ヒイロ回顧録

五十六

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第9話「薪火相伝」

大陸歴 2791年 5月 / エヴェリン王国 王都リュミエール / エリシア・エヴェリン(先代女王)

夜の帳が下り、王宮は深い静寂に包まれていた。 私は足音を忍ばせ、王家の未来が眠る部屋――ヒイロの寝室へと足を運んだ。

扉を開けると、そこには疲れ切った様子の現国王夫婦の姿があった。 娘のアウローラは、ベビーベッドの柵に寄りかかるようにして微睡んでおり、その肩を夫のエリオンが優しく支えている。ここ数日の出産騒ぎと、公務やこれからの準備で、二人の体力は限界に近いのだろう。

「アウローラ、エリオン。……お疲れ様」

私が声をかけると、二人はハッと顔を上げた。

「お母様……? 申し訳ありません、つい」 
「いいのよ。二人とも、顔色が優れません。今日はもう自分の部屋で休みなさい」

私は微笑みながら、けれど先代女王としての威厳をわずかに込めて告げた。

「でも、ヒイロが……」
「この子の番は、お婆ちゃんである私が引き受けましたよ。さあ、行きなさい」

アウローラは少し迷ったようだが、エリオンに促されて立ち上がった。

「ありがとうございます、エリシア様。お言葉に甘えさせていただきます」 
「ええ、ありがとう母様。……おやすみなさい」

二人が部屋を出ていくのを見送り、扉が静かに閉まる。 部屋に残ったのは、ベビーベッドですやすやと眠るヒイロと、部屋の隅で影のように控えていた侍女長のエラーラ、そして私の三人だけになった。

「……ふふ。あの子たちも、すっかり親の顔ね」

私がベビーベッドを覗き込みながら呟くと、背後で気配が動いた。

「左様でございますね。……姉様も、お座りになってはいかがですか? 夜は冷えます」

エラーラが慣れた手つきでショールを私の肩にかけ、椅子を引いてくれる。 公の場では「先代様」と呼ばれるが、二人きりの時は昔のように自然な会話ができる。彼女は私の10歳下の妹であり、誰よりも信頼できる片腕だ。

「ありがとう、エラーラ」

私は椅子に腰を下ろし、豪奢なレースに包まれた小さな寝顔を見つめた。 ヒイロ。エヴェリン王家に舞い降りた、奇跡のような男の子。 長い睫毛が頬に影を落とし、小さな胸が規則正しく上下している。そのあどけない寝顔を見ているだけで、胸の奥が熱くなるようだった。

「可愛い寝顔ね。あのアウローラが、こんな立派な男の子を産むなんて」
「ええ。本当に……本当によくぞ、無事に産まれてきてくださいました」

エラーラの声が、珍しく湿り気を帯びていた。 私は振り返り、妹の手を取った。その手には、長年王家を支え続けてきた年輪のような皺が刻まれている。

「エラーラ。貴女には、どれだけ感謝してもしきれないわ」

私の言葉に、彼女は驚いたように目を瞬かせた。

「何を仰いますか。私はただ、自分の務めを果たしているだけで……」 
「いいえ。貴女はリリアのように公爵として何不自由なく暮らすことだってできたはずよ。それなのに、貴女は公爵にはならないことを選んだ」

そう。エラーラは私の妹として、本来なら公爵位を持ち、華やかな社交界の中心にいるべき存在だった。 けれど彼女は、私が女王として即位した時、自ら爵位を返上し、生涯王家に仕える「侍女」の道を選んだのだ。 

『表で動く者ばかりではなく、裏方で支えとなるものが必要です。私が姉様の支えになります』

あの時の彼女の言葉は、今も私の心に焼き付いている。

「……貴女が影となって支えてくれたから、私は光でいられたのよ」

私は遠い昔を思い出した。 エリオンという稀有な伴侶を得たアウローラとは違い、私の時代はもっと過酷だった。 結婚してから何年も子供が授からなかった日々。 周囲からの無言の圧力。「世継ぎはまだか」という視線。女系国家において、子供を産めない女王など無価値だと言わんばかりの冷たい風当たり。 毎晩のように枕を濡らしていた私を、誰よりも近くで支え、励まし続けてくれたのはエラーラだった。

「アウローラが産まれた時、貴女、私より泣いていたわよね」 
「……お恥ずかしい限りです。あの時の産声を聞いた瞬間の安堵といったら、言葉に表せないほどでした」

エラーラが目尻を拭う仕草をして、私たちは小さく笑い合った。 そして今、そのアウローラが四人の娘と、このヒイロを産んだ。 エヴェリン王家はかつてないほど繁栄している。その礎を築いたのは、間違いなくこの妹の献身だ。

「それにしても……王子様といわれるのにふさわしい整った顔立ちね」

私はヒイロの柔らかな頬を指先で撫でた。

「ヒイロがどんな女性を好きになるのか想像もつかないわね。あの堅物で『氷の侍女長』なんて呼ばれていた貴女も、まさかあんな熱烈な恋をするなんてね」
「姉様、その話は……」

エラーラがバツが悪そうに顔を逸らす。 彼女が29歳の時だった。10歳も年下の子爵家の男性から、情熱的な求婚を受けた時のことだ。 普段は眉一つ動かさずに政務や宮中行事を取り仕切り侍女だけでなく高位貴族にさえも遠慮なく指導し恐れられた彼女が、年下の彼からの花束と恋文に顔を真っ赤にして慌てふためいていた姿は、私のアルバムの中でも一番のお気に入りだ。

「あの時は、貴女が一番取り乱していたわね。『10歳も下ですのよ!? 犯罪ですわ!』なんて叫んで」 
「……だって、彼はまだ19歳でしたもの。まさか、本気だなんて思いもしませんでした」

懐かしそうに目を細めるエラーラ。 厳格な彼女が選んだ遅れてきた春。その結婚生活は驚くほど温かく、幸せなものだった。

「それに、貴女の娘のアナスタシア。あの子も貴女に似て、芯が強いわ」 
「……似ているのは頑固なところだけですわ。宮殿なんて堅苦しいのは嫌だと言って、家出同然で国を飛び出して……」

エラーラが「やれやれ」と首を振る。エラーラの娘のアナスタシア=エヴェリン。父親が好きだった冒険小説に憧れ、「私は世界を見るの!」と飛び出していったお転婆娘。 けれど、その行動力と国外に行くことにも物怖じしない性格で、今やエヴェリン王国の貴重な外交官となっている。現在もドラコニア帝国に滞在し要人たちとの交流を深めていると聞く。

「外交官として立派にやっているじゃない。……やっぱり、血は争えないわね」 
「まったく、親の心子知らずでございます。……ですが、あの子があの子らしく生きているのなら、それが一番です」

厳格な侍女長の仮面の下にある、母親としての柔らかな表情。 私たちは共に歳を重ね、次の世代へとバトンを渡す時期に来ているのだ。

「ねえ、エラーラ」

私は改めて、妹に向き直った。

「先ほどの家族会議で、リリアの娘……ミラベルを、ヒイロの専属侍女にすることが決まったそうね」 
「はい。リリア様より申しつかりました」

ミラベル。リリアの次女で、今年で9歳になる少女。 真面目で、少し引っ込み思案なところがあるけれど、その瞳にはヒイロへの深い愛情が宿っていると聞く。

「時が過ぎるのは早いわね。私は60歳、あなたも50歳、もうお婆ちゃんよ」

私はエラーラの手を両手で包み込んだ。

「お願いよ、エラーラ。ミラベルを、次世代の貴女になれるように育ててあげてちょうだい」

私の言葉に、エラーラが背筋を伸ばす。

「この子、ヒイロには……貴女のような支えが必要なの。王子という孤独な光を、一番近くで支え、守り、時には叱ってくれる存在が」

私やアウローラにとってのエラーラのように。 ヒイロにも、心の底から信頼できる支えが必要なのだ。

エラーラは私の手を握り返し、深く、深く一礼した。

「御意。……私の持てる全ての技術、知識、そして王家を支えるものとしての心を、ミラベルに託しましょう。彼女を、ヒイロ様の専属侍女、そして将来の侍女長を担えるような存在となるよう育て上げます」

その声には、一点の曇りもない決意が込められていた。私たち老人は彼ら彼女らとは同じ時代を生きていくことは難しいだろう。しかし、私たちの想いは、こうして繋がっていくのだ。

「ありがとう、エラーラ」

私は立ち上がり、再びベビーベッドの中の小さな希望を見つめた。 窓から差し込む月光が、ヒイロの顔を優しく照らしている。

「おやすみ、ヒイロ。おやすみ、私たちの未来」

私はそっと、ヒイロの額にキスを落とした。 穏やかな寝息は、まるでこれからの平和な時代を約束するリズムのように聞こえた。

夜はまだ長い。けれど、この部屋には確かな温もりと、未来への希望が満ちていた。
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