一室の記録及び手記

國光 安刻

文字の大きさ
上 下
2 / 2

しおりを挟む
 私は貧困な家庭に産まれた訳では無い。
それこそ平凡で何の変哲もない家庭に産まれた訳だ。
経済的には。
 母親は宗教家で専業主婦であり、父親はサラリーマンで哲学に浸り無感情で無口な人間であった。
 母はというと、日々私に口酸っぱく「善く生きなさい、そうしないとお天堂様に地獄に連れていかれるよ」と魑魅魍魎な事ばかり言われていた。
これはもう妖怪の類いであろう。
全くもって馬鹿げていて、いやな気持ちだ。
お天堂様はそもそも太陽であるし、地獄がある事を証明出来ないであろう。
更にそれはお前のエゴイズムでしかないだ。と清く成長した私なら言えたが、当時は酷く怯えたものだ。
 蟻1匹潰して泣き叫んだり、青空に向かって拝み神に頼んだりした。
川も、海も、空も、大地にもさえ神がいると信じて疑わなかったのです。
我ながら笑ってしまう。
 そんなきょーいくを受けていたもので、広義的にも友と呼べる人間は少なかった。
  私が学生時代の話をしよう。                                    
遡り幼稚園。
名の通り幼稚のその
そこは人間と呼べるか怪しい程の知性を持つ、人間のなりかけが通う園である。語弊はない。事実だ。
 思えば入園当時から友を作る才能は無かったようだ。
 通うとなれば私は幼いながらに、胸が張り裂けそうな。
いや、ありとあらゆる毛穴に穴から、内臓脂肪から血液、心臓。
全てが吹き出そうな程私は憔悴していたのだ。
 憔悴の要因はただ一つで、外へ出るという事である。
外に出るという事は1歩歩けば虫を潰し、それは自分の死後というものに結果として、じごくという形となって現れると信じて疑わないからだ。
それに果てには空からお天堂様が見守ってるときた。
 いよいよこの世が地獄じみてきた。
どうしたものか、どうしようも無い。
 諦めである。
人間は環境と少しばかりの遺伝子でしかエゴが成り立っていないのだから仕方が無い。
それが虚無主義ニヒリズムだと言われればそれまでであるが、その通りでもあると思う。
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...