少年のいる火曜日

悠行

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少年のいる火曜日‐3

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 金曜日をのらりくらりと過ごし、放課後はハルと近くのショッピングセンターのフードコートにミスドを食べに行ったので林君と一緒に帰ることもなかった。
 当日、待ち合わせの場所に現れた林君は私を見て驚いたことだろう。
 何故なら私は比呂を引き連れて現れたからだ。
「・・・それ、弟?」
「いや、いとこ。ごめん、今日相手頼まれちゃってさー」
 比呂が「嘘をつけ」という目をしてきたので、私は「ごめん、黙ってて」という目線を送った。
 土曜日に比呂を連れ出させてくれないかと玲子ちゃんにメールを送った。今ものすごく動物園に行きたいのだけれど、一緒に行く相手がいない、と。
 それを嘘と見抜いているのかどうか知らないが、涼子ちゃんはオッケーを出してくれた。昔私を連れ出していたからか、休みに相手してもらえるなら構わないと思ったのか。
「名前、なんていうの」
「小林比呂です。八歳」
「じゃあ二年生?」
「うん。お兄ちゃんはなんて言う名前なんですか」
「俺は林俊太郎って言うんだ。よろしく」
 さすが我がいとこ、そつなく会話をこなしてくれる。
「林と小林ってなんか似てるね」
「そうだな、大林がいれば完璧だな」
 よく分からないが会話を続けてくれる林君を見ていると気を使ってくれているのだと思い申し訳なくなってきた。しかし仕方ない、嫌だったんだもの。
「じゃあ行こうか」
 私たちは移動しはじめた。電車で動物園の近くの駅まで行き、そこからは徒歩で行ける。
 涼子ちゃんと比呂は私の家の近くに住んでいるのだが、自転車だと軽々行けるが徒歩だときつい、くらいの距離のところに住んでいる。私は自転車で比呂を迎えに行き、自転車を置いて徒歩で駅まで行き、そこから私鉄でこの待ち合わせ場所まで来た。待ち合わせ場所は高校の近くの大きめのJRの駅だったので、無駄にお金がかかってしまった感じがする。朝から自転車を飛ばしたりしていたのでもう私は少し疲れていた。
 電車は土曜日だからか空いていた。比呂を真ん中にして座り、がたがた揺られていると眠くなってくる。
「ちぃちゃん眠いの?」
 そう聞いてくる比呂の方は元気いっぱいである。普段電車に乗らないので、電車に乗っているのが楽しいらしい。今は落ち着いて座っているが、私鉄ではうるさくて仕方がなかった。
「朝だからね・・・」
「ちぃちゃんって呼ばれてんだ」
「普段はちぃちゃんなんて呼ばれてんの?」
「えっ・・・東田」
「僕も学校では名字で呼ばれることあるよ」
「いや、でも木下はちぃって呼んでるよな」
 木下とはハルのことである。
「そうだねー」
 会話がなくなった。話すことが特にないのである。比呂はそんなことを気にしているわけもなく電車の外を眺めているだけでも楽しいらしいが。
 さすがに気まずいと思ったのか林君がおもむろに口を開いた。
「あー・・・比呂君、は動物園最近行った?」
「あんまり・・でも、ほら」
 背負っていたリュックサックからごそごそと取り出す。それは市内の小学生なら格安で公営の施設に行けるというパスであった。見せびらかすようにひらひらする。
「これがあるから、行きたかった」
「うわ、懐かし」
「これ遠足の時に忘れて先生に怒られた覚えあるなー」
「これ中学までもらえるよね確か」
「そうなの?小学生だけだと思ってた」
「いや、貰える貰える。私中三の時これで遊びに行ったもん」
 そんな話のおかげで何とか会話が続き、目的地に着いた。
 入るときに林君が入場料は俺が払うなど言いだし一悶着になったが、結局私が無理矢理払った。高校生同士なのだから別に払ってもらわなくて構わない。
「で、まず何見る?」
「普通に順路通り見れば?」
 私は入ってすぐのところで貰ったパンフを見ながら言った。どうせ全部見るし、順路通りで構わない。
 異存もなかったようで、回り始めた。
 比呂がいるおかげで比呂に話しかければいいので楽だった。絶対甘い展開にもならないので怖がる必要もないし、会話が全体的にほのぼのしている。
比呂はあれ何、何の仲間、とか林君に聞いたりしている。この状況を理解しているのかどうなのか分からないが、私を連れてデートしていた涼子ちゃんに気持ちが分かるような気がした。あれは私が9歳の時だったから、理解しているのかもしれない。
昼は動物園内で軽く食事をした。比呂はたこ焼き、私と林君は焼きそばを選び、屋外のテーブルで食べた。
「タコ嫌い」
 と言いつつタコをほじくり出して食べる比呂に、林君は
「じゃあなんでたこ焼きにしたんだよ」
 と笑っていた。
「たこ焼きの皮が好きなんだもん」
「それじゃたこ抜きだね、私も昔よくしてたけど」
「東田も?じゃあそれ血かな」
 そういえば三年前におじいちゃんのところで過ごした正月にたこ焼きを作ったのだが、その時も比呂はタコを抜いていた気がする。うちにはたこ焼き器が無いのでそれから作ったことが無いのだが、比呂は家でたまにやるのだという。
「僕の分はたこ抜きだよ」
「お母さんやさしいなぁ」
 涼子ちゃんの意外な家庭的な部分を聞いて驚いた。私は涼子ちゃんの料理を食べたりしたことが無いので、お母さんらしい感じをあまり想像できない。
 食べるのが遅い比呂をゆっくり待ってから、またくまなく動物園を見たが、ものすごく動物が好きというわけでもないので意外にすぐ見終わってしまった。三時くらいには帰ることになり、
「比呂を家まで送っていくから」
と早々に林君には別れを告げた。
 一応電車の中で「今日はありがとう、いとこ連れて行ってしまってごめん、楽しかったよ」などとメールを送ったはいいが、今後どうするか真剣に考えなければならないと感じた。友人としてクラスメートとしては仲が良かった林君だが、彼氏となるとなんだか生々しく気持ち悪く感じてしまう自分がいるのであった。
 涼子ちゃんと別のところで待ち合わせしていたので落ち合った。お母さんには「比呂と動物園に行く」とだけ言ってきたので、涼子ちゃんに会う前に「今日私のほかにも男の子がいたということは言わないように」と言っておいたが、多分言うだろう。なので「特に私のお母さんには言うな」と言っておいた。比呂と母さんが会うときは私も大抵いるので大丈夫だと思うが、これを言っておけばそれを涼子ちゃんに比呂が言って涼子ちゃんが隠してくれる気がする。たぶん涼子ちゃんは情報を流さないという確信があった。
涼子ちゃんはそれまで小林さんと一緒に買い物をしていたのだという。久しぶりに会った小林さんは相変わらず好青年が少し年取ったような感じで、いいパパとして申し分ない。
「ちぃちゃん、久しぶりだね」
「お久しぶりです」
 何しろ結婚前から知っているので向こうも結構可愛がってくれている感じはある。
 一緒に夕飯を食べることになり、「じゃあ玲子姉ちゃんも呼ぼう」と涼子ちゃんが言いだしたので母さんが来るまで暇をつぶすことになった。
 小林さんは来月の月替わりから単身赴任だそうでその必要なものをこれまで選んでいたという。
「電化製品とか、ネットで向こうに送れるように買いたいんだけど、やっぱり実物見ないと不安じゃない」とのこと。
「あと布団とかね」
「家に前使ってたのがあるから要らないって言ったのに」
「だめよ、パパが学生時代に使ってたやつのことでしょ?へたってるから捨てようと思ってるのよ」親類とはいえよその家族に交じるのは居心地が悪くその居心地の悪さが面白かった。
 ぶらぶらとウインドウショッピングをする。「ちぃちゃんああいうの着れば似合うんじゃない」などと涼子ちゃんが言ってくる。
 母さんがやって来て、そこそこいい洋食屋に入った。家族連れやカップルがおり、メニューに書いてある料金は私がいつも行くファミレスの4倍くらいしている。母さんは
「急に涼子が呼ぶからびっくりしたわよ」
 などと言っている。来月から単身赴任だということで、小林さんと送別会のようになった。仕事を全部終わらせたり他の人に担当を移したりするので今月はとても忙しくなるというし、涼子ちゃんと比呂には会うけれど、小林さんとは半年に一回も会うかどうかというくらいしか会わないので、単身赴任までにはもう母さんと私会わないだろうと思うからだ。
「結構急なんですね」
「いや、そうなるかもしれないと言われてはいたんで涼子には言ってたんですけど、変更があるかもしれないので伏せてたんです」
「そうそう」
「それは昇格なの?」
「まぁ、そうですね」
「おめでとう、すごいじゃないですか」
 そう言いつつ談笑する。母さんは涼子ちゃんの「新たな恋」について知っているというのに、どういう気分で小林さんと接しているのだろうかと思った。

 月曜日、林君はあんまり話しかけてこなかった。聞けば「デートにいとこを連れてきた」ということで「ありえない」「それは元々おまえが好かれていない」などと周りに言われたようだ。自然消滅しそうだなと思った。やはり涼子ちゃんのように私を連れて行ってもなお上手くやるというには私のスキルが足りなかったのだ。しかし望むようにはっきりと言うこともなく別れられそうで私は安心した。
「意外とちぃひどいな」
「だって、まぁ、いとこの相手してって言われたし」
 ハル相手にも適当なことを言う私であった。
「そんなに嫌なら付き合わなきゃよかったのに」
「付き合うときは行けると思ったんだもん」
「そんなことってあり?ひどいじゃん」
「私もひどいかなとは思ってるけど、ま、いいじゃない・・・」
「言ってなかったけどさ、林君のこと、中山ちゃん好きなんだよ」
「え、そうなの?」
 中山ちゃんとは私とハルが四人で組めなど言われたら一緒になるクラスメイトである。私たちより少し活発な印象がある。新事実で私は驚いた。
「うん、だからここ一週間話しかけてこなかったんだよ」
「知らなかった・・・なんで言ってくれないの」
 自分の鈍感さにびっくりである。私だけが知らなかったということほど恐ろしいものはない。
「嫌な気分にさせるかなと思って」
「え、ああ、なんかごめん」
「でも別れるんだったら大丈夫じゃない」
「まぁそうかな、不用意に人と付き合うのはやめた方がいいのかな」
 その日の午後の体育ではいつも通り中山ちゃんたちと組んだ。中山ちゃんは何も聞いてこなかったので怖かったが、態度は普通だったので気にしないことにした。

一安心したからか私は疲れていた。何回か授業で寝てしまったりしつつ一日の授業を終えると速攻で家に帰った。
 帰ってソファに座っていたら気づいたら寝てしまっていた。帰ってきた母さんが起こすまで気づかなかった。
「あれ?いつの間に帰ってきたの」
 母さんが帰ってくるのは九時くらいだ。遅い時はもっと遅いし、早い時は七時くらい。今は仕事が立て込んでいる時期らしい。母さんは栄養食品などいろいろ打っている会社の経理をしている。
 遅い日の晩御飯は大抵スーパーのものだが、私はあまり気にしていない。今日は半額のシールが貼ってある寿司だった。寿司は美味しいし反って嬉しいくらいである。
「私マグロと、これとこれ食べる」
「何でも好きなの食べていいよ」
「かあさん、このアナゴ食べなよ」
「いいの?でもお母さんこれも食べてるからいいよ」
 母さんはめちゃくちゃ美味しいという同僚からもらったキムチをつつきつつビールを飲んでいた。
「いや別にそれほどアナゴ好きじゃない」
 寿司の配分を考えつつ食べ進める。
「勉強はどうなの?」
「んー普通」
「普通って。やっぱり塾行った方がいいんじゃない。ハルちゃんは行ってるんでしょ」
「うーん」
「夏休みくらいから行った方がいいんじゃないの。いつも帰ってきたら遊んでるし」
「宿題はしてるよ」
「宿題とテスト前しか勉強しないじゃない。しかもちぃの学校宿題そんな多くないでしょ」
 さすが卒業生。よく分かっている。
「そうだけどさぁ」
「今週の土曜にでも塾、見にいこうか。このままだと全然勉強しないまま受験生になるわよ」
「ええー・・・」
「偏差値見たけど、H大ならもっと勉強しないといけないでしょ、やっぱり」
 例として出したH大が、私の志望校になっている。
「べつにそこじゃなくてもいいけど」
「でもH大の文学部、いいらしいわよ」
 そう言われると、特に何でもいいと思う私は反論もできない。
 家、出れないのか、とはぼんやりと思った。

 火曜日、帰ってしばらくすると比呂がやってきた。比呂は普段は学童保育にいて、その後こっち側の方に住んでいる友達達と帰って来て、そこからさらに歩いてうちに来る。学童保育は6時までだが、普段は涼子ちゃんはそんな時間に帰ってきているのだろうか、と思って聞いてみると公文やらピアノの習い事で時間がつぶされているようだ。小さいのに大変だなぁ、と思ったがよく思い出してみるとそれは私にも使われてた手法で、小さいころは私も習い事をよくしていたのを思い出した。毎日うちに来ると負担が大きいので遠慮しているのだろうか。火曜日だけうちに来るのは、フラダンス教室がかなり遅い時間までなので習い事も間に合わないくらいだからだそうだ。なんでうちに預けてまでフラダンス教室なんかに通い始めたのだろうか。
 ふと思いついて比呂が帰ってくる時間帯に通っているルートをたどっていると、やはり比呂は向こうから現れた。
「ちぃちゃん!なんで?」
「そろそろ帰ってくるかなと思って」
 比呂はランドセルの他にその日は手提げと傘を持っていた。今日の朝少し雨が降っていたのだが、今は曇っているだけで降ってはいない。手提げだけ持ってやると、驚くほど軽い。比呂の体との比だと大きくて重そうに見えたというのに。
「これ、何が入ってんの?」
「図書室で借りた本と、ファイル」
 そういえば私が小学校の時ファイルだけ大きくてランドセルの蓋の下にかませて背負っていたのを思い出した。ちょっと覗くと、図書室の本は新しそうで最近出版されたのであろう、私の知らないものだった。
 途中でコンビニに寄り、100円のお菓子を買って帰った。比呂のリクエストでチョコのかかったビスケットになった。
 比呂は学童で宿題を終わらせている。私は自分の英語の課題をリビングでやる。終わった後は一緒にさっき買ったビスケットをお供にテレビゲームをやった。私が誕生日にプレゼントとしてねだったものである。
 そうこうしていると遅い時間になってきた。私は晩御飯が遅くても構わないが、比呂はお腹が空くだろうということでレトルトカレーを食べる。私は料理が出来ないので必然的に比呂は毎火曜日インスタントとかレトルトを食べているが大丈夫なのだろうか。結構気に入って食べているような気がするのだが、栄養は偏るだろう。
 いつもは涼子ちゃんが迎えに来るような時間になっても来ない。メールを見ても何の連絡もない。外を見るとさっきまで降っていなかったのに土砂降りの雨が降っていた。
「すごい雨だね」
「本当だ。ママ大丈夫かな」
「そうだね、涼子ちゃん大丈夫かな」
 母さんは車で帰ってくるので大丈夫だろうが、涼子ちゃんはペーパードライバーでいつもここまでも徒歩でやってくる。
「練習してるのかなぁ」
「ママ、なんか今度の発表会でいい役になったって言ってた」
「あーそれで練習してるのかな」
 本当に土砂降りも雨だった。しばらくしても雨足は弱まりそうにない。
 私はフラダンス教室の場所を知っていた。それで、傘を届けに行ってあげようと思った。フラダンス教室は駅前にあり、ここから五分ほどである。大きな傘が無ければきついだろう。
 比呂も行くと言って聞かないので一緒に家を出た。比呂には昔私が着ていたレインコートも着せてやった。遅い時間に子供二人で出歩いていいものかと思ったが、駅前は明るいし大丈夫だろう。母さんと涼子ちゃんにはメールを送った。 
 夜だがサラリーマンなどは歩いているので人通りはあった。比呂はしきりに「雨すごい」などと言っている。いつもは雨の中歩くなんて御免だが、荷物などを持っていないし濡れてもいいようなジャージ姿だったので気楽だった。むしろちょっと楽しい気分だった。雨に唄えばを歌いたくなる。
 フラダンス教室の場所は知っていたが、実際に行ったことはなかった。駅前と言っても一本はずれたところにあり、住宅街とビルの混在地域のようなところの、小さいビルであった。
 近づいていくと、教室のある階には明かりが灯っているのが見えた。
「あ、あそこだ」
 まだ練習しているのだろうか、と近づいていくと、入り口のエントランスのところに人影が見えた。
 私は残念なことに目が良かった。
 それは男性と涼子ちゃんだった。男性は長髪で、老いてはいるがきれいな顔をしていた。何かを、喋っている。
 あれが、とぼんやり思っていると、比呂は背が低くて見えないのか、私より小さいのに少し目が悪く授業中は眼鏡をしているから見えないのか、立ち止まった私を不思議そうに見上げていた。
 と、その瞬間涼子ちゃんと男の距離が縮まった。近い、と思った瞬間、彼らは口づけをしあった。
 まるで映画やドラマかというぐらいに、熱烈なものだった。首に手を回したと思うと、さらに激しくなった。とっさに私は比呂の目を手で覆った。見えていないとしても。
「どうしたの?」
 訳も分からず困っている比呂の声は、雨音にかき消されていった。
 二人が離れた。こうしてみると、きれいな男女だと思った。
 その時はっとして、見ていたことがばれてはいけないと思った。
 私は駅の方向へ比呂の手を引いて引き返した。
「ごめん、私間違ったみたい、駅で待とう」
 追いつかれてはいけないので速足だった。比呂は私より歩幅が小さいのできつそうだったが、今そんなことに構っている場合ではない。
 気づくと下唇をかんでいた。私も誰かに目を覆って欲しかった。でも私は覆ってもらうには成長しすぎてしまった。誰も私を守ってはくれないのだとさえ思う。
 駅に着いて、涼子ちゃんに「場所分からなかったから、駅にいます」とメールを送った。駅の椅子に座った。
「ちぃちゃん、大丈夫?寒いの?」
 途中で風が強くなったので、レインコートを頭までかぶっていた比呂はいいが私は髪までびしょびしょになっていた。明るい駅構内でみると、すごくみすぼらしいだろう。
 涼子ちゃんの激しく口づけを求める姿が脳裏に浮かんだ。今まで小さいころから涼子ちゃんが何股もかけるのはうすうす知るように育てられたが、生々しい現場は見たことが無かった。
「ねぇ、ちぃちゃん、なんで戻っちゃったの?ママいたじゃない」
 その言葉に私ははっとして比呂を見た。
「え?」
「あのビルだったんじゃないの?ちぃちゃん見えなかった?」
「えっと・・」
「ビルの前に、ママいたのに。なんかちぃちゃんが戻るから」
 比呂は見ていたのだろうか。あれを。
「・・・涼子ちゃん、いたっけ?」
「うん。先生と話してた」
 ぼんやりと比呂を見つめた。たぶん見ていなかったのだな、と思うと安心した。私の髪から水が少し滴った。
「ごめん、見えなかった」
 そういってほほ笑んだ。
「もう少ししたら涼子ちゃん駅来ると思うから、待ってよう?メールしたから」
 涼子ちゃんはいつももう少しで帰るから、とメールを送ってくるから、携帯を確認するだろうと思った。
 良かった、と私を見つめる比呂を見ていると、ふいに、その顔が誰に似ているのかに気が付いた。
 自分に似ているのだ。
 東田の家系にはない一重、縦長の顔。前髪がぬれて落ちてきた比呂の顔は私にそっくりだった。
「・・・比呂、なんか飲む?買ってあげるよ」
「いいの?ポカリ!」
「好きだなぁ」
 そう言いつつ私は立ち上がって、自販機へ向かった。自分の分も買う。そういえば私もポカリスウェットが一番好きだった。他の何とも形容できないこの味が。
「ちぃちゃん、ふた開けれない。あけて」
無邪気に笑う比呂を見ていると、もしかしたらこの子は全部知っているんじゃないかと思う。何もかも知っていて、何もかも黙っているのかもしれない。
もしそうならば、私は、これからこの子の目を覆ってやらねばと思った。
「はい開けたよ」
 なぜなら、あまりに比呂は私に似ているから。
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