前世記憶障害症候群

いつはる

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9 契約と履行

9-2

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「あんた、お困りじゃないのかい?」
ソロジア先生は呪いの魔物に怯まず一方的に話す。

返事はなく、漆黒の澱みが箸でかき混ぜたように不規則な動きで揺らぎ出し、ざらついた半透明の石のような球体が二つ、澱みの中から突如浮き上がった。
良く見れば曇りガラスのような球体の中央は深い黒。目のように左右上下にクルクルと動く。
二つの眼球(?)が集まる辺りが顔かな?と思い何となく視線をそっちに合わせる。呪いの魔物と聞いて想像していた恐ろしさを、その眼球から読み取ることは出来ず、少し安心した自分がいる。ソロジア先生が普通に接しているからかもしれない。

すると……突如大きさも疎らな球体が更に数十個、いや数百だろうか私たちを囲むように現れた。
それぞれが無秩序に回転し、漆黒の空間が音も無くざわめく。そして回転が最高潮に達した時、一斉にこちらに視線を向けるように動きを止めた。
顔もなく浮かぶ眼球の群れにただじっと見つめられる。視線を動かしても、視界には眼球がいて逃げることが出来ない。思わず下を向くと、足元にぎっしりと生気の無い魔物の眼球がこちらを見ていた。
「ひっっ!」
目を閉じるが記憶の景色が消えずゾワっと全身に鳥肌が立つ。奥歯が不自然にガタガタと震え頬が痙攣したようにひきつる。ヒッヒッと呼吸が短く鼓動はそれよりも早い。気が遠くならないのが不思議なくらいだ。

浅い呼吸で苦しさを感じはじめた時、胸元からジャラジャラと鎖が揺れる気配を感じソロジア先生を見ると、何故か少しだけ呼吸が戻った。

◆◆◆

「へぇ、凄い数。これ目玉かい?」
『……』
「数の割にはなんか弱々しいねぇ?」
『……』
ぐるりと辺りを見渡しながら、無意味そうな発言を繰り返すソロジア先生。

先生が語る度に澱みの渦が私の身体を舐めるようにまとわりつき、不快感が増して行く。そんな中
「この贄、これが原因だろう?」
ソロジア先生はニッコリと笑うと右手で私を示した。

ソロジア先生の問い掛けに澱みが濃くなり、足元からドロリとした黒い塊が湧き出てきた。贄の袋を伝い私の足に絡み付くと、また黒い蔓になり巻き付きながら上へと伸びてくる。
今朝、玄関前の水溜まりで感じたものと同じ異臭が鼻腔を擽り、体内に入ろうとしてきた。拒絶しようと顔を背けるが、既に入り込んだのだろうか、身体の内側を舐められるような奇妙な感覚。
反射的に身体を捻り逃れようと踠くが、片足が固定されているからか身体が傾き、思うように動けない。

「二百年以上も時をかけた呪い、昨晩やっと願いが聞けてどうだった?呪う相手もいないのに。あぁ、でも契約しなければ身動き取れず、めしも喰えずにいるのかねぇ?」
ソロジア先生が魔物に語り掛けるほど、私の全身の不快感は増していき、せり上がる何かを吐き戻しそうになる。すると
「やめろ……邪魔、ずるな……」
リリアスだ、私の口からリリアスの言葉が紡がれる。
「ごいづも……呪え……呪ってやれ」
ソロジア先生を睨み付けながら魔物に願いを言い続ける。

「ほら、贄が自分の立場も弁えずに願いを言い続けてるよ。良いのかなぁ?」
ケラケラと笑い先生は魔物を更に挑発する。するとリリアスの気配がスッと沈み込み、吐き気が楽になった。
「ひとりの身体に、契約者も贄も呪いの対象も全てぶち込んで、まとめて仕末する算段かい?フフ……案外頭が良いじゃないか」

私に視線を移してニヤリと笑うと
「その算段、手助けして欲しい?」
そう言った。

◆◆◆

そんな!まとめて仕末されるの?
慌ててソロジア先生を見つめるが、先生はニヤ気顔のまま上を向き、私の視線は届かない。鹿下さんと赤須さんを探すが、二人の姿を見つけることも出来ない。
嫌だっ!嫌だっ!この呪いの魔物、自分の不手際を私に押し付けてばっくれようと言うのか!しかもソロジア先生がそれに加担する?いい加減にして!
信じた結果がこの状況、あの宣誓は何だったのか。裏切られた記憶のまま呪われて、しかもただの呪いの器として扱われるなんて……悔しい……そしてやるせない。恐怖より悲しさが心を占め、悔し涙を浮かべ顔を上げることが出来ない。

そんな時だ、ジャラジャラとソロジア先生と私を繋ぐ鎖が大きく揺れた。ソロソロと顔を上げると、涙で歪む視界に魔物に問い続けるソロジア先生が見えた。魔物が困ってる?目玉の数?それがどうした、私を無視して魔物にいくつも話し掛ける。

『ここで何をしてるんだい?』
また魔物は同じ問い掛けを繰り返した。
そこで……私はあることに気が付き涙を拭い先生を見ると、今まで見たことのない無邪気な笑顔がそこにあった。

◆◆◆

『さあ、教えておくれ。何をしてるんだい?』
魔物が更に問い掛けるが、ただ笑顔を振り撒くだけで一言も語らないソロジア先生。数百の眼球が先生に視線を集中させたが、それに臆することなく笑い続ける。

『ここで何をし……』

再度の問い掛けが始まったまさにその時、うねる漆黒の澱みの一部に定規で引いたような白い線が浮かび、その線を押し開くように人がひとり、魔物が作り出した空間に入ってきた。

「赤須君、遅いよ~」
そう、入って来たのは赤須さん。二メートル近くある身長に厚い胸板。格闘家のような体格の無口な調査員の赤須さんだ。
無造作に下げた右手には、一メートル以上ある片刃ののこぎりが握られていた。あれは……以前本で見た、多分前挽大鋸まえびおがだ。
「今回はえぐい武器ね……」
そう言うソロジア先生は呆れ顔だ。

「悪いけどこっちの準備できるまで、よろしく」
その言葉を受け、赤須さんはチラリと私を見ると小さく頷いた。するとソロジア先生が空いてる右手を赤須さんに突き出し、また何やら唱え出す。

 鍵守が魔女ソロジアが命じる
 深淵よりいでし漆黒の鎧よ
 の身を包みし鋼の鎧よ
 眼前の怨嗟に不動の防壁となれ
 黒鉄の鎧よ下知を守りし者に
 金剛力の守護を築け

すると赤須さんの胸に鍵が現れ、時計回りにぐるりと回った。直立している彼の身体を重厚そうな黒光りする鎧が包んだ。西洋の鎧に大工道具の赤須さん。両手で持つ片刃の鋸を振り上げ、風切る音を鳴らしながら振り下ろす。本来の使い方とは違う動きをする前挽大鋸、すると鋸の軌道にあった眼球が音もなく粉々と砕け散った。
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