克死院

三石成

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第三章 地下の惨劇

三 外道

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「なんだ、いまの。こいつら、何やってたんだ」

 映像が停止し、画面が黒くなったとき。聖が呆然とした様子で呟いた。

 俺は映像の続きを見ようとビデオカメラのボタンを押してみるが、液晶が再度なんらかの映像を写しだすことはなかった。発見したときについていたビデオカメラの赤いランプも消えているため、ここまででバッテリーが切れてしまったようだ。

「生きてる人間をミンチにしたり、焼却炉に押し込めてそのまま焼くなんて。正気の沙汰じゃねぇよ」

 続く聖の声は震えていた。俺が彼に出会ってからいままでの間で、もっとも動揺しているようだ。聖にとっては、後半に医師たちが異様な体調の異変に見舞われたことよりも、医師たちが克死患者に対しておこなっていた実験らしきものの方が衝撃だったらしい。

「おそらく、克死院の中で克死状態のことを調べてたんだ。口ぶりからすると、どうやったら克死患者が動かなくなるのか……いや、どうやったらいま、人間が死ぬのかを知りたかった、のかな。人が死ななくなったということが、良いことか悪いことかは俺にはわからないが。人が死ぬ条件さえわかれば、混乱している社会が元通りになるってのは、理解できる。克死院であれば、実験体になる克死患者の調達には事欠かないしな」

「最後に聞こえた悲鳴だが。さっき、地下から上がってきたヤツの悲鳴と、同じようにおれには聞こえた。アンタはどう思う」

「ああ、俺も同感だ。映像には残ってなかったが、やっぱりあの女医は、ここで克死状態になったんだ。映像に映っていた医師たちみたいに、彼女の体にも何かがあったんだろうな。最後の悲鳴はそのときのものだ。あれは、克死患者のせいなのか? もしかして、ウィルスのようなものだったりするんだろうか」

 呟いてから、俺は今ここにいることに不安を覚えた。映像の中の医師たちは、なにに襲われたというわけでもなく、突然様々な体の異変に見舞われていた。もし、克死患者の体に損傷を加えたことで、その体に保有しているウィルスのようなものが漏れ出たのだとしたら。あれから時間が経っているとはいえ、同じ場所にいる俺たちも、突然体が壊れだす可能性はある。

 しかし、俺の言葉を否定するように、聖は首を横に振った。

「あいつらの死に方……いや、死んでねぇけど。ともあれ、あの異常さはウィルスなんて生優しいもんじゃねぇだろ。血を噴き出しはじめた方はまだしも、最初のヤツなんか、全身がボキボキに折れてたぜ」

「それはそうなんだが。だったら、彼らの身に起こったことにどう説明をつけたらいい」

 問いかけると、聖は視線を床に落とした。しばらくの沈黙。

 その間、俺は改めて部屋の中を見回す。映像の中で倒れた医師たちの体はここにはない。彼らは克死状態となったあと、自らの足でこの部屋を出ていったに違いない。地下から階段を上がってきた女医はその最後だったのだ。

 不意に、聖がポツリと問いかけを呟く。

「アンタは奇跡の日に、なにが起こったんだと思う? 克死状態っていうのは、どういうことだ」

「そんなことを俺に聞かれてもわからないが……だけど、そうだな。例えば、神様の気まぐれで世界のルールが変わったとか。そういうことか? 聖はどう思ってるんだ?」

 俺は無宗教で、特定の宗教を信仰しているということはない。だから、俺の口にした神様という言葉に、たいした意味はなかった。だが、聖は真剣そのものの表情を浮かべて俺の言葉を聞いていた。

 彼は、自らの気持ちを落ちつかせるように息を漏らすと、様々な機器が乗った台の上に軽く腰掛ける。

「奇跡の日から……なんとなくさ。なんとなく、考えてたことがあって。それが、いまの映像を見て、もっと強くなった。地獄だか天国だか知らねぇが、人間の魂が死んだら行く場所が、満杯になったんじゃねぇかって」

「魂の行く場所がなくなったから、ずっと体に留まり続けてるってことか?」

「そう。そもそも生き物の命ってのがどういうことなのかはわからねぇけど、たとえ死んだ人間の体を完全に修復したところで、一回死んだ人間が生き返るわけじゃねぇだろ。人間の意識は脳にあるのか、心臓にあるのかみたいな論議は聞いたことはあるが、おれには難しいことはよくわからねぇ。それに、心臓を潰そうが、頭を切り落とそうが生き続けるいまの状況をみたら、この世界ではどっちも間違ってる。じゃあ、死ぬってのは、魂が抜け出てしまって、戻ってこないってことなんじゃねぇかと思うんだ」

 現在の状況を見ていれば腑に落ちるものがあり、俺は頷く。聖の言わんとしていることがわかってきた。

「仮に、それが真実だとしたとき。焼却されて骨だけ残った……つまり、肉体を完全に失ったら、魂はどこに行くかって話か」

 話しながら、俺は大学の講義で聞き齧った『ポール・ワイスの思考実験』のことを、なんとなく思い出していた。

 思考実験の内容はこうだ。生きているヒヨコを試験管の中に入れ、完全に擦り潰す。

 このとき、試験管の中で失われているものは何? というもの。

 たしか、一応の結論として、失われたものは『ヒヨコの生物学的組織』だったとは思う。しかし、問題はそこではない。

 この実験を行ったとき、たしかに試験管の中から物質的なものはいっさい失われていない。しかし、ヒヨコの命は確実に失われている。では、命とは何なのか。生物学的組織が命かというと、俺はそれもまた違うように思われる。言葉で言い表そうとするならば、感覚的には、やはり魂と呼ぶのが一番しっくりくる。

 俺の思考が横道に逸れている間に、聖が言葉を続ける。

「魂が本来行く場所にも行けねぇし、肉体に留まっていることもできない。それってつまり、幽霊みてぇな存在になるってことなんじゃねぇかな」

「なるほどな。映像の中の医師たちは、あそこで肉体を離れざるを得なかった幽霊に呪い殺されたのだと考えれば、一応の納得はできる」

 突拍子もない話だ。しかし、いまさら奇跡の日以前の常識に拘泥したまま、物事を考えることのほうが馬鹿らしい。

「克死状態になったときに、どんな行動を取るかは人それぞれだけどさ。理性の箍が外れるから、とかいう理由だけじゃ説明できねぇほど、凶暴になるヤツが多い。幽霊になって、なにか特殊な力を発揮できるようになるんだとしたら、ああいう惨状になるのもわかるなって思ってさ」

 身をもって体感していることだが、克死患者の怪力は、一般的な感覚からすると並外れている。その異常性が、幽霊になったからといって失われるとは考えにくい。

「そうなってくると、問題は医師たちを呪った幽霊がどこにいるかだよな。そもそも物のように、一定の形状を保っているのかもわからないけど。克死患者と同じだとすれば、消失したとは思えないし、克死患者と違って目には見えない。いったい、そんな相手からの危害を、どうやって防げばいいのか……」

 途中まで呟いて、俺は言葉を途切れさせる。『わたしたちは、してはならないことをしてしまった』と言っていた女医の声が、脳内で再生された気がした。急に、倉庫へ残してきたゆめちゃんのことが気になる。

「いったん、ゆめのところに戻ろう」

 思考を読んだように、聖が提案する。

「俺もちょうど、そうした方がいいと思ってた」

 聖は腰掛けていたところから体を起こし、廊下へと繋がるドアの方へと向かう。俺は手にしていたビデオカメラを持っていくことにした。リュックの中へとしまう。

「それ、持ってくのか? もう映らなくなったんだろ」

「ああ、バッテリー切れみたいだ。それでも、なにかの役に立つかもしれない」

 外に出ると、正面には一階につながる階段が見える。あたりは静まり返っており、平穏そのものだ。そのまま倉庫へ戻るつもりだったが、俺はそこでふと違和感を覚えた。

「聖、なにか音が聞こえるか?」

 問いかけると、聖は足を止めて耳を澄ませてから、首を横に振る。

「いや。なにも聞こえねぇけど、どうした?」

「あの巨漢と女医、移動したのかな。部屋に入る前は、この辺りまではあのひどい女医の悲鳴とか、巨漢が立てる不快な音が聞こえてきていたよな、と思ってさ」

「あー、言われてみれば、そういやそうだな。妙に静かになってやがる」

 彼らに近づくのは危険であるとわかっているものの、音が聞こえなくなったことに、妙な胸騒ぎがする。

「戻る前にちょっとだけ、確認してきてもいいか? 付近にいなくなったんだったらいいんだが、どうなったのかは見ておきたい」

「わかった、おれが先に行く。もしまだそこにいたら、気づかれねぇようにすぐに戻ってくるから、ちょっと距離をあけてついてきてくれ」

 聖は言うと、階段へ向かって歩き出した。聖のほうが俺より身軽なことはわかっているので、彼の言葉のとおりに、俺は適度な距離をとって後ろをついていく。足音を立てないように注意を払いながら、ゆっくりと階段を上る。

「陸玖、来てくれ」

 聖は一階部を覗き込むように首を伸ばすと、すぐに俺を呼んだ。そのまま階段を駆け上がっていく。俺も急いで後を追う。

「どうした」

 問いかけはしたものの、聖が俺のことを呼んだ理由は、一階に上がった瞬間すぐにわかった。巨漢と女医の姿は、先程離れたときと同じ位置にあった。変化しているのは、それぞれの様子だ。

 服を破られていた女医は巨漢に体の悉くを食われ、悲惨な肉体を晒している。もっとも損傷が大きいのは、腹部から胸部にかけてだ。白い皮膚が噛みちぎられるようにして裂けており、肋骨も開かれている。内臓はそのほとんどが失われていた。先程までしていた耳を劈くような悲鳴が聞こえていないのも、喉を食い潰されて発声機能が消失しているからである。四肢にも何かしらの損傷を負っているのか、女医は恐怖の表情のままこちらを見て、緩慢に左手と左足をモゾモゾと動かすだけの哀れな存在になっていた。

 一方巨漢は、女医のすぐ横で仰向けに倒れたままピクリともしない。だらしなく開かれた血まみれの口からは、女医のものと思しき内臓の一部が溢れていて、半開きの目は白目を剥いている。脂肪が垂れ下がった分厚い胸も腹もすべての動きを停止しており、呼吸をしていないことは明かだ。

「なあ、このデブ、息してねぇよな」

 聖が抑えた声で言う。

「ああ……呼吸をする器官とか機能とかが失われている場合、克死患者は息をする必要もないみたいだが、さっきと違う。そもそも、体のどこも動いていないな」

 俺は警戒をしながらも、明かに先ほどと様子が異なる巨漢のそばへと近寄ってみる。そのまま様子を観察してみても、彼が動き出す様子はない。

 手を伸ばし、ブヨブヨとした肌に触れる。すると、巨漢の体はヒンヤリとしていた。聖に助けられたとき、俺は一度、この巨漢の下敷きになったことがある。あのときも巨漢は一瞬気を失ったが、体は普通の人間と変わりない呼吸をしており、体温があった。警戒を強めながらも、そっと巨漢の胸元に耳を寄せてみる。分厚い脂肪に阻まれている可能性はあるが、想像どおりに鼓動は聞こえない。

 顔を上げると、聖が窺うような眼差しで俺を見つめていた。どう言えば良いものかと悩む。だが、結局は端的に述べるしかなかった。

「奇跡の日以前の常識で言えば、こいつは死んでいる」

「やっぱり、そうだよな。でも、なんでだ」

 聖の顔には困惑の表情が浮かぶ。

 映像でだが、つい先ほど、ミンチになってもウゴウゴと動き続ける人間の体を見たばかりだ。奇跡の日以来、人間は死ななくなった。いや、死ねなくなった。

 巨漢は常識外れの極肥満体ではあるものの、五体満足でおおきな外傷もない。その状態の人間が、どうやったら死ねたというのか。

「さっきの話で言うと、火葬された子と同じように、魂が抜け出てどこかに行ったということなのかな」

「こんだけ立派な肉体があって、あの骨だけになった体とこいつが、同じ状態になったとは考えにくくねぇか」

 なんとなく思いついたことを言ってみたが、俺もそれが正解だとは思わなかった。むしろ聖の言葉に同感だ。

 いつまでも巨漢のそばにいてやる義理もないので、立ち上がる。

「理由はわからないが、とりあえず、これで巨漢と女医の危険は無くなったと思っていいな。確認できてよかった。今度こそ戻ろう」

「リネン室まで、ゆめを連れて行ってもいいかもしれねぇな」

 俺と聖は階段を降り、倉庫のまえに辿り着くと、大きなドアのノブを捻った。そのまま押し開けようとしたが、ドアが開かない。ガチャンと低く、金属の音が響いた。

「あれ?」

「何やってんだ、さっさと開けろよ」

「いや、どうしてだろう。開かないんだ」

「おれたち、鍵はしめていかなかったよな? ゆめが中からかけたのかな。どけよ、開けてやるから」

 促されるままに俺は体を横にずらす。聖はマスターキーを取り出すと、鍵穴に差し込み捻った。その光景を見ながら、俺は気がつく。ここは倉庫だ。鍵は、内側からかけることはできなかったはず。

 聖が何度もマスターキーとドアノブをガチャガチャと捻るが、ドアが開く様子はない。聖の表情に、焦りの色が浮かんでくる。

「ゆめ! おい、ゆめ、聞こえるか! 戻ってきたぞ」

 聖はドアを叩きながら叫んだ。

「ゆめちゃん、ゆめちゃん。ここを開けて!」

 俺も横に並び、聖と声を合わせる。返事はなく、中からはなんの音もしない。

「陸玖、おれはドアノブを捻っておくから、一緒に押してくれ。鍵はかかってねぇはずなんだ」

「わかった。いくぞ、せーの!」

 かけ声に合わせ、渾身の力を込めてドアを押す。ドアには鍵がかかっているわけではない。押せば僅かに動く。しかし、何者かがドアの向こうで抑えているかのように押し戻されるのだ。二人の力では、とても開きそうになかった。

「っダメだ。どうして……」

「ゆめ、ゆめ、ゆめ!」

 聖の切ない声が、廊下へと虚しく響く。ドアが開かないからといって、諦められるものではない。俺たちはいつまでも鉄の冷たいドアに張り付いて、ゆめちゃんの名前を呼び続けることしかできなかった。


 背後から近づいてくる足音に気がついたのは、それからしばらく経ったときだった。

 ハッとして振り向くと、フィッシングベストを着て、典型的な釣り人の装いをした中年の男がそこにいた。うつろな表情をした、四〇代ほどだろうと思われる中肉中背の体。大きな外傷はないが、懐中電灯に照らされた肌は、どこか緑色がかっているように見える。

 懐中電灯の光を向けると、男はこちらへ向かって駆け寄ってきた。必死にゆめを呼び続けていたせいで、接近に気がつくのが遅れてしまった。いまから無傷では逃げられない。

 俺はとっさにリュックから包丁を取りだし、突き出すように構える。

「聖、すぐに逃げ……」

「わあああっ、乱暴はやめてください!」

 聖に声をかけたところで、中年男性が目の前で足を止め、情けない声で叫んだ。彼は両手を頭の上にピシリとあげる。見事なまでの降参のポーズだ。

「は?」

 彼が克死患者だと思い込んでいた俺は、予想外のことに呆気に取られてしまった。振り向いた聖が、俺の代わりに問いかける。

「おっさん、名前は?」

「す、須藤昭二すどうしょうじです。あ、あの、どうか傷つけないでください。僕、いまは何も持ってないんです。ここがどこだかも、わからなくて。声が聞こえたから来ただけで。あ、あ、あ、あの、階段の上で人が死んでるんですっ」

 問いかけに対するまともな返答を聞いて、俺は、安堵の息を吐きながら包丁を握った手を下ろす。階段の上で死んでいる人というのは、女医と巨漢のことだろう。彼は、どう見ても克死状態から脱している。

「いきなり刃物をむけてすみません、危険な克死患者かと思ってしまって。あなたを傷つける気は無いので安心してください」

「克死患者、ですか? あの、ここはいったいどこなんですか。川で釣りをしていたはずなんですけど。気がついたらここにいたんです」

「ここは克死院だよ。その様子からして、気がついたのはついさっきのことなんだろうが、アンタはいままでずっと克死状態だったんだ」

 聖は端的に答える。しかし、その言葉を聞いて須藤さんは慌てふためいた。聖へと詰め寄ると、どもりながらもマシンガンのように言葉を続け、その体に縋る。

「こ、こ、克死院!? え、じゃ、じゃあ、僕は死んでしまったんですか。そんな、困ります。僕には養わないといけない家族がいるんです。息子はまだ二人とも幼くて、小学三年生と四歳なんです。か、か、家族の元に帰らないと。お、奥さんは専業主婦で、ぼ、僕は仕事だって休めないし、いったいどうしたらいいんですか」

「そんなことおれに聞かれたって知らねぇよ。死んでねぇから克死状態になってたんだろうが。こっからどうするかなんて、テメェで考えろ」

 聖の言葉はそっけない。自分の服を掴んだ須藤さんの腕を、汚いものでも扱うかのように強制的に引き剥がすと、再び開かないドアへと体を向ける。いつもの聖であればもう少し優しく対応していただろうが、いまは彼にも余裕がないのだ。

 須藤さんは支えを失って、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。そんな様子が哀れに見えて、俺は彼の元へと近寄り、手を差し伸べる。

「えっと、須藤さん。その様子からすると、克死院のことはご存知なんですね? 俺たちも、須藤さんと立場は同じで、事態はよくわかっていないんです。ただ、この中には危険な克死患者が溢れています。そこで俺たちは、なんとかして安全を確保しつつ、外に出られるようにしようと、まとまって動いているだけで」

 聖の言葉を補足するように説明すると、須藤さんは俺の手を掴んで立ち上がってくれた。

「な、なるほど。すみません、取り乱してしまって。階段の上でもとんでもないものを目撃して、つい、気が動転して」

「いえ、気持ちはわかりますよ。あ、俺は今泉陸玖。彼は聖といいます」

「今泉さんに、聖さんですね、ご丁寧にどうも。あの、聖さんは、さっきから何をしているんですか」

 聖は開かない扉をなんとかしてこじ開けようと、ゆめちゃんの名前を呼びながら、体を押し付けている。

「この中は倉庫になっていて、非常食なども豊富に備蓄されています。俺たちは中の安全を確認し、仲間の女の子を置いて探索に出ていたんですが。帰ってきたら、鍵もかかっていないのに、なぜだかドアが開かないんです。二人がかりで押しても、中からなにかがドアを抑えている感じで押し返されてしまって」

「なるほど、では僕もお手伝いさせてください。三人で押したらなんとかなるかもしれませんし。僕、こう見えて結構力には自信があるんです」

 本当に落ち着きを取り戻したようで、須藤さんはヘラリと笑うと、腕を上げて力瘤を作るような仕草をしてみせる。

「ありがとうございます、助かります。聖、三人でもう一回やってみよう」

 声をかけ宥めるように肩を叩くと、聖はようやく俺の方を向き、頷いた。

「よし、わかった。もう一回やろう。頼むぜ、おっさん」

「任せてください」

 聖がドアノブを捻り、須藤さんが腰を落としてドアに体を押し付け、俺はドアの上部に両腕をついて構える。

「いくぜ、せーの!」

 聖の掛け声に合わせて、渾身の力を込める。

 すると、二人では開かなかったドアの隙間が、ジリジリと開いていく。

「お、いいぞっ。動いてる、このまま……」

 と、半分ほどまで開いたところで、向こう側から抑えつけていたような力が、突然ふっと失われた。勢いのそのままに、俺たちはお互いに重なるようにして倉庫の中に転がり込む。

「ぐぅー」

 俺の全体重をかけた膝が須藤さんの背中に乗ってしまい、彼の口から苦しそうな声が漏れた。

「あっ、すみません。大丈夫ですか」

 俺は慌てて須藤さんの上から体を引き、再度手を伸ばして、彼が立ち上がるのを手伝う。そうこうしている間に聖はすぐさま立ち上がり、ゆめちゃんの元へと走り出した。倉庫の隅で小さく身を屈めるように丸くなっていたゆめちゃんの姿が、聖の懐中電灯の光によって照らし出される。

「ゆめ、ゆめ、大丈夫か。どこか痛いのか」

 聖は、ゆめちゃんの肩に手をかけ軽く揺する。

「おにいちゃん?」

 か細い声を漏らし、ゆめちゃんはゆっくりと顔を上げ、聖を見た。頬は溢れた涙に濡れているが、そのほかに体の異常はないようだ。

「どうした、なにがあった」

 聖からの問いかけに、ゆめちゃんは眉を寄せて表情を歪める。透明な大粒の涙が、目尻からポロポロとこぼれ落ちた。ゆめちゃんは、涙を堪えるようにしゃくり上げながらも答える。

「ここに、子供たちがいたの。みんなでわたしのこと、汚いって、汚くて、卑怯、で……う——って」

 ゆめちゃんの最後の言葉は小さく掠れていて、なにを言ったのかはよく聞き取れなかった。聖はただ腕を広げると、その小さな体を、ぎゅっと包み込むように抱きしめた。

「戻ってくるのが遅くなってごめんな」

 聖の言葉に、ゆめはフルフルと首を横に振る。

 そばに追いついて周囲を見回してみるが、倉庫の中に俺たち以外の姿は見当たらない。振り返ってみても、倉庫のドアを抑えつけていたような人も物も存在しておらず、そもそも、克死院の地下に子供たちがいるとは思えない。しかし、内側から何者かがドアを抑えていたのはたしかなことだ。

 ゆめちゃんは本当のことを言っている。俺にはそれがわかった。なにも言わずに彼女を抱きしめている聖も同じ気持ちだろう。

 俺は二人のそばに寄ると、聖と一緒になって小さなゆめちゃんの体を抱きしめる。腕の中に、少女の温もりと、恐怖による小刻みな震えが伝わってきた。彼女が無事でよかったと、心の底からそう思う。

 このようなことがあっては、もう、ここにはいられない。
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