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猫丸

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1.一人の老人

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 日が落ちたというのに、湿度を含んだ空気は身体にまとわりつき、日中の日差しで温まった地面から熱が湧き上がってくるようなそんな日だった。
 一日の仕事を終え、今日は直帰。
 俺は暑さに耐えきれず、灯りがともったばかりのバーへ入った。
 店内にはマスター以外誰もいなかった。
 ジャズの音楽がかかっていたが、それよりも空調や冷蔵庫のモーター音の方が大きい。
 俺はメニューも見ずにビールを頼んだ。
 目の前に置かれた冷たいビールをカラカラの喉に一気に流し込んで、やっと一息つく。
 おかわりを頼んだところで、カランとバーのドアが開いて別の客が入ってきた。
 白髪の老人。杖をつき、足を引きずっている。
「おや? K新聞の……」
 入ってきた男が俺を見て言った。
 俺は気まずくなって、「どうも」と照れ笑いをした。
「先ほどはどうも。お隣、良いですか?」
 仕事は終わったのだ。悪いことをしているわけではないのだが、仕事上がりにすぐに酒を飲んでいるところを見られるのはなんだか気まずかった。
 俺は欲望に負け、目についた近場の店で手を打ってしまったことを少しだけ後悔した。

 男性は本日の取材対象の一人だった。
 社会部の新聞記者をしている俺は、戦後50年の特集記事のために先程まで戦争体験者の話を聞いていた。
 彼は終戦直前、フィリピン戦線での生き残りだった。
 被災体験は聞けても、実際に戦地に行った人達の口は堅い。そこをなんとか説き伏せて話してもらった相手だった。
 当時の記録を見ると、彼の派遣された島では、日本軍は補給路を断たれた上に、島の物資も使い果たしていて、『自活自戦』『永久抗戦』という命令が下されていた。食料も物資も自ら現地調達し、永久に戦い続けろというもの。
 終戦から何年も経って、やっと当時の軍国主義の異常性が明らかになったが、彼と共に戦地に補充された将兵のうち、生きて帰ることができたのは一割にも満たなかったという。

 現地での壮絶な体験を聞いてしまっただけに、このようなお気楽な姿を見せるのは心苦しい。
「そんな、楽にしてください。良い記事になりそうですか?」
 俺の戸惑いを感じ取ったのか、老人はそういって恐縮した。
「ええ、お陰様で。先程はつらい記憶を語っていただいてありがとうございました」
 俺は(これを飲んだら店を出よう)と思いながら、仕事の顔に戻って返事をした。
 そそくさと目の前に置かれた新しいビールの杯に手を伸ばすと、老人の前には氷の入った琥珀色の液体が置かれた。
「もう一つ、私の話を聞いてもらっても良いですか? 一度話し始めると、色々な記憶が蘇って来てどうも整理がつかなくて……」
 俺は戸惑いながらも、仕事の顔を崩さず頷いた。
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