真名を告げるもの

三石成

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第四章「潜むもの」-side白-

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 おれは謙介に背負われていた。

 屋敷の中を歩き回れる体力など今のおれにはないし、謙介を送り出した後はいくらかの塩を持って籠城するつもりでいたのだが。

 謙介は準備を終えると、部屋にあった帯を二本引っ張り出しておれを背負い、腕を離してもずり落ちないように背中と膝の所でお互いを固く縛ってしまった。

 意識を失っている時には散々謙介に運ばれていたが、どのような体勢で運ばれていたのかは知らないし、意識があるまま背負われるのは初めてだ。何か不思議な感覚がする。

「白が弱ってるのは分かってるが、こんな全部同じような見た目の屋敷の中、一人で放り出されたら速攻で迷う自信がある」

 謙介はおれを背負いながら、何故かそう自信満々に言い切っていた。

 部屋を出ると、その廊下には待ち構えるように近づくものが佇んでいたが、謙介は全く気にする様子を見せなかった。

 前はあれが視界に入ることすらひどく恐れている様子だったが、さすがにおれと共にいくつもの経験をして、この世ならざるものに慣れたのだろうか。

 謙介が足を出す度、床板がみしり、みしりと音を立てる。おれの体重が乗っている分その音も大きくなっているのだろうが、静まり返った屋敷の中に響くその音が、やけに気になる。

 と、次の瞬間、謙介が足を踏み出す少し前に、みしりと音がした。

 正確にはその音は、後ろからしている。歩く速度に合わせて、全く同じように足音をたてて後をついてきている者がいる。

 謙介もそれに気づいたのだろう。歩みが止まったのを感じて、おれは意思を伝えるようにその肩をぎゅっと握る。

 思ったことが伝わったのかどうかは分からないが、謙介は返事をするようにしっかりと頷き、再び歩き出した。

 部屋を出る前、おれはいくつかの注意をしていた。

 その中の一つが「背後から音や声がしても決して振り向くな」というものだ。この世ならざるものは、それぞれで実に多種多様な式を持っている。

 その中でも式の切っ掛けとして多いのが「名前を呼んで返事をさせる」、「声をかけて振り向かせる」といった、向こうからのアクションに対して反応をさせるものだ。

 蛟の「手招きに応じさせる」というのもその分類に属するだろう。

 そういった行為は、この世ならざるものをこの世のものとして自らに近づけてしまう意味合いがある。基本的に、向こうが何をしてきたとしても無視を貫かねばならない。

 だが、このただ無視をする、という行為は意外と難しい。

「おーい」

 背後から声が響いてきた。男のものだ。

 実にほのぼのとした凡庸な声は、だが、だからこそ不気味で、今この場に似つかわしくない。

「おーい、おーい」

 同じトーンで、まるで録音した声をただ繰り返し再生するように続けられる呼びかけは、徐々にその距離が近づいてきている。

 無視をし続けるのが難しいのは、なぜならその行為がエスカレートしていくからだ。

「おーい、おーい、おーい、おー……い」

 最後は、吐息を感じる程の耳横で声がした。全てを分かっているおれでさえも、背筋がゾワリとする程に近く。顔を少しでも横に傾けたら、それが見えてしまいそうな程に。

 ついに耐えかねたように、謙介が走り出した。

 だが、それと全く同じ速度で足音もついてくる。おれは指差しで屋敷の中の道案内に努める。

 目指しているのは、薄紫の自室である。元は母の部屋だったのだが、付喪神として薄紫が現れてからはそこを自分の部屋と定めていた。

 蛟の根城である井戸に穢が投げ込まれていたように、穢を置くのならばその対象にとってもっとも長く居る場所であろうと考えたのだ。

 追いかけられ続けながらも部屋の前まで辿り着き、勢いよく襖を開けて中へ入り込む。後ろ手に襖をピシャリと閉じると、一旦先程の声が途絶えた。

 体を重ねている背中から、謙介の息が上がっているのが伝わってくる。

「薄紫さんの部屋、ここか……来れてよかったけど、何もないみたいだな」

 辺りを見回し、謙介が呟く。

 確かに薄紫の部屋は以前と変わった様子がなかった。隠れた所に置いてあるかもしれないと匂いを嗅いでみるが、薄紫がいつもおれに焚いてくれる、白檀のお香の良い香りがするだけだ。

 綺麗に片付けられた和室におれの部屋にもあるような文机が置かれ、その上には小ぶりな青磁の花瓶が乗っている。いつもそこに、その時々の季節にあった花が飾られているが、今は枯れた檜扇の花がだらんと垂れていた。

 部屋の片隅に寄せられた、繕い途中であると見られる裁縫セットの様子が薄紫の生活の様子を漂わせていて。

 他に何か変わったことはないかと確かめていたとき、ジリリリッと耳に障る高いベルの音が鳴り響く。この部屋のすぐ外の廊下に置かれた、黒電話の音だろう。

 謙介が俺へ振り向く。

「あれ、取らない方が良いかな」

 おれは少し考えてから、手元の紙に文字を綴り、謙介に見せる。

《薄紫の可能性もある》

 もちろん罠の確率は高いが、姿が保てなくなった薄紫が、ただ残った意識を伝えるために電話という媒介を使ってきている可能性もあるのだ。

「……出てみる」

 謙介は意を決したように障子に手をかけ、そっと開けた。廊下の外に、近づくもの以外にはなにもいないのを確認してから出る。

 電話台に乗った黒電話は廊下で鳴り続けていた。恐る恐る、といった様子で受話器に手を伸ばし、持ち上げる。呼び出し音が止まり、再び屋敷の中に静寂が戻る。

「……はい」

 背負われて顔の距離が近いため、おれにも受話器からの声が聞こえてきた。

「松前様でございますか? 良かった、ご無事だったのですね」

 それは確かに、薄紫の優しい声だった。

「ああー、良かった、薄紫さんだ。俺、何度も電話したんですよ」

 謙介の体から強張りが抜け、声が明るくなった。

「外からの電話がすでに取れなくなっていたようです、申し訳ございません。白様もご無事ですか?」

「はい、大丈夫です。まだ声が出ないみたいなんですけど、今一緒にいます」

「そうでございますか、それは何よりです。松前様がご一緒にいらしてくださってよかった。松前様には白様を殺していただかないといけませんからね」

 受話器から流れてきた、いつもと、そして前の会話と全く変わらぬ声の調子に、一瞬聞き流しそうになった。

「……え?」

「松前様、今すぐ白様の首を締めていただけますか? 刃物が手元にあるなら刺していただいても構いませんよ。壁に頭を打ち付けても……」

 言葉の途中で、受話器を叩きつけるようにして通話を切った。謙介の体が震えている。

「今の、薄紫さんじゃない、よな。いくら力が奪われてるからって、違うよな」

 その問いかけに、おれはただ頷く。

 蛟は穢を受けて人を無差別に喰らうまでに暴走したが、それは、奴が古来においては贄を受けていた水神だからだ。同じ異形であったとしても、家の付喪神であるあの薄紫が、理性を失ったとて人の命を欲するような所業に走るとは思えない。

 この悪質さは、恐らく他のこの世ならざるものの仕業だ。

「すごい嫌なもん聞いた……もう、怖ぇ……」

 そこに付着した何かを拭うように、受話器をあてていた耳を擦りながら謙介がぼやく。

 異形に付き纏われ、攫われ、後を追いかけられて尚漏らさなかった弱音を吐く程に、よほど今のが堪えたらしい。

 おれはただ、宥めるように謙介の肩を叩く。

 なんとかしてやれたら良いが、術が使えない以上今は謙介に頼るしかない。

 しばらく電話台に手を置いて落ち込んでいた謙介だが、促しにようやく気を持ち直したようだ。再び警戒を強めながら廊下を歩き始める。

 今来た道を少し戻った先、目指すのは、真殿だ。

 薄紫の自室に穢がなかったとなれば、次に狙われるのは屋敷の中心地である真殿でしかありえない。さらに、薄紫は真殿の中へは決して入らないので見つかる恐れも少ないだろう。

 玄関から真殿へと繋がる、屋敷の中で一番長い廊下に出た時だった。

「ほっ、ほっ、ほっ」

 そんな、奇妙な声が聞こえてきた。

 先程の呼びかけは後ろから聞こえてきていたが、今度はその音の指向性が分からない。背後から聞こえてくるようでもあるし、前からも、左右からも。

 笑い声のような、何かの掛け声でもあるような奇妙なその声は低く、高く、上下を繰り返している。

 まるで自分を取り巻くようにあちこちに人がいて、それぞれがそれぞれの場所で声を上げているようだ。

「ほっ、ほっ、ほ、ほっ、ほ、ほ」

 謙介は、今度は足を止めることすらしなかった。先程よりも心持ち早くなった足取りで、ただ一目散に廊下を進み真殿を目指す。

 と、謙介とおれが通った所を追うように廊下の左右に並ぶ障子が次々と開いていく。

「ほ、ほっ、ほ、ほ、ほっ、ほっ」

 障子の開いた部屋の中、壁を貫通しながら異形が追いかけてきていた。

 黒ずんだ人の影のようなそれは、同じように黒い影を背負っている。どうやらあの声は、ものを背負いながら歩くときの掛け声のようだ。

 それを把握した瞬間、おれはゾッとした。あれは、「真似るもの」だ。謙介に伝えようと肩を叩こうとした時には、すでに入れ替わっていた。

 おれを背負っているのは、全体を細かい煤で覆われたような黒い影。そして視線を横へ向ければ、黒い何かを背負ったまま、こちらに気づかずに廊下を歩く謙介の姿がある。

「ほっ、ほっ、ほ、ほ、ほっ」

 自分を背負う異形が、一歩ごとにそう奇妙な声をあげ続けている。

「……ッ!」

 喉に焼け付くような痛みを感じながら必死に声を上げようと息を漏らし、足と腕を動かして暴れる。だが、体を帯で締められているのはそのままで、何の抵抗も出来ない。

 真似るものは、その呼び名の通りに対象を真似る。真似の行為が重なった時、対象の大切なものと異形を入れ替えてしまう。

 この世のものを連れ去り、かつ異形をこの世に紛れ込ませる非常に厄介な存在。このままでは、謙介が気づくことなくおれは次元の向こうへ運ばれてしまう。

 おれは奥歯を噛み締め、激しい頭痛を感じながら念じる。

 いつもは術を使っているが、この程度ならば呪を介さずとも発動できる。

 式神だ。

 何かに気づいたように謙介がこちらを向き、一瞬視線が合った。

「白!」

 謙介の目が見開かれた瞬間、襖が閉じる。

「白、白!」

 その向こうで、謙介が襖を揺らしているのを感じるが、それはビクともせずに閉め切られたまま。

 体の力が抜けていく。両の足先から、ひどく冷たい、ジェルのような何かに浸されていくような感覚がした。これが、次元の境を超える時の感触だろうか。

 瞬間、襖の向こうから醜い叫び声が上がり、おれを抱えていた存在が掻き消えた。そのまま重力に従ってどさりと畳の上へと落ちる。

 襖が開き、転がり込むようにして謙介が入ってくる。襖の向こうの廊下には塩が散らばっているのが見えた。恐らく、向こうで謙介が自分の背負っていた異形に塩を撒いたのだろう。

「白、大丈夫か」

 この屋敷で会った時のように再び抱き起こされて、思わず笑う。

 もし言葉が発せられたら、スマホよりも便利でしょう、なんて言ってやるのに。
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