冬のキリギリス

かの

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第2章 始まりの始まり(今瀬初子)

08

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 滲みの付いた白い天井は今もそこに存在している筈だった。

 誰に呼ばれる事なく意識を取り戻した日はアリとキリギリスの結末を思い浮かべる。

 雪の野原に俯せに倒れ野垂れ死んだキリギリス。何度もせがんだ筈なのにあの絵本の最後のページを思い出す事が出来ない。

 それなのに航基が言った『秋には全部死んでしまうんだって、キリギリスに冬は来ないんだって』そんな言葉だけが頭の中を駆け巡る。

「初子、ごめんな」

 頭の中を駆け巡っていた航基の声ではなかった。

 聞き慣れた亨の声ではあったが別人のようにも聞こえる声。疲れを含み焦りを含み今にも途絶えそうな細い声。

 声に対して言うのはおかしいかもしれないが、どこか焦点の合っていない声だった。

「初子、ごめんな、兄ちゃんな」

 焦点の合っていない声は亨のもので間違いなかった。

——お兄ちゃん、どうしたの? 何かあったの?

 そう発してみるが亨に聞かせられる筈もなく息にすらならない。何一つ返す事が出来ない亨に不安を覚える事しか出来ない。

 ごめんな。と謝罪を口にした以上のものは聞く事が出来なかった。

 ただこの亨の声を聞いた以降。意識が閉じられる事もなかった。

 それがどれほど長い時間の中での事なのか時間を計る術がないから分からない。だけど数分、数時間ではなく、数日だと言う事は体感できた。

——亨の声の原因は何だったのだろうか。

 ただその原因にだけ集中する。

 いつ殻に守られた自分に戻されるかは分からない。自身でコントロール出来る分けではない。ただ原因を探るために意識を集中させた数日。そんな時間の中で焦点の合わない亨の声の原因を知る事が出来た。

 母さんと医師の会話であり、看護師たちの噂話に上がりもしていた。

 周りから見れば植物状態の抜け殻の意識など気にする事はない。

——お兄ちゃんが人を殺した。

 航基のために生きていると言っていた亨が航基を殺した。知りたいと望んだ事がこんなにも残酷な事実を連れてくるなんて思いもしなかった。

 亨はまだ逃亡している。

 今もどこかを逃げ回る亨。

 もしかしたらどこかに身を潜めているのかもしれない。それなのに何もできない自分に浴びせられる残酷な噂話。どれだけ残酷であれ反論する事も出来ない。意識があると信じているのは自分だけでやはり肉の塊でしかない。

——亨が航基を殺した。

 何故か冷静に受け止める事が出来るのは、器と意識が分離した状態だからだろう。

 は字こそ似ているが非なるものである事を実感させられる。

 きっと交通事故に遭ったあの日全てを失ったのだ。誰にも伝える事が出来ないと嘆いたこの意識さえ失くしていたのなら、亨が航基を殺したと言う事実も嘘に出来る。

「私はたった二人の子も幸せにしてやれなかった。この子も、亨も。私は母親としてたった二人の子も守ってやれなかった」

 ベッドに泣き崩れただろう母さんの重さを痛い程感じる。

——母さん、本当にごめんなさい。

 この懺悔すら届けられないけど、本当にごめんなさい。

 滲みの付いた天井をただ眺めていたと思っていたけど、意識なんてものはあの日からなかったんだ。

 亨が人を殺したなんて話は造り上げたもの。今こうして母さんが泣き崩れているのも造り上げたもの。

 どうしてそんな話を造り上げたかは分からないけど、お兄ちゃんも母さんも幸せに暮らしている筈だ。

 あの事故の日。二人と繋ぐものは切れたかもしれないけど、二人の幸せだけは知っている。

 お兄ちゃんと母さんが幸せでいられるなら、意識なくあの事故の日に朽ちていても幸せだと言える。どうかこの意志を貫かせてください。

 私はあの事故の日に朽ちたけど、お兄ちゃんと母さんは今も私のいない世界で幸せに暮らしている。それが私の意志だ。

 私にはお兄ちゃんと母さんと過ごした時間がある。

 それが幾ら遠い昔の話であっても、朽ちた私には充分なはずだ。アリさんの絵本を読んでって何度もせがんだ記憶。

 それだけで充分だ。

——アリとキリギリス。

 その絵本の最後のページ。

 思い出せないそのページを思い出そうと、ただそれだけに集中する私で充分だ。

 確かキリギリスって冬に死んだんだよね。アリに食べ物もらえなくて。

 あれ? キリギリスって死んだんだっけ? やはり最後のページは思い出せない。キリギリスの最後……。

——そうだ、雪の野原だ。

 真っ白な世界。白と黒と灰色の世界。それはよく知る高山の町と同じだ。真っ白な雪の野原。足元を見れば黒く汚されていても遠くを見ればやはり真っ白な雪の野原がある。

 そしてキリギリス。

 キリギリスの最後。真っ白な雪の野原で野垂れ死んだキリギリス。

 キリギリスの最後を思い描いたはずなのに、どうしてだろうか。

 雪の野原に倒れているのは、キリギリスではなく亨だった。

 キリギリスの最後のページにただ集中する事も許されないなんてどれ程重い罪を背負ってしまったのだろう。

——お兄ちゃん、ごめんなさい。

——母さん、ごめんなさい。

 もう何一つ望む事を許されないようだ。

 知っている筈の二人の幸せを信じる事すらとがめられる世界に私の居場所はもうないらしい。

 お兄ちゃん、ごめんね。母さんごめんね。



 第2章 始まりの始まり(終)
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