克死院

三石成

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第一章 現代社会の監獄

二 過労

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 人身事故に巻き込まれた日から、丸一ヶ月が経過していた。つまり、俺の会社への連続泊まり込み最長記録もまた、一ヶ月になったということだ。あのとき竹下さんに押し付けられた仕事は、想像以上の過酷さだった。ありがたいことに会社にはシャワーがあるので、最低限の身支度は整えられている。いや、そもそも会社にシャワーが備え付けられているからこそ、この異常な泊まり込みが成立してしまっているとも言える。

 現在時刻は夜の一〇時を回った。部署によっては帰宅している者も多く、オフィスに灯っている照明はすでにまばらになっている。

 俺は執務エリアを出ると、給湯室に置かれている自動販売機に向かった。小銭を投入すると、もはや見ずとも位置のわかるボタンを押す。ゴトンという聞き慣れた音をたてて落ちてきたのは、赤と青の色がトレードマークの缶に入ったエナジードリンクだ。眠気を覚えるたび、これを飲むのが習慣になってしまっている。すでに飲みすぎて体が慣れたのか、覚醒の効果は薄い。だからといって他に頼れるものもない。

 缶を拾い上げると、自動販売機の横に無造作に置かれているパイプ椅子へと腰掛ける。喫煙の習慣を持たない俺がデスクを離れて過ごせるのは、ここでの僅かな休憩時間だけだ。タブを押しあけ、口をつける。すると、飲み慣れたはずの甘味と炭酸が不意に喉を刺激した。咽せて、激しく咳き込む。

「大丈夫?」

 意識の外から声をかけられて、俺は目を瞬いて視線を上げた。給湯室の入り口から、こちらを覗き見ているロングヘアの女性がいた。彼女の名は綾子あやこ。総務部で働いている、俺の同期だ。

「うわ、綾子ちゃん久しぶり」

「久しぶりー。って、毎日同じオフィスで働いているのに変な感じだけどね」

 さっぱりとした様子で綾子ちゃんは快活に笑った。彼女は入り口から覗き込むのをやめて俺の目の前に立つと、観察するような眼差しで俺を見る。

「咳き込む声がして見にきたんだけど、体調悪いんじゃない?」

「ちょっと炭酸が喉に効いて咽せちゃっただけ、大丈夫だよ。それより、綾子ちゃんはこんな時間にどうしたの?」

 総務部は定時出社、定時退社が基本だ。期末になると忙しくなることもあるが、それでも大幅な残業はしないため、この時間に彼女がいるのは珍しい。おかげで、同じオフィスにいながら顔を合わせるのも久しぶりという事態が発生するのだ。もちろん、総務部の席がオフィスの端に位置しているという物理上の理由もある。だが、夜間に定番で残る習慣のある社員の顔は、どれだけ席が離れていても記憶に残るものだ。

「私はちょっと忘れ物とりにきただけ。すぐ近くのレストランで友達と飲んでてさ」

「そっか、忘れ物は見つかった?」

「うん。デスクの足元に置きっぱなしにしてた」

 手にしている紙袋を揺らす彼女に、俺は良かったねと笑う。紙袋の様子からして、誰かへのプレゼントのようだ。そのレストランで飲んでいたという友達に渡すものだろうか。笑う俺とは反対に、綾子ちゃんは表情を曇らせた。

「ねえ、陸玖くん。顔色悪いよ? クマもすごいしさ。入社したときはキラキラしてて格好よかったのに、なんだかいまは別人みたい。ちゃんと休めてる?」

「あー……うーん」

 なんと言葉を返せば良いのかもわからず、曖昧な声を漏らす。

 周囲からは昔より、俺の顔は平均よりも良いと評されてきた。身長も一八二センチと、日本人にしては高い。なにか特別なことをしていたわけでもないのに、中学・高校・大学と、学生時代は女子生徒からよくモテた。かといって同性にやっかまれた記憶もなく、男女問わず友達が多かった。スクールカーストという存在を意識したことはなかったが、どこかに当てはめるならば、最上位にいたんだろう。最上位にいたからこそ、スクールカーストを意識せずに済んでいたのだろうと思う。

 そんな俺が、いまやブラック企業に搾取されている社畜だ。青白い顔に、染み付いたような目の下のクマ。友人たちとスポーツをして自然と筋肉がついていたはずの体は、不健康に痩せ細った。学生時代は「好青年という感じがして爽やかだ」と称されていた染めたことのない黒髪も、今はただただ陰気な雰囲気を漂わせている。

「いま抱えてる大きい案件が大晦日にリリースだから、それさえ越えれば、少し落ち着くと思うよ」

「大晦日って、あとまだ一〇日以上あるよ!」

 俺としては極力明るく希望的観測を述べたのだが、俺の予想に反して綾子ちゃんは悲鳴のような声を上げた。今日は一二月の一九日だ。サイトがリリースされる大晦日までは、あと一二日ある。あと僅か一二日の辛抱だと思っていたが、一般的な感覚では一二日間働きづめというのはおかしいのかと、俺は冷静に思い知る。

「今日は何時に帰れそうなの?」

「えーっと、多分今日も帰らない、かな」

「今日もって、昨日も帰ってないの? そんな勤務記録でてなかったと思うんだけど、勤怠ちゃんと登録してる?」

 この会社では、日々の勤務時間を、ネット上に構築された社内システムに入力することで記録・管理することになっている。綾子ちゃんは総務部なので、会社全体の勤務記録を見る機会があるのだろう。

「ごめん、忙しくて。月末にまとめてやるのが恒例になってるんだ」

 俺はそう言って、また曖昧に笑う。多忙のために記録をつけられていないのは本当なのだが、月末に入力することになったとしても、実態どおりの記録はつけないだろう。正確には「つけられない」と言った方が正しい。もし正確に入力したら、勤務時間が長すぎるあまり、俺の携わっている案件がすべて赤字化してしまう。そうなれば、部署の成績が下がる。ひいては、同じ部署に所属する社員全員の給料が下がる。

 綾子ちゃんの眉間の皺が、いよいよ深まった。

 俺はこれ以上問い詰められないようにと、話を切り上げるために立ちあがろうとした。

 だがその瞬間、視界が不自然に回る。感じた目眩に体のバランスが取れなくなり、軽くよろめいた。俺は慌ててすぐそばの壁に手をつく。

「ちょっと! ふらついてるじゃない。大丈夫? 冗談じゃなくて、上長に現状抱えてる仕事の内容を話して、他の人に割り振れないか相談したほうがいいって」

 綾子ちゃんはそう言いながら、俺を支えるように手を差し伸べてくれた。彼女の優しさが身に沁みると同時に、切なさも込み上げる。

「そうだね。何とかならないか、話してみるよ」

「絶対にそうしなよ」

 綾子ちゃんに念押しされて頷く。だが実際、岡本さんに相談するつもりはない。状況を共有もなにも、岡本さんは俺の抱えている仕事の内容をすべて把握している。そのうえで、いまの俺の状況があるのだ。

 と、胸ポケットに入れていた社用スマホがタイミングよく鳴った。俺はスマホを取り出すと、謝罪の意を込め、綾子ちゃんに向けて手の平を縦にしてあげてみせた。そのまま、画面に表示された通話の表示をタップする。

「もしもし今泉です。はい、お世話になっております……」

 スマホを耳に当て、取引先から入った緊急の用件を聞く。健全な生活リズムで日常を送っている同期を残し、デスクへと戻った。


 短時間で終わった通話を切ると、オフィスチェアに座ったまま、軽く伸び上がるようにしてパーテーションの向こう側を見てみる。だが、目当てのデスクの島はもはや無人だ。無意識にため息が漏れる。

「エンジニアに用事?」

 そんな俺に声をかけてきたのは、まだ会社に残っていた岡本さんだ。

「ああ、はい。テスト環境のサイト上の商品データを、明日の朝までに、いまさっきメールで送ってきた表のものに更新しておいて欲しいと」

「明日の朝までにって、相変わらず痺れること言ってくるね。もうエンジニア帰っちゃったじゃない」

「そうみたい、ですね」

 この時間帯に新たな仕事が来るのは、もはや日課のようなものだ。ようは、表を作るというひと仕事を終えて、取引先の担当者は今から帰るところなのだ。送りつけられてきた表の中身を、これから一夜かけて反映するのが俺の仕事である。下請けさえ無理をすれば、上流の担当者は勤務時間どおりに明日の朝に出勤し、できあがったものを確認できる。と、世の中とはそういう仕組みになっている。

 そうであれば夜勤シフトが最適のように思われるが、昼は昼で別の仕事がある。これが、俺が一ヶ月もの間会社に泊まり込んでいる理由だ。

「またエンジニア今泉が出動するの?」

「それしかないかな、と思ってます」

「まー、しょうがないよね。明日になったら担当のエンジニアに、ちゃんと手を加えたところ共有しておいてね。先祖戻りのミスないように頼むよ。あと倒れないようにしてね。あっ、でも死ぬことなくなったらしいから。それも気にしなくていいのかね」

 立ち上がって帰り支度をはじめた岡本さんの、ケラケラという笑い混じりの意味深な言葉に俺は目を瞬いた。

「死ぬことがなくなった、ってどういうことですか?」

「じゃっ、お先ー」

「あ、お疲れ様でした」

 岡本さんの言葉は、まるで大きな独り言のようだ。俺からの疑問の言葉に返事をすることはなく、彼は颯爽とオフィスから退出していった。

 自分の席近くの者が帰って行くたびに裏切られたような気持ちになる時期は、とうの昔に過ぎ去っている。もはや、自分の置かれた状況になんの感情も湧かない。そもそも岡本さんも、連日このような時間まで会社にいること自体おかしいのだ。ただ、俺より多少はマシだというだけで。

 俺は頭を左右に揺らして首の骨を鳴らし、作業に取りかかった。


 深夜の広いオフィスの中に、俺一人。しきりに動かすマウスのクリック音と、一定間隔で叩くキーボードのタイプ音だけが空虚に響いている。白々とした蛍光灯がついているのも、俺の真上だけだ。さながら、警察署の取調室で陰険な尋問を受けているようだと思う。もちろんそのような事態に陥ったことはないが、脳内のイメージとしてはマッチする。

 視線をモニターの右端に移せば、パソコンが、小さくも無慈悲に二時五二分と現在時刻を表示していた。未だ作業は終わらない。そもそも俺がいま行っている作業は、俺の担当領域のものではない。本来は、エンジニアに依頼してやってもらわねばならないものだ。

 過去、今日のようにどうしてもタイミングが悪くエンジニアの都合がつかなかったとき、いけないと思いつつも自分でやり方を調べて作業を完遂してしまった。それ以来、俺がエンジニアの領域にも手を出すことが許されるような空気になり、現在の状況に至っていた。禁断の扉をみずからあのときに開けてしまったのだと、いまでは理解している。

 しかし、見よう見まねでやれるようになったとはいえ、俺はエンジニアではない。知識と経験のあるエンジニアがやれば一時間で終わるような作業も、俺がやると三時間はかかる。効率が悪いにも程がある。

 もはや、周囲への不満はあまり抱かなくなっている。浮かんでくるのは自己嫌悪だけ。泣きたい気分になったわけでもないのに、ドライアイのせいか涙がこぼれた。雫が頬を伝ってこぼれていく。その掻痒感がまた情けない。

 不意に、見つめ続けたモニターが眩しく感じられた。鋭い塊になった光を物理的に目に射し込まれたかのように痛みを覚えて、一度目を閉じる。すると、また猛烈な眠気が襲いくる。

 俺は、モニターの方を見ないようにしながら、デスク上に置いていたエナジードリンクの缶を持ち上げて口をつけた。だが、一滴も中身が残っていなかった。

 もう一本買ってこよう。

 眠気と疲労にぼやけた頭で、そう思い至る。オフィスチェアを回転させると、肘掛けを掴んだ。気分を切り替えるため、思い切り立ち上がる。

 そのとき、胸に衝撃が走った。体内に、時速一〇〇キロで突っ込んできたトラックを受け止めたかのようだ。猛烈なインパクトに耐えかねて、己の鼓動が止まったのを感じる。心臓が痙攣を起こし、機能を果たせていない。

 あ、これはだめだ。死ぬ。

 奇妙なほど冷静にそう思った次の瞬間、耐え難い痛みが心臓部を中心に体を貫いていく。苦しみを発散させるために叫びたいのに、口も開かない。身体機能のすべてが止まっていた。体が重力に負けて前に傾くと、床へどうっと倒れ込む。

 呼吸ができない。苦しい。

 全身の血液が沸騰しているかのようにふつふつと熱く、全身が裂けるように痛い。なのに、それらすべての苦痛から逃れる術は、なに一つない。

 意識して息を止めてみたことがあるだろうか。人間が呼吸を止めていられる時間には、身体能力やトレーニングによって個人差がある。だが、風呂場でその試みをした当時の俺は、一分も耐えられなかった記憶がある。いま、あのときに感じたものよりも数倍ひどい苦しさが、永遠のように続いていた。

 おかしい。

 人間は心停止から八分で回復の見込みがなくなる。つまり、死ぬということだ。なのに、俺はまだ生きている。


 地獄のような責め苦を味わい続けて、何時間が経過した頃だろうか。俺の脳裏に、ひとつの光景が浮かんでくる。線路の上に体内の臓器が散らばり、体を完全に切断されていたにもかかわらず生きていた少女。

 きっと、彼女も辛かったことだろう。彼女は助かったのだろうか。

 ——いや、彼女は死ねたのだろうか。

 俺の正常な意識があったのは、そこまでだった。
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