18 / 31
18 誘拐
しおりを挟む
西口のロータリーの電話ボックスだと聞いてはいたが。貴久の姿を目にし、大きな驚きを露わにするしかなかった。それは安原と夏樹にとっても同じだったようで、二人とも大きな驚きを露わにしている。
三丁目の居酒屋の会計を慌てて済ませ外に出た時、あれほど激しかった雨もすっかり止んで、新宿の町は夜が近い色になっていた。足早に新宿通りへと向かい、新宿通りを駅方向へと進み、東西の連絡通路を抜け、西口のロータリーに辿り着き、周辺を見回した。
ロータリーの一角に設けられた電話ボックス。そのガラスの箱の中から足を伸ばし、電話ボックスの中で尻を付けしゃがんでいる貴久の姿が目に飛び込んできた。そして酔っ払いでも見るような目で、貴久を横目に通り過ぎる通行人の姿も一緒に目に飛び込んできた。今時、誰でもスマホや携帯を持っている時代。公衆電話など利用する人は少ないが、貴久はずっとこのガラスの箱を占拠していたのだろう。
「貴久、おい、貴久」
尻を付けしゃがみ込む貴久の肩を揺らしながら、何度か名前を呼んだ。ぐったりと項垂れたはずの貴久がその振動に勢いよく立ち上がる。
「おい、貴久なんだよ。えらく落ちてんな」
貴久の気持ちなど考えない夏樹の態度を左腕で制止する。一歩後ろに下がり、勢いよく立ち上がった貴久をただ傍観していた安原も夏樹の態度は腑に落ちないのか、ギロリと睨みつけている。
「それで、デパートの店員はお前の息子の姿を見たって言ってるんだな」
「そうだよ。財布に入れていた航太の写真を見せたら間違いないって。若い男と一緒に来て、傘を買って行ったって。その男が支払って行ったから、父親だと思ってたって」
「その男に心当たりはないのか?」
「ないよ。学校の同僚で航太に会った事ある奴がいるけど、電話を受けた時一緒に学校にいたし。若い男なんて知らないよ」
「何か心当たり、何か、出てこないか? 若い男が誰か」
「若い男って、最近会ったのは、お前と夏樹と由之と。夏樹? あれ、由之は?」
共に駆け付けた夏樹にようやく貴久は気付いた様子だ。その夏樹に並ぶ安原の姿も確認できたのだろう。
「ああ、刑事さん。由之は? 由之」
曇らせたうえに雨粒で濡れた眼鏡の奥の目ははっきりとは見えないが、きょとんとした表情を作っている。三人の姿を見て落ち着いたからだろう、さっきの電話のような慌てた様子は消えている。
「貴久、由之には連絡取っていないのか」
「していないよ。由之の番号はスマホの中にしかなくて。晴人は名刺に番号書いて俺にくれただろ? その名刺が財布に入っていたんだよ」
そう答えながら貴久が濡れた眼鏡を外す。さっきまでの雨で貴久の全身は濡らされたのだろう。髪からの雫が頬で粒を作っている。
「由之に連絡取ってみた方がいいんじゃね?」
一歩後ろから提案する夏樹を安原が肘で小突く。
「夏樹、お前、由之に電話してくれないか」
二人の気配に振り返り、電話をするよう促す。まだ九月とあって気温は高いが、随分と雨に濡れたからだろう。もともと白い貴久の顔は更に青白く、唇は紫に近い色に変わっている。勿論貴久の息子の事は心配だが、今目の前にいる貴久の方が心配でならない。
「んー、コールはするけど出ないなあ」
「とりあえず高原だっけ? その由之とやらの所へ行ってみるしかなさそうだな」
傍観していたはずの安原が口を挟み、タクシーを停めようと車道側へ一歩体を乗り出させている。そんな安原の手に停まったタクシーの後部ドアが静かに開く。
「それで、その高原の家が分かる奴は?」
「五丁目です。新宿五丁目。近くまで行けば分かります」
貴久の声はその様子とは違い張りのある物だった。助手席に乗り込んだ安原は、運転手に新宿五丁目までと、行き先を伝えている。安原の指示を受けた運転手は四人の慌てぶりを感じ取ったのか、ドアを閉めるなり発車させ、甲州街道の交差点で左折のウィンカーを出している。あんなに激しく降っていたはずの雨はもう上がったようで、ワイパーで拭われた窓に落ちる雫は一粒もなかった。
「このマンションの一二〇一のはずです。確か最上階のはずなんで」
「さすが貴久だな、何度もお泊りに来ているんだもんな」
「一度だよ」
ぼそりと吐かれた貴久の一言に、夏樹がそれ以上の茶々を入れる事はなかった。安原がタクシーの精算を済ましせいる間に、オートロックのパネルで一二〇一呼と押してみる。数秒の間のあと、パネルのスピーカーから、「はい」と小さな声が漏れた。
「由之か? 晴人だけど、それと貴久と」
「えっ? 晴人? なんで? ああ、貴久」
スピーカーの声が切れ、自動ドアが静かに開く。
「それにしても良い所に住んでるなあ。あんな小さな店でもきっと充分儲かるんだろうな」
男四人で乗り込んだ狭いエレベーターの中、夏樹が勝手に値踏みしている。新宿と言う土地柄、ある程度の基準ではあるが、五丁目から六丁目、七丁目辺りは住宅街もあり、東京の他のエリアよりは比較的低めの家賃相場だと聞いた事がある。
貴久にも夏樹の勝手な値踏みは届いていない様子だった。貴久自身、近くの小学校に勤めている。この周辺に暮らす子供達を教えているのだから、由之が暮らすこのマンション周辺の相場や生活基準を知っていても当然だ。
「どうして晴人まで?」
開いたドアから顔を出した由之が目を丸くしている。由之からは夏樹や安原の姿までは見えないのだろう。
玄関のコンセントに繋がれた不自然なドライヤーに目を落とす。後ろにいた貴久に押し退けられる。
「航太は? 航太いるのか?」
貴久の声は電話を寄越した時と同じ、慌てたものに変わっている。そんな貴久はドライヤーの横に転がる子供用の靴を目にした途端、玄関に立つ由之まで押し退け、土足のまま部屋の中へと進んで行った。
「貴久、靴くらい脱いでよ」
咄嗟の声が耳に届いたようで、貴久は三歩ほど進んだ所で靴を脱ぎ、廊下の奥へと進んで行く。
「いいかな?」
靴を脱ぎ貴久の背中に続く。玄関で呆然と立つ由之の目に、ドアの隙間に立つ夏樹と見覚えのない男の姿が見えたのだろう。
「えっ!」と、更に困惑した声を上げている。
貴久の背中を追って辿り着いたベッドには子供の姿があった。貴久のその表情から、航太である事は分かる。
「航太、良かった」
ベッドの横に膝を落とす貴久。その横に立ちはしたが、いつの間にか夏樹と安原もすぐ後ろまで来ていた。
「ちょっと、何なの? いきなり大勢で押しかけて」
十二畳程の部屋を男四人で埋めた事に由之が声を上げる。その声を聞いた貴久が跪いたまま由之へと振り返る。
「由之、お前!」
怒りを露わにした貴久の声、咄嗟にしゃがみ、その体を押さえる。
「ちょっと、圧迫感が凄いからみんな座ってくれる。まだやる事あるのに、いきなり大勢で、本当何なの!」
由之は由之で意味が分からないと、小さな怒りを露わにしている。だがそれは一瞬の事で、座らせた四人の男を気にせず玄関へと戻っていく。由之が手にしているのは、ドライヤーと子供用の靴だ。そのドライヤーをコンセントに繋ぎ直し、子供用の靴に熱風を送る由之の姿に最初に口を開いたのは安原だった。
「すみません、突然押しかけて。古賀と同じ新宿東署の安原です。三芳さんからお子さんが誘拐されたと連絡がありまして、こうして伺ったんですが、何か行き違い、勘違いがあったようですね」
「誘拐?」
安原が出した誘拐と言う言葉に一番の驚きを見せたのは由之だった。それでもドライヤーで靴を乾かす作業は止めないようで、由之の手元から大きな音が放たれる。その音にベッドで眠っている航太の体が少し反応している。
「起こさないように玄関で乾かしていたのに、航太君、起きちゃうじゃない」
さっき露わにした小さな怒りをもう一度由之が覗かせる。
「どういう経緯でこうなったか教えてくれないか」
ドライヤーの音に負けないようにと少し声を張ってみた。由之は、「えっ」と、聞き返しはしたが、ドライヤーの大きな音の隙間にその声を拾えたようだった。
「経緯も何も、服がびしょ濡れだったから、洗濯して乾かしているところ。靴はどうしようもないから、今こうして乾かしているところ。それより貴久、何度も電話したのになんで出ないのよ」
由之の小さな怒りの矛先が貴久へと向く。
「ごめん、携帯学校に忘れてきて。それより何で航太がここにいるんだよ」
「だから何度も電話したのに、出ない貴久が悪いんだよ」
貴久に向けられた怒りは鎮火する事がない様子だ。口を挟もうとしたが堪え、二人の会話に真相を委ねる。それは安原も同じようで黙って二人を見守っている。すぐに余計な事を口にしたがる夏樹は安原の鋭い目に晒され、何も発せられないようだ。
「新宿で買い物をしていたら、傘を差さずにびしょ濡れになった子供が泣いていたのよ。手には傘を持っていたんだけど、話を聞いたら壊してしまったって。周りの何人かで声を掛けたんだけどね。そうしたら、見覚えのある顔だなって。前に貴久、航太君の画像自慢気に見せてくれたでしょ? だから三芳君ですか? って、三芳航太君ですか? って、聞いたら、そうだって」
「偶然会ったんだ。誘拐じゃなかったんだ」
「誘拐なんてする訳ないでしょ。詳しく話を聞いたら、友達と遊んでいたら傘を壊して、新宿で買った傘だから、一人で新宿に来たって。だから同じ傘を買って帰るんだって。二人で同じ傘を探して、傘は同じの見つかったんだけどね。途中で、何度も貴久に電話しているのに出ないし。傘は見つかったけど、航太君びしょ濡れだし、タクシーでここに連れて来て、シャワー浴びさせたら眠くなったみたいで、寝ちゃったのよ。だからその間に服を全部洗濯して乾かしてって、そしたらいきなり大勢で押しかけるから」
「ごめん」
貴久の声にベッドの上の小さな体がぴくんと動く。聞き慣れた父親の声に反応したのだろうか。
「パパ?」
小さな体を起こし、貴久にしがみつく航太。二人の姿に由之は目を細めている。
一瞬目を覚ましたはずの航太はもう一度、ベッドで浅い眠りについている。父親の顔を見て安心したのもあるのだろうが、三鷹から新宿まで一人でやってきて、しかもどしゃぶりの雨に降られ、幼いながらもきっと疲れきっていたのだろう。由之に着せられ大きなシャツが尻まで隠してはいるが、タオルケットからはみ出た幼い足が見慣れないもので、思わず目を逸らした。きちんとタオルケットを掛けてやるべきなのか、暑がっての事なら、そのまま寝かせておく方がいいだろうが、幼い子供に接した事がない身には、正しい選択が出来ない。
「何が、誘拐だよ。本当に人騒がせだなあ」
航太の足にタオルケットを掛けながらも、夏樹が悪態をつく。
「まあな、でもまだ一年生だろ? 親としては心配になって仕方ないよ」
ようやく靴を乾かし終わったのか、由之はドライヤーのコードを巻いている。貴久は由之のスマホを借り、あちこちに電話をしている。真っ先に妻である航太の母親に電話している姿は目にしたが、その後一体どれだけの電話をしていただろうか。
「それで? なんでこんな大勢で押しかけてくるんですか?」
靴を乾かし終わったからか、ベッドの脇に由之も腰を下す。その目はさっき見せた怒りをまだ含んでいるように見えた。
「すまない」一言謝った横で夏樹が口を開く。
「いや、たまたまなんだよ。安原さんと晴人と三人で飲んでいるところへ、貴久から電話が掛かってきて、まあ、貴久が電話を掛けたのは晴人になんだけどね。まあ、流れでこんな感じになっちゃったんだよ」
夏樹の話し方があまりにも軽いものだからか、由之の怒りが呆れに変わっているようも見受けられる。
「高原さんですね。すみません、突然。でも一度お会いして話を聞きたかったので、私としてはちょうどよかったんです」
ずっと黙っていたはずの安原が由之に膝を合わせている。由之の顔は今度は困ったような表情に変わっている。
「安原さん、かしこまったら由之がびっくりしますよ」
貴久の件が落ち着いたからか、夏樹が急にしゃしゃり出る。玄関の近くから、ちょうど乾燥が終わった報せのピーピーと言う音が聞こえている。由之は立ち上がりもう一度玄関へと体を向かわせる。手にした航太の服と半ズボン、靴下や下着を畳みながら、三人の横に腰を下す。玄関への廊下で電話を掛けていた貴久が由之に向かって言った、ありがとうと言う小さな声が耳に飛び込んでくる。
「それで? お話って何ですか?」
航太が眠るベッドの脇に畳んだ服を置き、今度は由之が安原へ膝を合わせる。
「率直に伺います。高原さんは殺された小林の件はご存知ですね?」
「はい、前に晴人と夏樹と、貴久は寝ていましたけど、話したことがあります」
「それで、伺いたいんですが? 小林とは面識がありましたか?」
「もちろん。小学校時代の先生ですから。それと前にですけど、うちの店に飲みに来ました。お友達と一緒でしたけど、そのお友達がうちの常連さんの知り合いで、紹介されて来たと言ってました。その時は小林先生だとは気付きませんでしたけど」
「それと、小林が殺された日は三芳貴久さんと一緒にいらっしゃったとお伺いしたんですが、間違いないですか?」
安原に尋ねられた由之がこちらを睨んでいる。由之が言わんとする事に身に覚えがないから、首を横に振るしかない。だがそんな姿が視界に入ったのか、夏樹がにやりと笑っている。四人での会話が夏樹を通し、安原に筒抜けになっている事を改めて知らされる。
「はい、誰から聞いたのかは知りませんが、間違いないですよ」
夏樹がにやりと笑った顔を見ていなかったようで、明らかな不信感を由之は示してくる。
「分かりました。最後に一ついいですか?」
「何ですか?」
「東新宿の郵便局で大量の封筒を送った記憶はありますか?」
「郵便局ですか?」
小林の話から郵便局へ飛んだ事に由之の顔が曇っていく。その質問の意図を読み取ろうとしているのか、何も発さず間を保っている。
「はい、郵便局の防犯カメラにあなたらしい人物が映っていて、その人物が大量の封筒を出していたんですよ」
「その人物が自分かどうか分かりませんが、周年パーティーの招待状を五十通程出した事があって、東新宿の郵便局からです。いつだったかは覚えていないですが。パーティーの前だったので、春だったと思います。それ以外に最近郵便局へ行った記憶はありません」
「ありがとうございます」
忙しく動き回る郵便局の早送りされた映像を思い出していた。あのキャップに眼鏡の男は由之に間違いなかった。ただ違和感を覚えた大量の封筒は、由之が話した招待状であり、タレコミの写真を送った人物は別の誰かに違いない。由之は偶然同じ郵便局に居合わせただけ。多少なりとも由之に向けられていた安原の疑いは拭えただろう。
安原がそれ以上の質問を投げる事はなかった。藪から棒にすみません。と、下した腰を上げている。
「安原さん、飲み直しましょうよ」
「ああ、そうだな。古賀はどうする?」
「俺はもう少し残ります。貴久が落ち着いたら一緒に出ますよ」
これからの時間を安原と過ごす義務はない。それに安原に続く夏樹にはこれ以上関わりたくもない。
安原と夏樹の二人が抜けた部屋は広く感じられた。間取りで言えば1Kではあるが、十二畳はあるだろう部屋は男一人で暮らすには充分な広さだ。だが大の男が四人も五人も集えば狭く感じるものだ。二人が抜け、由之と二人になった空間は圧迫感もなく、物理的な問題だけではなく、居心地のいい空間に変わっていた。
「由之、本当にありがとう。何から何まで」
一通りの電話を掛け終わったのか、貴久が由之にスマホを返している。
「まだ、寝ているね。よっぽど疲れたんだろうね」
ベッドに寝させた航太の顔を覗き込む由之の顔はとても優しいもので、さっき安原の質問に応えていた由之とは別人に見えた。安原と夏樹が抜け、由之にとっても居心地のいい空間に戻ったのだろう。
「そろそろ航太を起こして帰るよ。ああ、傘代に、あと電話代」
貴久がポケットから財布を取り出している。
「いいよ、そんなの」
「いや、でも」
「傘は俺から航太君へのプレゼント。何か子供の頃を思い出して放っておけなかっただけだから、貴久は気にしなくていいよ」
「子供の頃?」
「アギトとか流行ってたよね。何かフレイムセイバーとか思い出したんだよね」
黙って由之と貴久の様子を見守る。由之が口にしたアギトもフレイムセイバーもすぐにピンと来るものはなかったが、貴久にはすぐ理解できたようだ。「ああ」と、眼鏡の奥の目をさらに細めている。脳裏にどんな光景を描いているのか、見る事は出来ないが、疎外されている気分にはならなかった。
——アギト。
——フレイムセイバー。
二人が懐かしむ材料に同じように懐かしむ事が出来ないのは、きっと何かが抜け落ちているからだろう。何が抜け落ちているのか、何故抜け落ちているのか、見当は付かないが、二十年以上も昔の話だ。思い出す必要のない事と片付けてもいいだろう。
三丁目の居酒屋の会計を慌てて済ませ外に出た時、あれほど激しかった雨もすっかり止んで、新宿の町は夜が近い色になっていた。足早に新宿通りへと向かい、新宿通りを駅方向へと進み、東西の連絡通路を抜け、西口のロータリーに辿り着き、周辺を見回した。
ロータリーの一角に設けられた電話ボックス。そのガラスの箱の中から足を伸ばし、電話ボックスの中で尻を付けしゃがんでいる貴久の姿が目に飛び込んできた。そして酔っ払いでも見るような目で、貴久を横目に通り過ぎる通行人の姿も一緒に目に飛び込んできた。今時、誰でもスマホや携帯を持っている時代。公衆電話など利用する人は少ないが、貴久はずっとこのガラスの箱を占拠していたのだろう。
「貴久、おい、貴久」
尻を付けしゃがみ込む貴久の肩を揺らしながら、何度か名前を呼んだ。ぐったりと項垂れたはずの貴久がその振動に勢いよく立ち上がる。
「おい、貴久なんだよ。えらく落ちてんな」
貴久の気持ちなど考えない夏樹の態度を左腕で制止する。一歩後ろに下がり、勢いよく立ち上がった貴久をただ傍観していた安原も夏樹の態度は腑に落ちないのか、ギロリと睨みつけている。
「それで、デパートの店員はお前の息子の姿を見たって言ってるんだな」
「そうだよ。財布に入れていた航太の写真を見せたら間違いないって。若い男と一緒に来て、傘を買って行ったって。その男が支払って行ったから、父親だと思ってたって」
「その男に心当たりはないのか?」
「ないよ。学校の同僚で航太に会った事ある奴がいるけど、電話を受けた時一緒に学校にいたし。若い男なんて知らないよ」
「何か心当たり、何か、出てこないか? 若い男が誰か」
「若い男って、最近会ったのは、お前と夏樹と由之と。夏樹? あれ、由之は?」
共に駆け付けた夏樹にようやく貴久は気付いた様子だ。その夏樹に並ぶ安原の姿も確認できたのだろう。
「ああ、刑事さん。由之は? 由之」
曇らせたうえに雨粒で濡れた眼鏡の奥の目ははっきりとは見えないが、きょとんとした表情を作っている。三人の姿を見て落ち着いたからだろう、さっきの電話のような慌てた様子は消えている。
「貴久、由之には連絡取っていないのか」
「していないよ。由之の番号はスマホの中にしかなくて。晴人は名刺に番号書いて俺にくれただろ? その名刺が財布に入っていたんだよ」
そう答えながら貴久が濡れた眼鏡を外す。さっきまでの雨で貴久の全身は濡らされたのだろう。髪からの雫が頬で粒を作っている。
「由之に連絡取ってみた方がいいんじゃね?」
一歩後ろから提案する夏樹を安原が肘で小突く。
「夏樹、お前、由之に電話してくれないか」
二人の気配に振り返り、電話をするよう促す。まだ九月とあって気温は高いが、随分と雨に濡れたからだろう。もともと白い貴久の顔は更に青白く、唇は紫に近い色に変わっている。勿論貴久の息子の事は心配だが、今目の前にいる貴久の方が心配でならない。
「んー、コールはするけど出ないなあ」
「とりあえず高原だっけ? その由之とやらの所へ行ってみるしかなさそうだな」
傍観していたはずの安原が口を挟み、タクシーを停めようと車道側へ一歩体を乗り出させている。そんな安原の手に停まったタクシーの後部ドアが静かに開く。
「それで、その高原の家が分かる奴は?」
「五丁目です。新宿五丁目。近くまで行けば分かります」
貴久の声はその様子とは違い張りのある物だった。助手席に乗り込んだ安原は、運転手に新宿五丁目までと、行き先を伝えている。安原の指示を受けた運転手は四人の慌てぶりを感じ取ったのか、ドアを閉めるなり発車させ、甲州街道の交差点で左折のウィンカーを出している。あんなに激しく降っていたはずの雨はもう上がったようで、ワイパーで拭われた窓に落ちる雫は一粒もなかった。
「このマンションの一二〇一のはずです。確か最上階のはずなんで」
「さすが貴久だな、何度もお泊りに来ているんだもんな」
「一度だよ」
ぼそりと吐かれた貴久の一言に、夏樹がそれ以上の茶々を入れる事はなかった。安原がタクシーの精算を済ましせいる間に、オートロックのパネルで一二〇一呼と押してみる。数秒の間のあと、パネルのスピーカーから、「はい」と小さな声が漏れた。
「由之か? 晴人だけど、それと貴久と」
「えっ? 晴人? なんで? ああ、貴久」
スピーカーの声が切れ、自動ドアが静かに開く。
「それにしても良い所に住んでるなあ。あんな小さな店でもきっと充分儲かるんだろうな」
男四人で乗り込んだ狭いエレベーターの中、夏樹が勝手に値踏みしている。新宿と言う土地柄、ある程度の基準ではあるが、五丁目から六丁目、七丁目辺りは住宅街もあり、東京の他のエリアよりは比較的低めの家賃相場だと聞いた事がある。
貴久にも夏樹の勝手な値踏みは届いていない様子だった。貴久自身、近くの小学校に勤めている。この周辺に暮らす子供達を教えているのだから、由之が暮らすこのマンション周辺の相場や生活基準を知っていても当然だ。
「どうして晴人まで?」
開いたドアから顔を出した由之が目を丸くしている。由之からは夏樹や安原の姿までは見えないのだろう。
玄関のコンセントに繋がれた不自然なドライヤーに目を落とす。後ろにいた貴久に押し退けられる。
「航太は? 航太いるのか?」
貴久の声は電話を寄越した時と同じ、慌てたものに変わっている。そんな貴久はドライヤーの横に転がる子供用の靴を目にした途端、玄関に立つ由之まで押し退け、土足のまま部屋の中へと進んで行った。
「貴久、靴くらい脱いでよ」
咄嗟の声が耳に届いたようで、貴久は三歩ほど進んだ所で靴を脱ぎ、廊下の奥へと進んで行く。
「いいかな?」
靴を脱ぎ貴久の背中に続く。玄関で呆然と立つ由之の目に、ドアの隙間に立つ夏樹と見覚えのない男の姿が見えたのだろう。
「えっ!」と、更に困惑した声を上げている。
貴久の背中を追って辿り着いたベッドには子供の姿があった。貴久のその表情から、航太である事は分かる。
「航太、良かった」
ベッドの横に膝を落とす貴久。その横に立ちはしたが、いつの間にか夏樹と安原もすぐ後ろまで来ていた。
「ちょっと、何なの? いきなり大勢で押しかけて」
十二畳程の部屋を男四人で埋めた事に由之が声を上げる。その声を聞いた貴久が跪いたまま由之へと振り返る。
「由之、お前!」
怒りを露わにした貴久の声、咄嗟にしゃがみ、その体を押さえる。
「ちょっと、圧迫感が凄いからみんな座ってくれる。まだやる事あるのに、いきなり大勢で、本当何なの!」
由之は由之で意味が分からないと、小さな怒りを露わにしている。だがそれは一瞬の事で、座らせた四人の男を気にせず玄関へと戻っていく。由之が手にしているのは、ドライヤーと子供用の靴だ。そのドライヤーをコンセントに繋ぎ直し、子供用の靴に熱風を送る由之の姿に最初に口を開いたのは安原だった。
「すみません、突然押しかけて。古賀と同じ新宿東署の安原です。三芳さんからお子さんが誘拐されたと連絡がありまして、こうして伺ったんですが、何か行き違い、勘違いがあったようですね」
「誘拐?」
安原が出した誘拐と言う言葉に一番の驚きを見せたのは由之だった。それでもドライヤーで靴を乾かす作業は止めないようで、由之の手元から大きな音が放たれる。その音にベッドで眠っている航太の体が少し反応している。
「起こさないように玄関で乾かしていたのに、航太君、起きちゃうじゃない」
さっき露わにした小さな怒りをもう一度由之が覗かせる。
「どういう経緯でこうなったか教えてくれないか」
ドライヤーの音に負けないようにと少し声を張ってみた。由之は、「えっ」と、聞き返しはしたが、ドライヤーの大きな音の隙間にその声を拾えたようだった。
「経緯も何も、服がびしょ濡れだったから、洗濯して乾かしているところ。靴はどうしようもないから、今こうして乾かしているところ。それより貴久、何度も電話したのになんで出ないのよ」
由之の小さな怒りの矛先が貴久へと向く。
「ごめん、携帯学校に忘れてきて。それより何で航太がここにいるんだよ」
「だから何度も電話したのに、出ない貴久が悪いんだよ」
貴久に向けられた怒りは鎮火する事がない様子だ。口を挟もうとしたが堪え、二人の会話に真相を委ねる。それは安原も同じようで黙って二人を見守っている。すぐに余計な事を口にしたがる夏樹は安原の鋭い目に晒され、何も発せられないようだ。
「新宿で買い物をしていたら、傘を差さずにびしょ濡れになった子供が泣いていたのよ。手には傘を持っていたんだけど、話を聞いたら壊してしまったって。周りの何人かで声を掛けたんだけどね。そうしたら、見覚えのある顔だなって。前に貴久、航太君の画像自慢気に見せてくれたでしょ? だから三芳君ですか? って、三芳航太君ですか? って、聞いたら、そうだって」
「偶然会ったんだ。誘拐じゃなかったんだ」
「誘拐なんてする訳ないでしょ。詳しく話を聞いたら、友達と遊んでいたら傘を壊して、新宿で買った傘だから、一人で新宿に来たって。だから同じ傘を買って帰るんだって。二人で同じ傘を探して、傘は同じの見つかったんだけどね。途中で、何度も貴久に電話しているのに出ないし。傘は見つかったけど、航太君びしょ濡れだし、タクシーでここに連れて来て、シャワー浴びさせたら眠くなったみたいで、寝ちゃったのよ。だからその間に服を全部洗濯して乾かしてって、そしたらいきなり大勢で押しかけるから」
「ごめん」
貴久の声にベッドの上の小さな体がぴくんと動く。聞き慣れた父親の声に反応したのだろうか。
「パパ?」
小さな体を起こし、貴久にしがみつく航太。二人の姿に由之は目を細めている。
一瞬目を覚ましたはずの航太はもう一度、ベッドで浅い眠りについている。父親の顔を見て安心したのもあるのだろうが、三鷹から新宿まで一人でやってきて、しかもどしゃぶりの雨に降られ、幼いながらもきっと疲れきっていたのだろう。由之に着せられ大きなシャツが尻まで隠してはいるが、タオルケットからはみ出た幼い足が見慣れないもので、思わず目を逸らした。きちんとタオルケットを掛けてやるべきなのか、暑がっての事なら、そのまま寝かせておく方がいいだろうが、幼い子供に接した事がない身には、正しい選択が出来ない。
「何が、誘拐だよ。本当に人騒がせだなあ」
航太の足にタオルケットを掛けながらも、夏樹が悪態をつく。
「まあな、でもまだ一年生だろ? 親としては心配になって仕方ないよ」
ようやく靴を乾かし終わったのか、由之はドライヤーのコードを巻いている。貴久は由之のスマホを借り、あちこちに電話をしている。真っ先に妻である航太の母親に電話している姿は目にしたが、その後一体どれだけの電話をしていただろうか。
「それで? なんでこんな大勢で押しかけてくるんですか?」
靴を乾かし終わったからか、ベッドの脇に由之も腰を下す。その目はさっき見せた怒りをまだ含んでいるように見えた。
「すまない」一言謝った横で夏樹が口を開く。
「いや、たまたまなんだよ。安原さんと晴人と三人で飲んでいるところへ、貴久から電話が掛かってきて、まあ、貴久が電話を掛けたのは晴人になんだけどね。まあ、流れでこんな感じになっちゃったんだよ」
夏樹の話し方があまりにも軽いものだからか、由之の怒りが呆れに変わっているようも見受けられる。
「高原さんですね。すみません、突然。でも一度お会いして話を聞きたかったので、私としてはちょうどよかったんです」
ずっと黙っていたはずの安原が由之に膝を合わせている。由之の顔は今度は困ったような表情に変わっている。
「安原さん、かしこまったら由之がびっくりしますよ」
貴久の件が落ち着いたからか、夏樹が急にしゃしゃり出る。玄関の近くから、ちょうど乾燥が終わった報せのピーピーと言う音が聞こえている。由之は立ち上がりもう一度玄関へと体を向かわせる。手にした航太の服と半ズボン、靴下や下着を畳みながら、三人の横に腰を下す。玄関への廊下で電話を掛けていた貴久が由之に向かって言った、ありがとうと言う小さな声が耳に飛び込んでくる。
「それで? お話って何ですか?」
航太が眠るベッドの脇に畳んだ服を置き、今度は由之が安原へ膝を合わせる。
「率直に伺います。高原さんは殺された小林の件はご存知ですね?」
「はい、前に晴人と夏樹と、貴久は寝ていましたけど、話したことがあります」
「それで、伺いたいんですが? 小林とは面識がありましたか?」
「もちろん。小学校時代の先生ですから。それと前にですけど、うちの店に飲みに来ました。お友達と一緒でしたけど、そのお友達がうちの常連さんの知り合いで、紹介されて来たと言ってました。その時は小林先生だとは気付きませんでしたけど」
「それと、小林が殺された日は三芳貴久さんと一緒にいらっしゃったとお伺いしたんですが、間違いないですか?」
安原に尋ねられた由之がこちらを睨んでいる。由之が言わんとする事に身に覚えがないから、首を横に振るしかない。だがそんな姿が視界に入ったのか、夏樹がにやりと笑っている。四人での会話が夏樹を通し、安原に筒抜けになっている事を改めて知らされる。
「はい、誰から聞いたのかは知りませんが、間違いないですよ」
夏樹がにやりと笑った顔を見ていなかったようで、明らかな不信感を由之は示してくる。
「分かりました。最後に一ついいですか?」
「何ですか?」
「東新宿の郵便局で大量の封筒を送った記憶はありますか?」
「郵便局ですか?」
小林の話から郵便局へ飛んだ事に由之の顔が曇っていく。その質問の意図を読み取ろうとしているのか、何も発さず間を保っている。
「はい、郵便局の防犯カメラにあなたらしい人物が映っていて、その人物が大量の封筒を出していたんですよ」
「その人物が自分かどうか分かりませんが、周年パーティーの招待状を五十通程出した事があって、東新宿の郵便局からです。いつだったかは覚えていないですが。パーティーの前だったので、春だったと思います。それ以外に最近郵便局へ行った記憶はありません」
「ありがとうございます」
忙しく動き回る郵便局の早送りされた映像を思い出していた。あのキャップに眼鏡の男は由之に間違いなかった。ただ違和感を覚えた大量の封筒は、由之が話した招待状であり、タレコミの写真を送った人物は別の誰かに違いない。由之は偶然同じ郵便局に居合わせただけ。多少なりとも由之に向けられていた安原の疑いは拭えただろう。
安原がそれ以上の質問を投げる事はなかった。藪から棒にすみません。と、下した腰を上げている。
「安原さん、飲み直しましょうよ」
「ああ、そうだな。古賀はどうする?」
「俺はもう少し残ります。貴久が落ち着いたら一緒に出ますよ」
これからの時間を安原と過ごす義務はない。それに安原に続く夏樹にはこれ以上関わりたくもない。
安原と夏樹の二人が抜けた部屋は広く感じられた。間取りで言えば1Kではあるが、十二畳はあるだろう部屋は男一人で暮らすには充分な広さだ。だが大の男が四人も五人も集えば狭く感じるものだ。二人が抜け、由之と二人になった空間は圧迫感もなく、物理的な問題だけではなく、居心地のいい空間に変わっていた。
「由之、本当にありがとう。何から何まで」
一通りの電話を掛け終わったのか、貴久が由之にスマホを返している。
「まだ、寝ているね。よっぽど疲れたんだろうね」
ベッドに寝させた航太の顔を覗き込む由之の顔はとても優しいもので、さっき安原の質問に応えていた由之とは別人に見えた。安原と夏樹が抜け、由之にとっても居心地のいい空間に戻ったのだろう。
「そろそろ航太を起こして帰るよ。ああ、傘代に、あと電話代」
貴久がポケットから財布を取り出している。
「いいよ、そんなの」
「いや、でも」
「傘は俺から航太君へのプレゼント。何か子供の頃を思い出して放っておけなかっただけだから、貴久は気にしなくていいよ」
「子供の頃?」
「アギトとか流行ってたよね。何かフレイムセイバーとか思い出したんだよね」
黙って由之と貴久の様子を見守る。由之が口にしたアギトもフレイムセイバーもすぐにピンと来るものはなかったが、貴久にはすぐ理解できたようだ。「ああ」と、眼鏡の奥の目をさらに細めている。脳裏にどんな光景を描いているのか、見る事は出来ないが、疎外されている気分にはならなかった。
——アギト。
——フレイムセイバー。
二人が懐かしむ材料に同じように懐かしむ事が出来ないのは、きっと何かが抜け落ちているからだろう。何が抜け落ちているのか、何故抜け落ちているのか、見当は付かないが、二十年以上も昔の話だ。思い出す必要のない事と片付けてもいいだろう。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる
まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」
父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。
清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。
なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。
学校では誰もが憧れる高嶺の花。
家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。
しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。
「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」
秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。
彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。
「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」
これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。
完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。
『著者より』
もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる