった気温は鬱陶しい湿り気と共に寝苦しさを助長する。晴人は数度目の寝返りのあと枕元に置いたスマホに手を伸ばした。数週間ぶりの休みだ。時間など気にせずいつまでも寝ていれば良かったが、スマホに手を伸ばした事で運は尽きてしまったらしい。
手に取ったスマホが知らせるものは時間だけではなく、係長からの着信だった。もしかしたら何度も着信があったのかもしれないが、塗り替えられただろう最新の着信は七時四十三分。スマホ画面に目を落としたまま大きな溜息を吐く。数週間ぶりの休みだと言うのに、ゆっくり眠らせてくれないのか。きっとこの着信に折り返せば、この数週間ぶりの休みは何もなかったように消えてしまうだろう。
「もしもし……古賀です。着信があったんですが」
後で何かを言われるよりは、休みを返上した方が楽な事は重々承知している。だが面倒な事は極力避けて通りたい。耳元には「あー」と言う係長の面倒臭そうな第一声。
「古賀です。電話頂いていましたよね?」
「何度も言わなくても聞こえているさ……それより、今すぐ新宿五丁目の現場に向かってくれ、大変な事になっているんだ」
「新宿五丁目の現場ですか?」
「ああ、それじゃよろしく」
あっさりと切られた電話にいつもながらの憤りを覚えた。今日が休みだと言う事は電話を寄越した係長にも分かっているはず。それなのに休みの日に申し訳ないと、どうしてそんな簡単な一言を付け加える事が出来ないのだろうか。
深いため息を漏らし、ベッド脇に脱ぎ散らかしたワイシャツに鼻を当ててみる。自身の臭いではあるが、蒸れたその臭いに後悔が滲む。さすがに昨日汗を流しながら歩き回ったワイシャツを二日続けて着る訳にはいかない。そう言って今日の休みに洗濯をするつもりだったから、臭わないワイシャツなど部屋のどこを探しても見つかるはずはなかった。
仕方なくクローゼットからポロシャツを取り出す。まだ値札も切られていないポロシャツの首筋の札を歯で千切る。休日にどこかへ出掛けるためにと、夏前に買ったポロシャツに袖を通す。着慣れたワイシャツだと肌に張りつくが、慣れないその新しいポロシャツの着心地はやけに良く、ほんの少しだが気持ちが楽になったようにも思える。
署に電話を掛け詳しい現場を聞く。電話に出たのは係長ではなく課長だった。新宿五丁目、靖国通りにある、新宿一丁目北の歩道橋。明治通りよりは五百メートルほど西だと課長に教えられる。目と鼻の先じゃないか。十分も掛けずに駆け付ける事が出来る距離に、諦めが肝心だと自分に言い聞かせる。
現場に向かい係長の姿を探したが、そこにその姿はなかった。
「おお、古賀。来たか」
声を掛けてきたのは安原だった。
「安原さん、何が起こったんですか?」
「ああ、まだはっきりしないが殺人だよ。歩道橋の踊り場で男の死体が発見された。男の背中には刺し傷があるから、まあ殺人で間違いないだろうな」
「男は?」
「ああ、今頃鑑識が見ている頃だ」
すでに死体が片付けられた歩道橋の踊り場を見上げる。その一角はもちろん封鎖されているが、靖国通りを見ればいつも通りに車は流れている。それに通勤だろうか、御苑前の駅からだと分かる人の流れが、一つ目の信号に溜まっている。
「まだ刺された傷が死因か、転落が死因かは分かっていないが、歩道橋の上で背中を刺され、押されたか何かの拍子に踊り場へ転落した。大雨の中、息絶えたが激しい雨が人通りを少なくし、雨が止んでようやく発見された。……きっと、そんなところだろう」
「そんなところですか……それで発見したのは?」
「ジョギングをしていた男だよ。筋力強化だとかで、信号ではなく、あえてこの歩道橋をジョギングコースにしていたらしい。……向こうだな。一丁目側から階段を上がって、この五丁目側に階段を降りようとした、そこで死体を発見した。その第一発見者もまたびっくりなんだが……。まあ、あれだな」
「あれですか? ……その男も、朝から災難ですね。ジョギング中に死体発見だなんて」
小さく肩を竦めてみせた。その動作に込めた気持ちをこの安原が汲み取れるとは思えない。それでも一つの死体が招いた災難は、その男にも自分にも降りかかったものだと、その動作は訴えていた。だがやはりそんな些細な事を安原が汲み取れるはずはない。それは休みだと知りながら、朝っぱらから電話を寄越し、現場に姿を見せない係長と同じだった。
「……それでだな、ガイシャなんだが」
「ああ、身元は判明しているんですか?」
「ああ、免許証や所持品から身元は分かっている。今詳しく裏を取っているところだが、ガイシャは小林憲治、五十二歳。免許証からすると、三鷹に住所があるんだが」
「……小林憲治? ……ああ!」
ほんの一か月前に焼き付けられた名前に、思わず大きな声が挙がる。
「何だ、知っているのか?」
「はい。一か月前ですよ。確か七月の初めだったと思うんですが、一度うちに来ていますよ。……ああ、うちじゃない。生活安全課ですが……」
「どう言う事だ?」
安原の声が大きくなる。普段から淡々とした姿しか見せない安原だが、今ここに係長がいないと言う事で、張り切ってでもいるのだろうか。
「……確か、児童買春です。中学生が三人だったはずです。それと三十代から五十代くらいの男が何人か……誰も容疑を認めないので釈放されましたが、その男の一人が小林憲治でした。確か五十二歳だったと思います」
「児童買春? その件も洗った方がよさそうだな……。それより古賀、今日の恰好なんかいつもと違って爽やかだな」
「何がですか? 数週間ぶりの休み返上して駆け付けたんですよ。今日洗濯しようと思っていたのに。もう着るワイシャツもないんですから」
「そうだったのか。すまないな」
心にもない言葉だとその軽さから読み取る事ができた。安原に他人の心情を読み取る能力がない事は知っている。期待をしても無駄な事だ。
激しく降っただろう雨もその形跡を殆ど見せることなく、歩道のアスファルトは完全に乾ききっていた。アスファルトから奪われた水分は不快な湿気に変わり、いま全身に纏わり付き始めている。袖を通した時のあの心地良さを失ったポロシャツがじっとりと肌に張り付いていく。
——何かの呪縛なのか?
不快な湿気と休みを奪われた怒りが混じり合い、新しいポロシャツに袖を通した時の気持ちなんて、すっかりどこかに飛んでしまっていた。
小林憲治の名前が頭にくっきり焼き付けられた理由には気付いてはいなかった。だが遺体として発見された男の名前が小林憲治だと聞かされ、ガラス越しにじっとこちらを見ていた顔が一瞬にして浮かび上がってきた。じっと見つめるその眼差しの薄気味悪さに、児童買春と言う嫌悪が混じり、その名前がくっきりと焼き付けられたのかもしれない。きっとそう解釈するのが賢明だが、そうではない事を安原に教えられる。
「おい、古賀。お前も阿佐ヶ谷出身だったよな?」
「ええ、子供の頃は阿佐ヶ谷にいましたよ。小学校までですけど……。それがどうかしましたか?」
振り返ると何故か顔を高揚させた安原が立っていた。何かの手柄を上げたような顔に、関わりたくないと言う感覚が浮かぶ。鮟鱇のようにギロリと見開いた安原の目が、何故か容疑者を捕えるようにこちらを向いている。
「……小林だよ。こないだのガイシャの小林、小林憲治だよ」
「小林がどうかしましたか? 何か捜査に進展があったんですか?」
「いや、そうじゃないが。小林だよ。小林の身辺をちょっと洗ったんだが」
「何か出ましたか?」
「三鷹で塾教師をしていたんだが、その前は小学校の教師だった。……まあ、二十年以上前の話だが」
「で、それで? なんで、俺の阿佐ヶ谷出身と関係あるんですか?」
安原の高揚した顔が少しずつ近付いてくる。ギロリと見開かれたその目からは顔を逸らしたくなる。事件の進展なら喜ばしい事だが、下っ端には片付けなければならない雑務が山ほどある。殺人のような大きな事件に首を突っ込んでいる余裕なんてものはない。
「お前確か平成元年生まれだよな。お前が小学校を卒業したのは平成十四年。……で、その前の年まで小林は小学校の教師だったんだよ」
「……だから、それが俺と何の関係があるんですか?」
「阿佐ヶ谷だよ。阿佐ヶ谷西小学校……、お前の通っていた小学校って、阿佐ヶ谷のどこだ?」
阿佐ヶ谷西小学校と聞かされ、凍っていく背筋とは逆に、じわじわと解凍されていく自身の過去に小林憲治が纏わり始める。
「俺も阿佐ヶ谷西です」
解凍され始めた過去に小林憲治の顔が映し出される。だがその顔はガラス越しにこちらを見ていた顔ではなく、小学校の担任だった若い姿の小林憲治の顔だ。
「……確か、五、六年の時の担任が小林先生でした。小林憲治? 下の名前までは覚えてないですけど、三十くらいの男性でしたけど」
「やっぱりな。俺の勘は当っていたみたいだな。お前本当に知らなかったのか?」
「何がですか?」
「だから、小林憲治がお前の小学校時代の恩師だったって事だよ。まあ、恩師と言っても、児童買春の疑いで一度引っ張られている訳だから、大した男じゃないんだろけどな。……ところでお前、小林が殺された朝方どこで何をしてた?」
「えっ? 安原さん。勘弁して下さいよ。俺を容疑者扱いですか? 小学校の頃の担任だったって事は今、思い出したんですよ」
「冗談だよ」
ギロリと開かれた安原の目には、可笑しな勘繰りはないようだった。そんなの目から顔を背ける事なく小さく笑う。冗談だよと言った安原の言葉を鵜呑みにして流す事が一番の得策だと思えたからだ。
「……それで、小林憲治の事ですが」
「ああ、お前の担任をしていた阿佐ヶ谷西小学校を辞めた後は、ずっと都内で塾講師をしていたみたいだな。今は三鷹の塾だが、何カ所か転々としていたみたいだ。……特に何か問題を起こしてって事ではなさそうだよ」
「それで、児童買春ですよね?」
「ああ、それは結局事件になっていない。お前も知っての通り全員釈放だよ。本人達は完全に否定していたらしいからな」
「それなのに何故引っ張られたんですかね?」
何も見ることなく生活安全課の職員に奪われた調書を思い出した。小林憲治の名前を焼き付ける事になりはしたが、そこに書かれた経緯など何一つ見る事ななかった。
「それがタレコミらしいんだ」
「タレコミですか?」
「ああ、歌舞伎町のラブホの前で撮られた写真だよ。中学生は三人だったんだが、小林の他に男は五人。中学生三人に大の男が六人だよ」
「全員で一緒に写っていたんですか?」
「見るか?」
安原がファイルに挟まれた写真を並べていく。
「これが小林だよ」
安原がそう指差した写真には、小林ともう一人別の男。そして制服を着た中学生らしき少年の姿が写っている。そして別の写真にも、男二人と中学生らしき少年の姿がそれぞれ写っている。それは明らかに同じラブホテルの前だ。
「この写真が送られてきたんですね」
「ああ、一応調書にも目を通して、生活安全課からも話を聞いたんだが」
「で? 何て?」
「ラブホに入った事は認めているらしいよ。でも全員が全員、口を揃えて、ラブホで勉強を教えていたと。中学生たちも静かな場所が良かったんで、ラブホで勉強を教えてもらっていましただとさ。そんな馬鹿な話、誰が信じるんだよ」
「そうですね」
「でも、まあ仕方なかったんだろう。それ以上追及しても何も出てはこなかった。……だから中学生達には幾ら勉強を教えてもらうからといってラブホなんて出入りするんじゃないと指導。小林達六人には中学生をラブホに連れて行ったなんて、大人としてあるまじき行為だと指導。生活安全課としてもそれが限界だったみたいだよ」
安原が手にしたファイルに目を落とす。だがそファイルに納められた調書に目を通す事はない。
「それでその小林憲治以外の、五人の男や、その中学生……少年達三人は今回の小林憲治の件に何か関係あるんですかね?」
「それはまだこれからだよ。まだ全員は当たりきれていないが、何らかの関係があってもおかしくはないだろう。まあ、これから捜査していかないと何も分からないが」
「そうですね、昨日の今日ですしね」
「それよりお前、昨日の今日で洗濯したんだな」
安原の目はまだギロリと開かれてはいたが、冗談だよと言った時の冷やかしのような表情に変わっている。
「新しいワイシャツ買ったんですよ。数週間ぶりの休み返上させられて、洗濯する気分になんかなれないですよ。それに……」
「それに、なんだ?」
「俺を呼び出した係長は昨日しっかり休んでいたじゃないですか、信じられないですよね」
怒りを含んだ口調に自然と口が尖っていく。
「仕方ないさ。係長は家庭があるんだし。それにお前現場の近くに住んでいるだろ? 誰よりも近い所にいたんだから、仕方ないさ」
さっきの安原の言葉を思い出す。
——小林が殺された朝方どこで何をしていた?
そこに、現場の近くに住んでいるだろ? と、いま放たれた言葉が重なる。そんな言葉の裏に疑いが隠されているような、気にもさせられる。
「古賀君、電話よ」
安原に疑われているのでは? そう疑った間は掛かった声に消されていた。安原も興味が失せたのか、席に戻りパソコンの画面に目を落としている。今は机の上に置かれた電話機の赤い点滅ランプに指を伸ばすだけだ。
手に取ったスマホが知らせるものは時間だけではなく、係長からの着信だった。もしかしたら何度も着信があったのかもしれないが、塗り替えられただろう最新の着信は七時四十三分。スマホ画面に目を落としたまま大きな溜息を吐く。数週間ぶりの休みだと言うのに、ゆっくり眠らせてくれないのか。きっとこの着信に折り返せば、この数週間ぶりの休みは何もなかったように消えてしまうだろう。
「もしもし……古賀です。着信があったんですが」
後で何かを言われるよりは、休みを返上した方が楽な事は重々承知している。だが面倒な事は極力避けて通りたい。耳元には「あー」と言う係長の面倒臭そうな第一声。
「古賀です。電話頂いていましたよね?」
「何度も言わなくても聞こえているさ……それより、今すぐ新宿五丁目の現場に向かってくれ、大変な事になっているんだ」
「新宿五丁目の現場ですか?」
「ああ、それじゃよろしく」
あっさりと切られた電話にいつもながらの憤りを覚えた。今日が休みだと言う事は電話を寄越した係長にも分かっているはず。それなのに休みの日に申し訳ないと、どうしてそんな簡単な一言を付け加える事が出来ないのだろうか。
深いため息を漏らし、ベッド脇に脱ぎ散らかしたワイシャツに鼻を当ててみる。自身の臭いではあるが、蒸れたその臭いに後悔が滲む。さすがに昨日汗を流しながら歩き回ったワイシャツを二日続けて着る訳にはいかない。そう言って今日の休みに洗濯をするつもりだったから、臭わないワイシャツなど部屋のどこを探しても見つかるはずはなかった。
仕方なくクローゼットからポロシャツを取り出す。まだ値札も切られていないポロシャツの首筋の札を歯で千切る。休日にどこかへ出掛けるためにと、夏前に買ったポロシャツに袖を通す。着慣れたワイシャツだと肌に張りつくが、慣れないその新しいポロシャツの着心地はやけに良く、ほんの少しだが気持ちが楽になったようにも思える。
署に電話を掛け詳しい現場を聞く。電話に出たのは係長ではなく課長だった。新宿五丁目、靖国通りにある、新宿一丁目北の歩道橋。明治通りよりは五百メートルほど西だと課長に教えられる。目と鼻の先じゃないか。十分も掛けずに駆け付ける事が出来る距離に、諦めが肝心だと自分に言い聞かせる。
現場に向かい係長の姿を探したが、そこにその姿はなかった。
「おお、古賀。来たか」
声を掛けてきたのは安原だった。
「安原さん、何が起こったんですか?」
「ああ、まだはっきりしないが殺人だよ。歩道橋の踊り場で男の死体が発見された。男の背中には刺し傷があるから、まあ殺人で間違いないだろうな」
「男は?」
「ああ、今頃鑑識が見ている頃だ」
すでに死体が片付けられた歩道橋の踊り場を見上げる。その一角はもちろん封鎖されているが、靖国通りを見ればいつも通りに車は流れている。それに通勤だろうか、御苑前の駅からだと分かる人の流れが、一つ目の信号に溜まっている。
「まだ刺された傷が死因か、転落が死因かは分かっていないが、歩道橋の上で背中を刺され、押されたか何かの拍子に踊り場へ転落した。大雨の中、息絶えたが激しい雨が人通りを少なくし、雨が止んでようやく発見された。……きっと、そんなところだろう」
「そんなところですか……それで発見したのは?」
「ジョギングをしていた男だよ。筋力強化だとかで、信号ではなく、あえてこの歩道橋をジョギングコースにしていたらしい。……向こうだな。一丁目側から階段を上がって、この五丁目側に階段を降りようとした、そこで死体を発見した。その第一発見者もまたびっくりなんだが……。まあ、あれだな」
「あれですか? ……その男も、朝から災難ですね。ジョギング中に死体発見だなんて」
小さく肩を竦めてみせた。その動作に込めた気持ちをこの安原が汲み取れるとは思えない。それでも一つの死体が招いた災難は、その男にも自分にも降りかかったものだと、その動作は訴えていた。だがやはりそんな些細な事を安原が汲み取れるはずはない。それは休みだと知りながら、朝っぱらから電話を寄越し、現場に姿を見せない係長と同じだった。
「……それでだな、ガイシャなんだが」
「ああ、身元は判明しているんですか?」
「ああ、免許証や所持品から身元は分かっている。今詳しく裏を取っているところだが、ガイシャは小林憲治、五十二歳。免許証からすると、三鷹に住所があるんだが」
「……小林憲治? ……ああ!」
ほんの一か月前に焼き付けられた名前に、思わず大きな声が挙がる。
「何だ、知っているのか?」
「はい。一か月前ですよ。確か七月の初めだったと思うんですが、一度うちに来ていますよ。……ああ、うちじゃない。生活安全課ですが……」
「どう言う事だ?」
安原の声が大きくなる。普段から淡々とした姿しか見せない安原だが、今ここに係長がいないと言う事で、張り切ってでもいるのだろうか。
「……確か、児童買春です。中学生が三人だったはずです。それと三十代から五十代くらいの男が何人か……誰も容疑を認めないので釈放されましたが、その男の一人が小林憲治でした。確か五十二歳だったと思います」
「児童買春? その件も洗った方がよさそうだな……。それより古賀、今日の恰好なんかいつもと違って爽やかだな」
「何がですか? 数週間ぶりの休み返上して駆け付けたんですよ。今日洗濯しようと思っていたのに。もう着るワイシャツもないんですから」
「そうだったのか。すまないな」
心にもない言葉だとその軽さから読み取る事ができた。安原に他人の心情を読み取る能力がない事は知っている。期待をしても無駄な事だ。
激しく降っただろう雨もその形跡を殆ど見せることなく、歩道のアスファルトは完全に乾ききっていた。アスファルトから奪われた水分は不快な湿気に変わり、いま全身に纏わり付き始めている。袖を通した時のあの心地良さを失ったポロシャツがじっとりと肌に張り付いていく。
——何かの呪縛なのか?
不快な湿気と休みを奪われた怒りが混じり合い、新しいポロシャツに袖を通した時の気持ちなんて、すっかりどこかに飛んでしまっていた。
小林憲治の名前が頭にくっきり焼き付けられた理由には気付いてはいなかった。だが遺体として発見された男の名前が小林憲治だと聞かされ、ガラス越しにじっとこちらを見ていた顔が一瞬にして浮かび上がってきた。じっと見つめるその眼差しの薄気味悪さに、児童買春と言う嫌悪が混じり、その名前がくっきりと焼き付けられたのかもしれない。きっとそう解釈するのが賢明だが、そうではない事を安原に教えられる。
「おい、古賀。お前も阿佐ヶ谷出身だったよな?」
「ええ、子供の頃は阿佐ヶ谷にいましたよ。小学校までですけど……。それがどうかしましたか?」
振り返ると何故か顔を高揚させた安原が立っていた。何かの手柄を上げたような顔に、関わりたくないと言う感覚が浮かぶ。鮟鱇のようにギロリと見開いた安原の目が、何故か容疑者を捕えるようにこちらを向いている。
「……小林だよ。こないだのガイシャの小林、小林憲治だよ」
「小林がどうかしましたか? 何か捜査に進展があったんですか?」
「いや、そうじゃないが。小林だよ。小林の身辺をちょっと洗ったんだが」
「何か出ましたか?」
「三鷹で塾教師をしていたんだが、その前は小学校の教師だった。……まあ、二十年以上前の話だが」
「で、それで? なんで、俺の阿佐ヶ谷出身と関係あるんですか?」
安原の高揚した顔が少しずつ近付いてくる。ギロリと見開かれたその目からは顔を逸らしたくなる。事件の進展なら喜ばしい事だが、下っ端には片付けなければならない雑務が山ほどある。殺人のような大きな事件に首を突っ込んでいる余裕なんてものはない。
「お前確か平成元年生まれだよな。お前が小学校を卒業したのは平成十四年。……で、その前の年まで小林は小学校の教師だったんだよ」
「……だから、それが俺と何の関係があるんですか?」
「阿佐ヶ谷だよ。阿佐ヶ谷西小学校……、お前の通っていた小学校って、阿佐ヶ谷のどこだ?」
阿佐ヶ谷西小学校と聞かされ、凍っていく背筋とは逆に、じわじわと解凍されていく自身の過去に小林憲治が纏わり始める。
「俺も阿佐ヶ谷西です」
解凍され始めた過去に小林憲治の顔が映し出される。だがその顔はガラス越しにこちらを見ていた顔ではなく、小学校の担任だった若い姿の小林憲治の顔だ。
「……確か、五、六年の時の担任が小林先生でした。小林憲治? 下の名前までは覚えてないですけど、三十くらいの男性でしたけど」
「やっぱりな。俺の勘は当っていたみたいだな。お前本当に知らなかったのか?」
「何がですか?」
「だから、小林憲治がお前の小学校時代の恩師だったって事だよ。まあ、恩師と言っても、児童買春の疑いで一度引っ張られている訳だから、大した男じゃないんだろけどな。……ところでお前、小林が殺された朝方どこで何をしてた?」
「えっ? 安原さん。勘弁して下さいよ。俺を容疑者扱いですか? 小学校の頃の担任だったって事は今、思い出したんですよ」
「冗談だよ」
ギロリと開かれた安原の目には、可笑しな勘繰りはないようだった。そんなの目から顔を背ける事なく小さく笑う。冗談だよと言った安原の言葉を鵜呑みにして流す事が一番の得策だと思えたからだ。
「……それで、小林憲治の事ですが」
「ああ、お前の担任をしていた阿佐ヶ谷西小学校を辞めた後は、ずっと都内で塾講師をしていたみたいだな。今は三鷹の塾だが、何カ所か転々としていたみたいだ。……特に何か問題を起こしてって事ではなさそうだよ」
「それで、児童買春ですよね?」
「ああ、それは結局事件になっていない。お前も知っての通り全員釈放だよ。本人達は完全に否定していたらしいからな」
「それなのに何故引っ張られたんですかね?」
何も見ることなく生活安全課の職員に奪われた調書を思い出した。小林憲治の名前を焼き付ける事になりはしたが、そこに書かれた経緯など何一つ見る事ななかった。
「それがタレコミらしいんだ」
「タレコミですか?」
「ああ、歌舞伎町のラブホの前で撮られた写真だよ。中学生は三人だったんだが、小林の他に男は五人。中学生三人に大の男が六人だよ」
「全員で一緒に写っていたんですか?」
「見るか?」
安原がファイルに挟まれた写真を並べていく。
「これが小林だよ」
安原がそう指差した写真には、小林ともう一人別の男。そして制服を着た中学生らしき少年の姿が写っている。そして別の写真にも、男二人と中学生らしき少年の姿がそれぞれ写っている。それは明らかに同じラブホテルの前だ。
「この写真が送られてきたんですね」
「ああ、一応調書にも目を通して、生活安全課からも話を聞いたんだが」
「で? 何て?」
「ラブホに入った事は認めているらしいよ。でも全員が全員、口を揃えて、ラブホで勉強を教えていたと。中学生たちも静かな場所が良かったんで、ラブホで勉強を教えてもらっていましただとさ。そんな馬鹿な話、誰が信じるんだよ」
「そうですね」
「でも、まあ仕方なかったんだろう。それ以上追及しても何も出てはこなかった。……だから中学生達には幾ら勉強を教えてもらうからといってラブホなんて出入りするんじゃないと指導。小林達六人には中学生をラブホに連れて行ったなんて、大人としてあるまじき行為だと指導。生活安全課としてもそれが限界だったみたいだよ」
安原が手にしたファイルに目を落とす。だがそファイルに納められた調書に目を通す事はない。
「それでその小林憲治以外の、五人の男や、その中学生……少年達三人は今回の小林憲治の件に何か関係あるんですかね?」
「それはまだこれからだよ。まだ全員は当たりきれていないが、何らかの関係があってもおかしくはないだろう。まあ、これから捜査していかないと何も分からないが」
「そうですね、昨日の今日ですしね」
「それよりお前、昨日の今日で洗濯したんだな」
安原の目はまだギロリと開かれてはいたが、冗談だよと言った時の冷やかしのような表情に変わっている。
「新しいワイシャツ買ったんですよ。数週間ぶりの休み返上させられて、洗濯する気分になんかなれないですよ。それに……」
「それに、なんだ?」
「俺を呼び出した係長は昨日しっかり休んでいたじゃないですか、信じられないですよね」
怒りを含んだ口調に自然と口が尖っていく。
「仕方ないさ。係長は家庭があるんだし。それにお前現場の近くに住んでいるだろ? 誰よりも近い所にいたんだから、仕方ないさ」
さっきの安原の言葉を思い出す。
——小林が殺された朝方どこで何をしていた?
そこに、現場の近くに住んでいるだろ? と、いま放たれた言葉が重なる。そんな言葉の裏に疑いが隠されているような、気にもさせられる。
「古賀君、電話よ」
安原に疑われているのでは? そう疑った間は掛かった声に消されていた。安原も興味が失せたのか、席に戻りパソコンの画面に目を落としている。今は机の上に置かれた電話機の赤い点滅ランプに指を伸ばすだけだ。
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還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。
そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。
その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。
全7話
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