克死院

三石成

文字の大きさ
上 下
7 / 18
第二章 白衣の天使の巣

二 轢き逃げ

しおりを挟む
 少女は、名前を『ゆめ』といった。

 俺と同じ、浴衣形状の入院着に身を包んでいる。子供特有の柔らかく細い黒髪はストレートで、肩につくほどの長さがある。背は一二〇センチほどしかなく体つきは華奢で、小学校低学年程度の年齢に見えたが、実際は一〇歳なのだという。

 俺は、彼女と同じ年齢で死んだ海美のことを思い出した。これは条件反射のようなものだ。ゆめちゃんが海美に似ているというわけではない。

 海美は生まれつき病弱ながらも、周囲の空気を明るくしようと、いつも楽しそうにニコニコとしていた。一方で、ゆめちゃんは聖に紹介されている間もずっと無表情だった。澄んだ黒の瞳には特定の感情が浮かぶことはなく、なにを考えているのか、ひどくわかりにくい。海美の纏っていたオーラを仮に光とするならば、ゆめちゃんの纏うオーラは闇だ。幼い少女を闇に形容することは不適切なようにも思われるが、闇という言葉が悪口にもならないほど、彼女には闇の気配がごく自然に馴染んでいた。

 バリケードの内側には、ベッドのマットレスが二つ運び込まれていた。他にも色々な生活用品が揃っており、二人がしばらくここで生活していたのだろう、ということが伺える空間である。

 太陽が落ちて窓の外が暗くなると、院内も完全なる闇に包まれた。懐中電灯を一つつけ、部屋の中央に天井へ向けて設置する。俺たちはその光を囲むように、床の上に座っていた。まるで災害時の避難所のような様子だ。

「無事で、よかった」

 俺からも簡単な自己紹介を済ませたあと、ゆめちゃんがぽつりと呟いた。彼女の小さな右手は、再会したときからずっと聖の上着の裾を掴んでいる。

「ナースセンターの外でおれたちが騒いでたの、聞こえてたか?」

 聖が問いかけると、ゆめちゃんは無表情のままコクリと頷く。

「すごい音がして、こわかった」

「そうか。怖い思いさせて悪かったな。おれが帰ってくるまで隠れてろっていう約束。守れて偉いぞ」

 聖はゆめちゃんの頭をグイグイと撫でる。その手つきはやや乱暴なものの、少女は気持ちよさそうに目を細めている。二人の間に深い信頼関係があることが、その短いやりとりからも伝わってきた。

 一見すると兄妹のようだが、聖はゆめちゃんのことを妹だとは紹介しなかった。

「二人はどういう関係なんだ?」

 問いかけると、聖が話しはじめる。

「おれが克死院に入れられたときに、ゆめが助けてくれたらしい」

「助けて……? らしい、というのは?」

「おれは克死状態だったからな。いまになっては、そのときの記憶はない。ただ、気がついたらこのナースセンターにいて、ゆめに介抱されてた。ここがどこで、どうしてここがこうなっているのかも、全部ゆめに聞いた。アンタにとってのおれみたいなモンだな。おれは克死状態のことも、克死院のことも、全部ニュースで聞いてたから、多少は事態が理解しやすかったが」

 聖が、助けてくれたときに『お互いさま』と言っていたことを俺は思い出す。あれは自分も助けられたからという意味だったのか。

「俺みたいに自我が戻っていたならともかく、ゆめちゃんはどうして、まだ克死状態にあった聖のことを助けたんだ?」

「おれはここに入れられる前はバイクでデリバリーをやってたんだが。ゆめとは、その配達先で何度か顔を合わせたことがあったんだ。それで、ゆめがおれのことを覚えてたらしくて」

 聖の言葉を受けて、ゆめちゃんはまたコクリと頷く。いまの説明で相違ないということらしいが、俺は僅かな違和感を覚えた。克死院のことをまだほとんど把握できていないが、克死院には俺たち以外に多くの克死状態の患者がいるはずで、いたはずだ。その中で、ただ配達に来たことがある程度の人間と、わざわざ関わろうとするだろうか。聖がどういう行動をする克死状態だったのかはわからないが、幼い少女には、克死状態の聖に近づくこと自体が危険だったはずだ。

 だがそれよりも。俺には他に聞かなければならないことがたくさんある。

「そもそも、克死院はいまどうなっているんだ。克死状態の危険な患者が勝手にうろついているし、まともに機能はしていないんだよな?」

 院内や二人の様子を見て、それが俺の得た推測だ。

「そのとおりだ。おれが目覚めたときには、克死院はすでに管理が放棄された後だった」

 聖はあっさりと、直視したくない事実を肯定する。

「これはゆめから聞いた話だが、克死院も、はじめはまともに運営されていたんだそうだ。当然ながらスタッフもたくさんいて、克死患者一人ひとりにベッドをあてがい、発現してる症状ごとに管理をしてた。陸玖は入院着を着てるし、ベッドに拘束されてただろ。つまりアンタは、ちゃんと管理されてた頃の克死院に入院した克死患者ってことだ」

 聖はそこで一度言葉を区切ると、改めて声を低める。

「それがある日、院内で事故が起こった……らしい」

「事故?」

「詳しくは、ゆめもよくわからないそうだ。ただ、危険な克死患者のせいで、克死院のスタッフが何人も克死状態になったってさ。スタッフが克死状態になったら、今度はそいつも危険な状態になるわけだから、収拾がつかなくなる。ミイラ取りがミイラだよな……これ、使い方あってる? 克死状態のやつのせいで克死状態のやつが増えるって、ゾンビ映画みたいだなって俺は思ったんだが」

 聖の言葉を聞きながら、俺は巨漢と焼死体の姿を思い浮かべる。尋常ならざる力を持ち、もはや人とも思えない姿の彼ら。そんな患者ばかり集めて管理していれば、なにか事件が起きてもおかしくはないと思えた。

「その事故以降、克死院の管理は放棄された。そうせざるを得なかったって言ったほうが正しいかな。この建物は、克死状態の奴らをただただ外部から隔離しておくためだけの場所になった……ってことらしい。これは克死院として管理されてたときからそうだが、すべての窓には外側から鉄格子がはまってるし、中から外には出られないからな。いろいろと都合がいい。あんな奴らを、外で野放しにはできねぇよな」

「つまり俺たちは、見捨てられたのか」

「克死患者はそもそも、本来であれば死んでるはずだったヤツらだ。加えて、克死状態から回復する見込みはねぇって言われてたんだぜ。人間が絶対に死ななくなったら、そのほかのヤツらは、そう選択せざるを得ないだろうなっていうのは、学がねぇおれにも、なんとなくわかる」

 人間が死ななくなった世界。それが、諸手を挙げて歓迎できるようなものではないことを、俺は既に深く理解している。いま外がどうなっているのか知る術はないが、外の社会も日毎に高まる混乱の中にあり、克死患者が歓迎されていないことはたしかだろう。

 しかし、それでも。

「外部に電話して、外に出してもらうことはできないのか? 俺たちは克死状態から回復したんだって伝えたら、さすがに何とかしてくれるだろ。克死状態からでも回復することがわかれば、克死院の管理も戻るかもしれない」

「それは俺も考えたが。見てのとおり、電話をしようにも今は克死院全体に電気が来てねぇんだ」

「今はってことは、前は電気が来てたのか?」

「ああ。放棄されてしばらく経った頃に、院内から電気が消えたらしい。俺が克死状態から回復したときには、もうすでに真っ暗だったけどな」

 院内はどこも暗闇に沈んでいる。いま光を発しているのは、部屋の中央に置いている、乾電池で動く懐中電灯だけだ。この電池だって、いつ切れるともしれない。克死院に設置されている固定電話を使おうにも、電気が来ていないのであれば不可能だ。

「あれ……でも、聖はさっき、俺が鳴らしたナースコールを聞いて助けに来てくれたんだよな?」

 そうでなければ、あまりにもタイミングが良すぎる。

「ああ、それが不思議なんだよな。鳴るはずがないものが鳴ったんだ」

 聖は立ち上がると、俺を手招きした。招かれるまま側に寄ると、ナースセンターの壁面にはさまざまな機器が設置されていた。

「スピーカーから急にコールが鳴って、アンタの声が聞こえたんだ。ここのランプがついてな」

 聖が機器を示しながら言う。ベッド番号が羅列されている横には、番号に対応するように小さなランプが設置されていた。このランプが点灯することで、どこのベッドからナースコールが鳴らされたのか分かるようになっているのだ。いまはそのどれもが暗闇に沈んでいる。

 俺は試しに、機器にあるいくつかのボタンを無造作に押してみた。なんの反応もない。

「本当に動いていないな。どうして俺のナースコールだけ繋がったんだろう。いままでに他のナースコールが鳴ったことはないんだよな?」

「ああ。アンタがはじめてだ。実際のところはわからねぇけど、例えばナースコールには子機側にバッテリーがついてて、たまたまアンタのベッドのものだけちょっと残ってた、とかな。そもそも克死状態のままじゃナースコールを押そうなんて発想にもならないだろうから、他のベッドのも試してみたら鳴るかもしれねぇけど」

「そう……かも、しれないな。もしそうだとしたら、すごい奇跡だ」

 考えてもわからないことをいつまでも悩んでいても仕方がないため、とりあえず納得して頷くと、改めて聖の様子を見た。聖は、右目の周辺を覆うように包帯を巻いている以外、服装を含めて体におかしなところはない。

「そういえば。俺が管理されていた頃に入院した患者ってことは、聖は? 俺やゆめちゃんのように入院着じゃないよな。そもそもどうして、克死院に来ることになったんだ」

「おれは交通事故に遭って、克死状態になったんだ」

 聖は出身地を話すときのような気軽さで言う。

「それ、は……災難だったな」

「過労でぶっ壊れたアンタと比べたら、交通事故なんて、普通だろ」

 なんとなく面食らって真顔になったが、聖はケラリと笑った。

「バイクで走ってた時に、信号無視のクソ野郎の車に跳ね飛ばされてな。弾みでつけてたヘルメットが外れて、頭から路肩の縁石に叩きつけられた、んだと思う。走馬灯のように見た光景で俺が記憶してるだけなんで、事実とは違うかもしれねぇけど。ついでに、その車の運転手が轢き逃げしてったもんで、尋常じゃねぇ痛みの中に数時間放置されて、このざまだ」

 聖はそう言って、自分の包帯を指さした。話口調はいたって軽いものだ。しかし、同じように克死状態になるまでの時間を過ごしたことがある俺にとって、そのときに聖が感じていた苦痛を想像することは容易かった。

 バイクで走行中に突如として襲った衝撃。全身が宙を舞う。スローモーションの中で世界が一回転し、頭が縁石に叩きつけられる。気を失うほどの衝撃と痛みの中、己を置いて走り去っていく車が見える。

 そのときに感じるのは、深い恨みの感情だったのではないだろうか。

 聖の話は続く。

「事故にあったのは、一月一四日の二四時ごろ。だから、入院したのは一月一五日だと思う。その日がちょうど、克死院の管理が放棄された初日だったんだそうだ」

 話のとおりであるなら、俺と聖が克死状態になった時期には、およそ一ヶ月近くの差がある。しかも、俺よりも聖の方が後だ。

「克死院は放棄されたのに、入院できたのか?」

「そこがミソでさ。管理は放棄されたが、克死患者を隔離する施設として、克死院はまだ稼働してんだよ。いまでも毎日、克死患者が搬入されるだけ搬入されてるらしい。その、管理もされずに搬入された第一号患者群の一人が、おれだったってことだな。ゆめが搬入作業を見ていて、患者群の中におれを見つけて、匿ってくれたってわけだ。いまの克死院は、人間版ゴミの埋め立て場みたいなもんだよな」

 『人間版ゴミの埋め立て場』とは、言い得て妙ではあるが、気持ちのいい話ではない。話を聞いている最中も、無意識に眉間へ皺が寄っていた。

「なるほど。人道的にどうかとは思うが、院内事故の結果で管理ができなくなってしまったのであれば、仕方がないのか……」

 そこまで呟いて、俺はハッとした。

「いや、待てよ。毎日克死患者が搬入されるってことは、一日に一回は、克死院のどこかに外の人間がやって来るんじゃないか? そこで俺たちのことを伝えられる」

「ああ! 言われてみればたしかに。試してみる価値はある、か」

 聖はそのことにいま気づいたようで、パッと表情を変えて感心し、俺の言葉に同意する。だが、さらに言葉を続けた。

「ただな、克死院の中を移動するのは簡単じゃねぇぞ」

 聖の言葉がただの脅しではないということは、俺にも理解できた。克死患者の危険性は、この短い時間だけでも身をもって知ってしまった。

 克死患者が日ごとに搬入されているということは、院内は多種多様なモンスターに溢れたダンジョンのようなものだ。搬入口に近づけば近づくほど、克死患者の数も増える。つまり、危険性も増すと考えて良いだろう。

 話によれば、聖の意識が戻ってから今日で一週間経過している。その間、彼がこのナースセンターにこもって移動していなかったというのも、院内の危険性を理解していたからだろう。

 俺はそこまで考えて、ため息を漏らす。と、不意に体から力が抜けた。視界が回り、脳が揺れたような気持ち悪さが込み上げてくる。

 その場で床に倒れ込む寸前のところを、聖の腕が受け止めて支えてくれた。

「おっと、どうした」

「ごめん、わからない。急に気持ち悪くなって……」

「あー、そういや。アンタ起きてから、何も食ってねぇから貧血だろ。ゆめ、カレーあと一つだけ残ってるやつ、用意してやってくれ」

 俺よりも一〇センチばかり背が低い聖は、俺の体を引きずるようにして共に移動すると、ベッドのマットレスに俺の体を横たえてさせてくれる。

 ゆめちゃんは黙ったまま頷くと、聖の指示どおりに動き出した。床に無造作に置かれていたダンボールの中からパウチに入った非常食のカレーを取り出すと、次にパウチの封を開き、ペットボトルから水を注いでいる。

 俺は横になったまま、横に座った聖へと視線を向けた。聖の右目は丁寧に手当てがされているようで、覆っている包帯は清潔で真新しいものが巻かれている。しかし近くで見てみると、何重かした包帯の奥にうっすらと血が滲んでいる様子が窺えた。焼死体のように分かりやすくはないが、聖もまた、本来であれば死んでいた人間なのだ。

 俺はなんとなく、聖の左目から視線を逸らした。

「食料は、元からここにあったのか?」

「そうだ。全部ゆめがやってくれていたことだが、このナースセンターに非常食が備蓄してあったらしい。ただ、それも今日で食べ尽くしちまった。これが最後の一食だ。だからおれたちも、そろそろ移動する必要性は感じてたんだが」

 大切な最後の一食を、俺が食べていいのかという思いと同時に、新たな疑問が浮かぶ。

「……もし、ずっと食事を取らなかったら。俺たちってどうなるんだろうな」

「さぁな。死にゃしないことは確実だが。最終的には空腹にのたうちまわった結果、やっぱりまた克死状態になるんじゃねぇかな」

「でも俺、過労で倒れたときからいままで、なにも飲み食いしてないんだぞ。普通であれば、それだけでも耐えられないほどの飢餓状態だろう」

「いままでの経験と、見てきたものからしかわからねぇが、克死状態にあるときってのは、食事とか睡眠とか排便とか、そういう生物としての活動がそもそも必要じゃないみてぇだな。動くためのエネルギーをどっから得てるのかは知らねぇけど」

「何だかまるで、冬眠みたいだな。よっぽど活動的だが」

 二人で話をしていると、パウチにプラスティックのスプーンをさしたものを、ゆめちゃんが俺へ差し出してきた。

「陸玖さん、これ食べて」

「ありがとう」

 再度めまいを起こさないようにゆっくりと上体を起こし礼を言うと、パウチを受け取った。パウチの中には、すでにカレーとご飯を混ぜ込んだ状態のものがあった。ゆめが混ぜてくれたというわけではなく、こういう状態で保存してある非常食なのだろう。

 先ほどから、鼻が曲がりそうなほどの悪臭しか嗅いでいなかったせいで、嗅覚が半ばおかしくなっている。しかし、パウチを顔に近づけると、カレーのいい匂いははっきりと感じられた。

「その非常食、本当は、湯を注ぐと温かい状態で食べられるらしいんだよな。水しかないから冷たいが、結構いけるぜ。あ、そうそう。電気は来てねぇけど、水道はまだ生きてるんだ。遠慮せず飲めよ」

 聖が言葉を添え、水の入ったペットボトルも差し出してくれる。

「そうか。水の心配がないのは、かなりありがたいな。いただきます」

 スプーンで掬って、口へと運ぶ。

 見た目は悪く、冷たかったが、たしかにカレーとご飯だった。柔らかいご飯と薄めの味付けは、俺の空っぽだった腹にも優しい。こういった非常食は食べたことがなかったが、お湯を入れて食べるカレーは以前食べたことがあり、それと似た味がした。

「ああ、とても美味しい。これ、最後の一つなんだろう? 俺一人で食べていいのか?」

「おれはいま腹減ってねぇから。ゆめは分けてもらうか?」

「ゆめもお腹減ってない。陸玖さん、元気になる?」

 ゆめちゃんの言葉に、俺は目を瞬く。

 海美が死んだあと両親が離婚したこともあり、親戚付き合いの希薄な俺は、ごく軽い接触も含めて子供と接した経験が少ない。そのため、彼女にどのような態度をとったものかと、つい身構えてまごついてしまう。だが、いまの短い言葉だけでも、彼女がとても良い子であるということは感じられた。

「ああ。きっと元気になるよ」

「よかった。陸玖さんが来てくれたの、うれしい」

 意識して微笑んで見せると、ゆめちゃんもまた僅かに目を細めた。それが、彼女なりの微笑みなのだろうと思う。そんなゆめちゃんの頭を、聖がクシャリと撫でる。

「ゆめ、もうそろそろ眠くなる頃じゃねぇか? 寝れるなら寝ておいで」

「うん。おにいちゃん、どこにも行かない?」

「どこにも行かねぇよ。今日は陸玖もいるから、ゆめのベッドでおれも寝ていいか?」

 聖の言葉は荒っぽいが、低めに響く声はとても優しい。

「うん、いいよ。半分あけておく。おやすみなさい、おにいちゃん、陸玖さん」

「おやすみ、ゆめ」

「おやすみ、ゆめちゃん」

 二人ともが返事をすると、ゆめちゃんはまた僅かに目を細め、俺が座っていない方のマットレスへと向かったのだった。


 俺がパウチのカレーを食べている間、聖も黙ってそばにいた。しばらくすると、ゆめちゃんは眠りに落ちたらしい。可愛らしい小さな寝息がしてくる。

 ご飯の最後の一粒まで食べきると、汚れたパウチを丁寧に畳む。聖がただ無言で手を差し出してくるので、少々戸惑いながらもパウチとスプーンを渡した。すると、彼はスプーンをもとあった場所に戻しながら、パウチを遠くの方にある段ボールの中へと放り投げる。おそらくあれがゴミ箱になっているのだろう。

「さっきも言ったが、いまのがここにあった食糧の最後の一つなんだ。このまま揃って飢餓に陥って、克死状態に逆戻りってのは御免被りたい。外に出られたら最高なのはそうなんだが……さっきも言ったように、ただでさえ克死院の中を移動するのは危ない。さらに、克死患者の搬入口に向かうのは相当の危険がある。ゆめに聞いたら大体の道案内はしてもらえるかもしれないが、どこが搬入口なのか探さねぇといけないのも含めて、準備が必要だ」

 眠りについたゆめちゃんを起こさないように、聖はほとんど吐息ばかりの小声で話す。俺としても、彼の言った内容に異議はない。

「聖の考えは理解できるよ。だから搬入口に向かう前に、当面の食糧を探したいってことだろ」

「話が早くて助かるぜ。アンタの話じゃ、他の階にもナースセンターがあるんだろ? まずは上下の階のナースセンターに行って、同じように非常食がないか確認したらいいんじゃねぇかと思ってる」

 聖の話を聞きながら、俺は非常食がまとめて入っていた段ボール箱を見た。箱の大きさ的に、ここにあったのは、せいぜい六〇食程度だろう。聖が目覚めたのは一週間前。それまでは食事を必要とするのはゆめだけだったので、やりくりして食べた結果、かろうじて足りていたということに違いない。

「そうだな……それも手だが。俺は、ここの地下の倉庫へ行くべきだと思う」

「地下に倉庫があるのか?」

「おそらく。内装の様子から、いま俺たちがいる建物がA棟だと思うから、A棟なら地下がある。倉庫があるなら地下だろう、という程度ではあるんだが。俺は、ここにあった非常食は、なにかのタイミングで、あくまでたまたま一時的に置いてあったものだと思うんだよな」

「本来は、別の保管場所があるってことか」

 俺はしっかりと頷く。

「ああ。院内にある非常食はもっと多いはずだ。職員や入所者の数に応じて非常食を常備しておくことが、病院は義務付けられている。これだけの規模の病院なら、その数は相当な量になる。非常食を含め、いろいろなものをまとめて置いている倉庫のような場所があると思うんだ。克死院が病院としての基準をクリアしているかどうかは分からないんだけど、元は普通の病院だったわけだから、その設備は流用しているんじゃないかな」

「なるほど。ところで、地下にも病室があるかどうかって知ってるか?」

「俺の記憶でもなかったし、法律上、地下に病室はないはずだ。倉庫とかリネン室とか厨房とか。そういう、病院の運営上必要なものが集まっている場所だと思う」

 俺の返事を聞いて、聖の表情が明るくなる。

「へぇ。そりゃ良いな、気に入った。明日の朝になったら、さっそく地下に行ってみよう」

「わかった。しかし、病室がないことが重要なのか?」

「病室がないってことは、管理されてた時に入院した克死患者もいないってことだからな。静かでいいだろ」

「たしかに。でも、うろついている克死患者がいて危険ではあったが、この階も静かだよな?」

 囁き声で会話をしながら、俺は耳を澄ませる。時折、どこか遠くの方で獣のような声が聞こえる気がするが、その程度だ。この声は他の階からしているものなので、きっと他の階はうるさいのだろうと予測はできる。

「この階は特別なんだと、ゆめが言ってたぜ。管理されてた頃、克死患者は状態によって分けて収容されてたから、この階には、静かで植物のようにほとんど動かないような患者が集められてたらしい」

 巨漢に食べられていた、隣のベッドにいた男を俺は思い出す。たしかに彼は一言も言葉を発さず、ほとんど身動ぎもしていなかった。

「つまり、ここのフロアにいた俺は、克死状態だったとき静かだったってことか。自分がどんな奇行をしていたのか気になっていたから、ちょっとホッとする」

「そうなるな。どんなときでも良い子ちゃんって、なんかアンタらしいよな」

「良い子の何が悪い」

 俺は僅かに唇を尖らせた。

 どんなときでも良い子というのは、まさしく俺のことだ。人から怒られること、嫌われることを何よりも怯え、言いたいこともやりたいこともできずに、ただ流されるまま周囲に合わせて生きてきた自覚がある。

「別に悪いとは言ってねぇだろ。このタイミングで会えたのが、アンタで良かったと思ってるよ」

 聖は照れる様子もなく、言葉を続ける。

「克死状態じゃないにしろ、変な奴だったらゆめのところには連れて行けねぇなと思ってたんだが。アンタに関してはそんな心配、まったくいらなかったからな。見るからにいい奴だろ。アンタがいてくれれば、おれ一人のときより安全に、ゆめを連れて移動できる」

「そうか……なら、良かった」

 肩をすくめてこともなげに言う聖の様子に、俺は、頬が熱くなるのを感じた。自分で勝手に卑屈になったことが恥ずかしい。

 気分を切り替えるように軽く咳払いをする。眠っているゆめちゃんの姿を見て、気になっていたことを聞いてみることにした。いっそう声のボリュームを抑える。

「ところで聖は、どうしてゆめちゃんが克死状態になったのかは知っているのか?」

 いままで聖からもたらされた情報は、そのほとんどが元はゆめちゃんから得られたものだった。彼女が克死状態から早く目覚めたからこそ得られた情報だったのだろうが、その情報の中に、彼女自身の話はいっさいなかった。

 ゆめちゃんはまだ一〇歳と幼く、本来であれば、克死状態になるような年齢ではない。さらに致命傷になりそうな外傷も見られないため、事故が原因とも思えなかった。

 聖は珍しく口籠り、床の上に視線を落とす。

「おれは。なんとなくだが、もしかしたらそうなんじゃねぇかってことが、一つ。予想がついてる。が、直接は聞いてない。ゆめが自分から話しだすまで、待ってやれ……明日に備えて、今日はもう寝ようぜ。おやすみ」

 聖は明かに、唐突に会話を切り上げた。なにか込み入った事情を感じさせる言葉だ。ただ、俺は追求せずに頷いた。この様子では『病気が悪化して克死状態になった』などという単純な理由ではなさそうだ。

「おやすみ、聖」

 聖はゆめちゃんの眠るマットレスへと向かった。彼女を起こさないように毛布を捲り、その中へ体を滑らせる。

 俺もまた、座っていたマットレスの上へ再度体を横たえた。何枚も重ねられた毛布を肩まで引き上げ、吐息を漏らす。そうして落ち着いてはじめて、俺は、体の芯から冷えきっていることに気づき、震えるような寒さを感じた。実際、院内はずっと寒かったのだ。ただいままで、寒さを気にする余裕すらなかっただけだ。

 隙間を生まないように、毛布を体にピッタリと手繰り寄せて丸くなる。

 短時間のうちにあまりにも色々なことがあり、心配事が頭を埋め尽くしている。加えて震えるような冷気の中で、俺はなかなか寝付くことができなかった。
しおりを挟む

処理中です...