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第三章
もうやめる。(高雅視点)
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陣から少しだけ離れたところに停められた荷駄の上に無造作に胡坐を掻き、俺は酒を煽った。
空を見上げれば、満天の星空が広がっている。
今宵は新月。
いつも月を肴に吞むのだが、たまには星もいいものだと両の目を細めていると、「と、殿」と控えめな呼び声が聞こえてきた。
ちらりと視線を向けると、先ほど雅次が寄越してきた伝令が所在なさげにもじもじしている。
「お前も呑むか」
「い、いえ。とんでもございません。ただ……も、もう一度お伝えいたします! 風見口を通って桃井軍七百が進軍中」
「うん。聞いた」
「また、雅次様が至急援軍に駆けつけますので、連携を図って」
「うん。それも聞いた。ゆえに、ここでこうして吞んでいる」
「は、はあ? それはつまり」
「俺はなあ」
また一口酒を煽り、ほっと息を吐きつつ俺は呟く。
「ずっと、弟には幸せになってほしいと思っていた」
「は……?」
「あやつのやりたいようにやらせてきた。偉くなどなりたくない。愛する家族と慎ましやかに仲良く暮らしていきたい。それがあやつの願いなら叶えてやろうと。だからな、ずっと我慢してきた。本当のあやつを見ることを。それを、今宵は見ることにした」
「本当の、雅次様……っ」
不意に、声が聞こえてきた。
陣の後方から少し離れたところにある小高い山のあたり。
やはりあそこを抑えたかと目を凝らしていると、家臣たちが慌てたように駆け寄ってきた。
「殿、背後より敵襲です! 敵はまだ誰か分かっておらず」
「桃井の奇襲軍七百だ。今、雅次が戦っている」
こやつが今、知らせてきた。
と、伝令を指差すと、相手はぎょっと目を剥いた。
「え? あ……は、はい。おっしゃる、とおりで」
「なんと! それでは至急、援軍を送りませぬと」
「やめておけ。お前たち、この暗闇の中、敵味方入り乱れて戦うあやつらの区別がつけられるのか?」
「うっ。それは……しかし、雅次様の兵は五百。少々荷が重いのではないかと」
「五百? はは。そんなにいないいない。精々二百くらいじゃないか?」
言いにくそうに進言してくる相手に俺が笑って返すと、その場にいた全員が「二百っ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「な、なにゆえそのような少数で」
「それくらい身軽でなければ、この短時間であの山には陣取れない」
「それは……でも、無茶でございます。殿ならいざ知らず雅次様では」
「そうです。あの雅次様では」
皆、口々にそう言った。
雅次の仕事ぶりは認める。だが、ひたすら裏方に徹し、前線で一度も戦ったことがない輩に何ができる。そう言わんばかりだ。
そんな連中に、俺はきっぱりと言い切った。
「桃井七百など、あやつにとっては造作もないことだ」
その言葉は果たして、すぐに現実のものとなった。
雅次はたった二百の兵で桃井軍七百を、ほぼ無傷で撃退してしまったのだ。
何でも、崖上と道の側面とに隊を二隊に分けて潜ませ、同時に矢を射かけることによって相手を混乱させ、同士討ちに陥らせたのだとか。
その都度送る指示は全て完璧。
おまけに、自ら敵陣に斬り込んで獅子奮迅の働きを見せたとも。
「あの、いるのかいないのかもよく分からぬ雅次様が!」
驚愕する家臣たちに、俺は「なあ? 俺の言ったとおりだろう」と涼しい顔で言ってやった。
「殿は雅次様のこの実力、知っておられたのですか? でしたらなにゆえ、あのように地味な雑事ばかりを申しつけて」
戸惑いの声を漏らす一同に、俺はふんと鼻を鳴らした。
「あやつが荒っぽいことは好かん。裏方の仕事が好きだというのでな。好かぬことを無理強いするのは可哀想ではないか」
そう答えると、皆呆れた声を上げた。
「殿、それは……恐れながら、間違っておるのでは?」
「……間違っているか?」
「はい。家来の才覚を生かしてやらぬは、将として不徳の致すところでは?」
「そうでございます。あのように素晴らしい才を持っていながら、今のような処遇では、雅次様が可哀想でございます」
「……そうだな。……うん。確かに、そうだ。あのような才気、みすみす潰してしまうのは、あまりにも惜しい」
そう独り言ちた後、俺は雅次と対面した。
皆から、「能ある鷹は爪を隠すとはこのこと」だとか「さすがは高雅様の弟君」などと褒めそやされ、何とも居心地の悪そうな顔をしている雅次を、俺は誰よりも盛大に褒めた。
お前がいなかったら俺は死んでいた。
頼れる弟を持って俺は幸せだとも言ってやった。
雅次はますます居心地の悪い顔をした。
そして、手放しで褒める俺を憤りに満ちた目でこっそり睨んできた。
俺の家臣になって間もない頃によく向けてきたのと同じ視線だ。
懐かしい。
今もあの時と同じように、「兄上は何も分かっていない」「俺の気も知らないで」と、腹を立てているのだろう。
……分かっているよ?
お前がどれだけ俺を信じていないか。どれだけ、お人好しの馬鹿だと思っているか。
今回のことで、本当によく分かった。
だから、もうやめる。
――俺があの男に……されたら、兄上は……俺を、嫌いになりますか?
お前を信じることも、お前の言うことを聞いてやることも、「お前の理想の兄」でいてやることも、全部やめる。
雅次がいつも簡単に騙されてくれる、屈託のない笑みを顔に貼りつけながら、俺は胸の内で独り言ちた。
空を見上げれば、満天の星空が広がっている。
今宵は新月。
いつも月を肴に吞むのだが、たまには星もいいものだと両の目を細めていると、「と、殿」と控えめな呼び声が聞こえてきた。
ちらりと視線を向けると、先ほど雅次が寄越してきた伝令が所在なさげにもじもじしている。
「お前も呑むか」
「い、いえ。とんでもございません。ただ……も、もう一度お伝えいたします! 風見口を通って桃井軍七百が進軍中」
「うん。聞いた」
「また、雅次様が至急援軍に駆けつけますので、連携を図って」
「うん。それも聞いた。ゆえに、ここでこうして吞んでいる」
「は、はあ? それはつまり」
「俺はなあ」
また一口酒を煽り、ほっと息を吐きつつ俺は呟く。
「ずっと、弟には幸せになってほしいと思っていた」
「は……?」
「あやつのやりたいようにやらせてきた。偉くなどなりたくない。愛する家族と慎ましやかに仲良く暮らしていきたい。それがあやつの願いなら叶えてやろうと。だからな、ずっと我慢してきた。本当のあやつを見ることを。それを、今宵は見ることにした」
「本当の、雅次様……っ」
不意に、声が聞こえてきた。
陣の後方から少し離れたところにある小高い山のあたり。
やはりあそこを抑えたかと目を凝らしていると、家臣たちが慌てたように駆け寄ってきた。
「殿、背後より敵襲です! 敵はまだ誰か分かっておらず」
「桃井の奇襲軍七百だ。今、雅次が戦っている」
こやつが今、知らせてきた。
と、伝令を指差すと、相手はぎょっと目を剥いた。
「え? あ……は、はい。おっしゃる、とおりで」
「なんと! それでは至急、援軍を送りませぬと」
「やめておけ。お前たち、この暗闇の中、敵味方入り乱れて戦うあやつらの区別がつけられるのか?」
「うっ。それは……しかし、雅次様の兵は五百。少々荷が重いのではないかと」
「五百? はは。そんなにいないいない。精々二百くらいじゃないか?」
言いにくそうに進言してくる相手に俺が笑って返すと、その場にいた全員が「二百っ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「な、なにゆえそのような少数で」
「それくらい身軽でなければ、この短時間であの山には陣取れない」
「それは……でも、無茶でございます。殿ならいざ知らず雅次様では」
「そうです。あの雅次様では」
皆、口々にそう言った。
雅次の仕事ぶりは認める。だが、ひたすら裏方に徹し、前線で一度も戦ったことがない輩に何ができる。そう言わんばかりだ。
そんな連中に、俺はきっぱりと言い切った。
「桃井七百など、あやつにとっては造作もないことだ」
その言葉は果たして、すぐに現実のものとなった。
雅次はたった二百の兵で桃井軍七百を、ほぼ無傷で撃退してしまったのだ。
何でも、崖上と道の側面とに隊を二隊に分けて潜ませ、同時に矢を射かけることによって相手を混乱させ、同士討ちに陥らせたのだとか。
その都度送る指示は全て完璧。
おまけに、自ら敵陣に斬り込んで獅子奮迅の働きを見せたとも。
「あの、いるのかいないのかもよく分からぬ雅次様が!」
驚愕する家臣たちに、俺は「なあ? 俺の言ったとおりだろう」と涼しい顔で言ってやった。
「殿は雅次様のこの実力、知っておられたのですか? でしたらなにゆえ、あのように地味な雑事ばかりを申しつけて」
戸惑いの声を漏らす一同に、俺はふんと鼻を鳴らした。
「あやつが荒っぽいことは好かん。裏方の仕事が好きだというのでな。好かぬことを無理強いするのは可哀想ではないか」
そう答えると、皆呆れた声を上げた。
「殿、それは……恐れながら、間違っておるのでは?」
「……間違っているか?」
「はい。家来の才覚を生かしてやらぬは、将として不徳の致すところでは?」
「そうでございます。あのように素晴らしい才を持っていながら、今のような処遇では、雅次様が可哀想でございます」
「……そうだな。……うん。確かに、そうだ。あのような才気、みすみす潰してしまうのは、あまりにも惜しい」
そう独り言ちた後、俺は雅次と対面した。
皆から、「能ある鷹は爪を隠すとはこのこと」だとか「さすがは高雅様の弟君」などと褒めそやされ、何とも居心地の悪そうな顔をしている雅次を、俺は誰よりも盛大に褒めた。
お前がいなかったら俺は死んでいた。
頼れる弟を持って俺は幸せだとも言ってやった。
雅次はますます居心地の悪い顔をした。
そして、手放しで褒める俺を憤りに満ちた目でこっそり睨んできた。
俺の家臣になって間もない頃によく向けてきたのと同じ視線だ。
懐かしい。
今もあの時と同じように、「兄上は何も分かっていない」「俺の気も知らないで」と、腹を立てているのだろう。
……分かっているよ?
お前がどれだけ俺を信じていないか。どれだけ、お人好しの馬鹿だと思っているか。
今回のことで、本当によく分かった。
だから、もうやめる。
――俺があの男に……されたら、兄上は……俺を、嫌いになりますか?
お前を信じることも、お前の言うことを聞いてやることも、「お前の理想の兄」でいてやることも、全部やめる。
雅次がいつも簡単に騙されてくれる、屈託のない笑みを顔に貼りつけながら、俺は胸の内で独り言ちた。
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