真名を告げるもの

三石成

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第四章「潜むもの」-side白-

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 おれは身振り手振りで謙介に塩と、そのほか必要な物品を持っていくように伝え、謙介はそんなおれの指示に従って、台所にあったあったありったけの物を集めた。

 バケツにゴミ袋と雑巾、塩を二袋入れ、片腕に抱えた謙介は、俺の体も小脇に抱えるように抱き上げるとおれの部屋へと向かう。抱えられる姿勢に文句はあるが、その文句すら言えない状況だ。

「祭りの時のことは、大野から全部聞いた。その……俺のために、ボロボロになるまで力使ってくれて、ありがとうな。隼人の葬式も……終わったよ」

 別に謙介のために蛟を封じた訳ではないのだが。

「いつ目が覚めたのか知らないんだが、今は祭りから一週間後だ。いつもならすぐに式神を使って呼び出しがあるのにないしな、薄紫さんに電話かけても出ないから心配になって様子を見に来たんだ」

 おれの返事がなくとも気にせず話し続ける謙介の声を聞きながら、おれはそうかと息を漏らす。屋敷がこの状況になっているのだから、当然電話など通じるはずもない。

「石段上がってもあいつがついてくるから、おかしいなとは思ったんだ。外は蝉が煩いくらい鳴いてたのに、家の中に入ったら急に何の音もしなくなって。物音がして行ってみたら、白が襲われているところだった」

 謙介が言うあいつ、とは近づくもののことだろう。小脇に抱えられたまま振り向くように視線を向けると、たしかに廊下の先にぼうっとした存在が立っていた。本当に随分と近づいてしまったものだ。

 おれの仕草に気づいたのか、部屋に入りながら謙介は言葉を付け加える。

「白がつくってくれた俺の部屋の次元はちゃんとあのまま残ってる。おかげで夏休みだっていうのに一日中自分の部屋に引き篭もってるよ……大野も、祭りの時はあれが見えたらしいんだが、今は見えなくなったみたいだ」

 それはそうだろうと頷く。剣にはそういったものを感じとる嗅覚のようなものが存在しないのだ。

 向こうから直接的な干渉をして来ないこの世ならざるものを、見たり感じたりする作業というのは、ラジオのチューニングに似ている。

 そのものの波数とこちらの波数が合った時にようやく存在を受け取れる。例えば剣は蛟が己を誘う姿を見たと言っていたが、ああいう時はこの世ならざるものが、その対象に合わせてチューニングをしている形になる。

 祭りの時はあの緊急事態で、剣の感覚が強制的にこの世ならざるものに合っていただけの話。日常に戻ってしまえば、チューニングも外れる。

 布団の上に下ろされたが、この状況下で寝ている訳にもいかない。

「この屋敷、一体どうしちゃったんだ?」

 おれは布団の上に起き上がったまま文机へ手をのばすと、抽斗からノートと万年筆を取り出し、謙介の疑問に答えるために筆談を始めた。

《薄紫の力が失われています》

「薄紫さん……? あの人もなにか特別な力を持ってた人だったのか?」

 謙介も同じように布団の上に胡座をかいて座り込み、ノートを覗き込む。

《薄紫は人ではありません。この屋敷の付喪神です》

 おれの文字を見た途端、謙介の顎が下がって大きく口が開く。この驚きよう、謙介は勘が良い方かと思っていたがそうでもなかったのだろうか。

「屋敷の付喪神の力がなくなってるから、屋敷が変なことになってる……ってことか?」

 問いかけに頷きながら、おれはさらに万年筆を走らせる。

《何者かが薄紫の力を奪い、さらに屋敷の次元の境へ穴を開けようとしています》

「何者かって、この世ならざるもの、か?」

《人です》

 そうノートに綴りながら、おれは体の内側から冷えるような感覚を覚えていた。

 あの祭りの日、おれは自分に向けられた、強烈な人の悪意を感じた。そして、それは今もずっと続いている。

 次元の境が強固になる祭りの日に、次元を超えられるこの世ならざるものは存在しない。何かことを起こすのなら、普通は祭りを避けるものだ。

 しかし、あれは祭りの日に起こった。

 そこには確かな意図が存在する。

 祭りの日はおれが一年で最も気を緩める日だと知っていた者が、狙ってやったことだ。

 通常であれば、おれが、蛟があれだけの派手な動きをしていたのを感じないわけがない。油断をしていた。蛟が暴走しきる前にことを止められていたら、そう、悔やんでも仕方がないことだが……。

 蛟はすでに祭りの前日には人を誘い込んでいた。ならば、井戸にあの獣の腐肉が投げ込まれたのは祭りの前日のことだろう。

 だが、まだ式に則って人を呼び込もうとしていた分だけ蛟の理性が残っていたような気がする。おれに感じ取られないように潜んでも居た。

 その穢が毒として回るのに一日を要した。そして腐肉を投げ込んだ者は、そのことすら把握していたのだろうと推測もできる。

 蛟が謙介を捉えたのは偶然の産物であろうし、剣と穂香がおれに知らせに来ることを、ことを犯した者が想定していたかどうかは分からない。

 だが水神である蛟があの状態になってしまえば、いつかはそれを封じるためにおれが相応のダメージを負うことは必然。

 実際におれは一週間昏倒し、今は術すら紡げない状態になっている。

 そして、その間にこの屋敷の惨状だ。

「ただの人が……薄紫さんの力を奪ったり、次元を云々とか出来るもんなのか?」

《屋敷のどこかに穢があります。まずはそれを見つけ、清めねばなりません》

「穢?」

《恐らく、獣の腐肉の塊》

「それって大野が言ってた、山の中の井戸で見たやつか? 祭りのときと、この屋敷の犯人、一緒ってことかよ」

 ここまで伝えれば、謙介もなんとなく予想がついたらしい。あの祭りで失われた友の存在を思い出してか、彼の握り込んだ拳が震えだす。

《この地は本来、次元の境が最も緩んでいる地点でした。なのでおれはここに屋敷を建て、次元の境を守っていたのですが、二百年を超えたあたりで薄紫が生まれ、この地の次元が非常に強固になったのです》

「屋敷を清めれば、薄紫さんが戻ってきて、次元の境ももとに戻る?」

 謙介の問いかけに頷く。

 付喪神というのは不思議な存在だ。この世ならざるもののような力を持ちながら、しかしこの世に生まれ、この世に受け入れられている。

 人が外の次元から異形を呼び込む術というものは無数に存在しているが、人が無意識に、さらに無から創り出せる異形は、付喪神しか存在しないだろう。

 薄紫がはじめて現れた時のことは、よく憶えている。

 あれは本当になんでもない春の日だった。不思議とこの世ならざるものの気配も感じず、温かい陽気の日で朝から気分が良くて、この部屋で書物をしていた。



「少しくらい、お休みになられたらどうですか」

 背後から聞こえたそんな声に驚いて振り向いて、さらに驚いた。彼女の風貌は、母にそっくりだった。白は産みの母を知らないので、もちろん体の母ではなく、初代神代と呼ばれる男の母親だ。

 母は当然のことながら百年以上も前に死んでいたので、それが異形であることは一目で分かったが、同時にこの世のものであることも分かった。

 名を問うと、素直にこの屋敷の名前である「草間庵」だと名乗った。そこからすぐに屋敷の付喪神であることが判明したのだ。

 真名のままで呼ぶといろいろと問題があるので、彼女の着ている着物の色から薄紫と名付けた。そう呼ぶことにしたと告げると、彼女は「まあ、可愛らしいお名前」と嬉しそうに笑っていた。

 あの薄紫色の着物は、母が一番気に入って良く身に着けていた着物だった。



「だけど犯人は、次元の境にどうやって穴を開けるんだ?」

 謙介の問いかけに、おれは過去へ飛ばしていた意識を引き戻し、万年筆を滑らせる。

《次元の境は、伸縮性のある膜のようなものと考えるとわかりやすいでしょう。膜の薄いところを破って何かが通過すると穴が開き、さらに何かが通ると穴が大きくなっていく》

「ああ……だから、この世ならざるものが出る度に白が対処しに行くのは、穴が広がらないようにして、それで次元の境を守ってるってことか」

 頷きで応える。

 穢を使って薄紫の力を奪ったところに、何らかの術を使ってこの世ならざるものを呼び込めば、そこから次々と異形が雪崩込んでくる。

 だからこそ、今この屋敷はこの世ならざるものの巣窟のような状態になっていると考えられる。さっきの見えざるものもその一部だろう。

 障子が開かなかったことから、中から外へは出られないようになっているようだ。おそらくそれは、ことを犯したものの意図したところではなく、異形を屋敷の中で食い止めようとしている薄紫の最後の防衛本能だろう。

 そもそもこの世界に次元の境は存在していなかった。混沌とした世界に、神が世界を区切りながら膜で覆うように、次元の境を作り出した。

 膜にはその厚さのばらつきがあり、世界各地に薄い地点というものが存在する。この神代町がその一つだ。

 この世に入り込みたい異形は当然のことながら膜の薄い地点から入り込もうとするため、その境の緩んでいるそれぞれの地点に、おれのような存在を置いた。と、おれは神から聞いた。

 日本にも別に同様の場所があるのかもしれないが、おれはこの地を離れたことがないのでその辺りのことは知らない。

 次元の外に行ったこともないので、そこに一体どんな世界が広がっているかも分からないが、こうも飽きもせずにあの手この手で異形が入り込もうとし、かつ物を奪っていこうとするのだから、よっぽど酷いところなのだろうと思っている。

 おれはそっと、息を漏らした。

 この世ならざるもののことは、慣れている。それこそ千年以上も前からずっとやりあってきたものだ。

 だが、人の悪意というものは、いくら経験したからといって慣れないものだ。

「白?」

 こちらを見る謙介の様子に、首を振って大丈夫だと示す。

《屋敷の中の穢を探し出しましょう。この世ならざるものに対応出来るのは今は塩だけしかありません。その場凌ぎにしか過ぎませんが、携帯していきますよ》

 おれはノートにそう綴りながら、謙介に指示を出していく。

 彼はこの状況に文句一つ言わずに従い出した。そんな謙介の姿を見、心の傷んだところが癒やされていくような心地がする。

 弱りきったおれだけでは、とてもこの局面を乗り切ることは出来なかっただろう。おれのことを心配した、と言った謙介の気持ちが、不思議なようで、ひどくくすぐったい。
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