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第一章

慟哭 弐

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何本目かの煙草を味わいながら、大和は暗い室内の窓枠に手をついて、見るともなく空を見上げていた。

砕かれた硝子のような星空は広く、どこか冷え冷えとした虚無を湛えているようだった。

美しい。他になにもありもしないのに、飽きがないのだ。

じりじりと短くなっていく煙草の煙は上へ上へ静かにのぼっていく。
梅雨が終わって晴れの日が続くようになった頃だろうか。ここ数日の夜は、ずっとこうしている事が殆どだ。

しかし、今夜はなにか落ち着かない。山城に殴られた頬がまだ痛むからなのか、せっかくの冬月の気遣いを無下にしてしまったからなのか、どちらとも言えない。だが、なにか胸の内に燻るものがあった。

「歩くか」

こういう時は、身体を動かすのに限る。

その辺の椅子に引っ掻けておいた上着をひっつかみ、煙草を咥えたまま外へ出ていった。












人の気配も消えた渚は閑静としている。当然だ。今ここを海沿いに歩いているのは大和だけなのだから。

黒い軍帽に一種軍装、全身が黒く、影がゆっくりと移動しているようにみえる。

手元には新しい煙草が握られており、丁度マッチをすっているところだった。

火のついた煙草をゆっくり、ゆっくりと吸い込む。
一日で一箱を開けることもあれば、それだけでは足りない日も多い。
成分による依存と言うよりか、煙草そのものに不安の捌け口を求めているようだった。

うまそうとも不味そうとも言えぬ顔で煙を吐きつつ、足は止めない。向かう先は、昼間に冬月と共に演習を行っていたあの港だった。

さっそく着くや否や、大和は倉庫の中に入り、今度は脚部艤装のみを引っ張り出してきた。

大和の言う『歩く』とは、海上を艤装によって航行することも指していた。
脹ら脛まであるそれをさっさと装着すると、大和は倉庫を後に、岸壁へ向かった。



両舷微速前進、行く宛もなく走っている。
頬にあたる風は冷たく、腫れた傷には少しきつい。

速力はそんなにないが、長い髪を乱すには十分な強い潮風が吹いている。

なにも考えたくない時は、大抵大和は海へ出ていた。無論、誰の許可も得てはいない。

港湾からかなり離れた沖の方で大和はさらに速度を落とす。なにも邪魔になるものがないここで星を見たいようだった。

「・・・・・雲が出てるのぉ」

しかし、東の方からなにやら不穏な色をした厚い雲の塊がこちらに向かってきている事に気づいた。

海と山の天候はあっという間に変わる。これは所謂・・・・・

とっさに反転し港湾へ帰投しようとしたところで、虚しくもぽつぽつと大きな粒が落ちてきた。
あっ、と思った直後、粒は勢いと数を増し、瞬く間に海が荒れ始めたのだ。
思わぬ悪天候に大和は堪らず舌打ちをし、速力を上げて回頭にうつる。

と、その時だった。

大和の真っ赤な双眼に、ちらりとなにかをとらえた。
大きくうねる波間に、青白い光が見え隠れしている。

その青白いものはなにかもがいている様だが、どこか弱々しい。
あれは、死者の魂だ。

(またか・・・・・)

大和は、面倒な事に首を突っ込みたくはないとすぐにその場を離れようとした。

しかし、あの青白いものが、何故か異様に気になって仕方がない。

別段、色や形が綺麗だったとか、声がしたとかではない。

荒波に揉みくちゃにされ、今にも沈みそうなのだが、まだ頑張って水面に浮かんでいる。

死者の魂が生に執着するのはよくある事だ。先ほどの青白いものも、他のものとほぼ同じだ。しかし、しかしだ。

大和がどうしても気になったのは、見てくれの形に違和感のようなものを感じたからだった。

どうしても好奇心に勝てず、結局大和はその正体を確かめることにした。

向かい風に目を塞がれるようだった。
分厚い軍装はすでにじっとりと内側まで雨水を吸い、とてもじゃないが動きにくい。

それでも何とか数メートル程航行し、溺れるそれを目にし大和は息をのんだ。

死者であるのは間違いない。が、青白い光は、子供の魂だった。

まだ親の胸で甘えているような、小さな女の子だった。

海面にかろうじて顔を出してはいたが、目の前で波に隠され沈んでいく。
辛抱ならなくなり、大和は思わず右腕を波の中に突っ込んだ。


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