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第三章

信じる(雅次視点)

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「イロナシの俺を少しでも見栄えのいい立派な武将に見せるよう、己の出世をどぶに捨て、家庭もないがしろにした挙げ句、家房に抱かれようとまでして……その上、まだ何があるって言うんだ。

 真っ直ぐで真摯な瞳で問われ、恐怖で体が硬直した。

 ――月丸。可愛い月丸。お前は死ぬまで、わしだけの月丸だよ。

「そ、れは……」

「お前には、俺の優秀な右腕として存分に働いてほしいと思っている」

「……っ」

「これからは、お前の手柄はお前のものとして世に示す。伊吹雅次という名将がいると、皆に知らしめてやろう。お前がすごい奴だと分かれば、父上も家房も、お前をぞんざいに扱ったりできなくなるし、周辺諸国は恐れ戦く。伊吹家には高雅だけではなく、もう一人怖い男がいると」

「兄、上……」

「この前、言うたな?『兄弟力を合わせて、ともに乗り越えていこう』と。あれは、こういう意味だ。その足掛かりとして、お前に桃井の奇襲軍を討たせたんだ。お前の本当の実力を世に示すために」

 手を握られて力説されたその言葉に、身を引き裂かれるような激痛が走った。
 兄上が奇襲の報を受けても動かなかったのも、奇襲軍を撃退した俺を執拗に褒め称えたのも、そんな理由があったなんて。

 兄上の想いも知らず、浅はかだと一蹴した己の愚かさには恥じ入るばかりだが、ここまで兄上の心を踏みにじり、好き勝手してきた俺に、まだそんなことを言ってくれる兄上の気持ちはとても嬉しかった。

 二人ですごい武将になろうというのも、甘い考えだと思わなくはないが、それでもとても血が沸き立つ話だ。

 今のように、できるだけ人目を避けてこそこそと動き回るのではなく、兄上の隣に堂々と胸を張って並び立つ。

 どんなに素敵なことだろう。

 けれど、無理だ。

 なにせ、俺は伊吹の血が一滴も入っていない高垣の子、虎千代を嫡男として抱え込んでしまっている。
 

 それに、この身は長年家房に犯し抜かれて、完全な汚物。

 家房に襲われかけただけでここまで怒る兄上がこのことを知ったら。

 どうなるのか想像もできないが、絶対今のように俺のことを想ってはくれなくなる。 

 無理だ。
 今の俺には夢物語……。

「ここまで言ってもまだ、俺のことが信じられないか」

 不意に、聞こえてきた低い声にびくりとする。
 恐る恐る顔を上げると、兄上が無表情でこちらを凝視しているものだから顔面蒼白になる。

「も、申し訳ありません。兄上のせいではないのです。俺が、俺が悪い……ぁ」
 謝っていたら、乱暴に押し倒された。

「分かった。じゃあ、やっぱり抱く」

「え……! ゃ……あ、兄上、おやめになって……っ」
 ぐいっと顔を近づけられて、息が止まる。

「雅次。俺はもう我慢ならないんだよ。お前がずっと後生守っているその秘め事のせいで、お前がここまで縮こまるのも、俺たちの仲がこじれるのももう嫌だ。こうなったら、体に訊いてでも全部暴き出して……っ」

 眦をつり上げ、怒気を漲らせる兄上に震えていると、兄上がはっとしたように口を閉じた。
 それから、苦しげに顔を歪め、抱き寄せてきた。性的なものではなく、いつもの優しい所作で。

「悪い。ひどいことを言った」

「兄上……」

「本当にな。お前の言うとおり、俺はお前を傷つけてばかりいる」

 ひどい兄ですまない。
 その掠れた声での謝罪に、胸が抉られた。

 ああ、俺は……またやった。

 ここまでしてもらっておきながら、また怖がって、逃げようとして、兄上を傷つける。
 駄目だ。このままでは、俺も兄上も駄目になってしまうし、先に進めない。

 兄上の本当の気持ちを知って、そのことがよく分かった。

 
 あの男の影に怯え続けるのはもううんざりだし、

 ――俺一人ではなくて、二人で山吹に負けないすごい武将になろう。
 もしできることなら、兄上のその言葉を一緒に夢見てみたい。

 

「分かりました、兄上。もう、全部……お話します」

「! 本当か、雅次」
 思わずと言ったように顔を覗き込んでくる兄上に、俺はぎこちなく、それでも懸命に頷いた。

「はい。兄上は俺のためにここまでしてくださいました。俺はそんな兄上に応えたいし、できることなら、兄上と夢を見たい。けれど……話すのは、静谷に帰ってからにしとうございます」

「帰ってから? 今では駄目なのか」

「はい。兄上に、手打ちにされてもおかしくないことなれば」

「……っ」

「陣中では、まずうございます」

 からからに乾いた口で、何とかそう告げた。
 兄上は黙っていたが、しばらくして深く頷いた。

「分かった。では、静谷に帰ってから聞く。その上で、これからのことを決めよう」
 その言葉に深く頷く。

 そうだ。このことを話さないことには、俺たちは前に進めない。
 そう、思った時だ。

『申し上げますっ』
 突如、部屋の外から切迫した声が聞こえてきた。

『静谷より伝令。殿のご容態がまた急変されたとのこと』

「! 父上が?」

『はい。薬師の話によると、予断を許さない状況とのことで』
 俺は兄上と顔を見合わせた。

「兄上。これは、早く静谷に戻りませんと」

「うん。そうだな。皆に伝えよ。至急静谷に戻ると……」

『申し上げます!』
 また、別の声が聞こえてきた。

『桃井がまた、何やら不穏な動きを見せている様子』

「何っ?」

『我らを追撃する動きを見せているとのこと。いたずらに背を見せるのは危険かと』

 こんな時に! まさか、当家に潜む家房の間者がまた桃井にこの情報を流したのか。
 もし、そうなら――。

「……分かった。しばし考える。下がっていろ」

「兄上」
 伝令たちを下がらせる兄上に、俺は口を開いた。

「先に俺だけ、静谷に返していただけませんか」

「……」

「本来なら、俺が桃井を抑えるためにこの地に残り、世継ぎの兄上は小勢で急ぎ静谷に戻るのが定石。されど、父上が再度具合が悪くなってからの桃井のこの動き。家房がまた裏で糸を引いている可能性が高い。だったら」

「俺を殺す気でいる家房は、小勢で静谷に急ぐ俺を狙い打ちにする気でいるかもしれん」

「はい。しかし、危篤状態の父上を我ら兄弟そろって放置しておくのは外聞が悪いですし、もし父上が身罷った場合、イロナシの世継ぎなど恐るるに足らずと攻められるかもしれず……龍王丸が心配です」

「……そう、だな」

「娘婿の俺なら、家房は決して殺したりいたしません。ですから」

「……うん」
 何とも歯切れの悪い返事をしたきり、黙って腕を組んだ。

 ひどく難しい顔をしている。俺は何か間違ったことを言っただろうかと不思議に思ったが、兄上の視線の先に家房の文があるのを見てはっとした。

「もしや、俺を一人にしたら、家房に抱かれに行くのではないかと、不安に思われているのですか」

「それは……っ」

「大丈夫です」
 兄上が何か言うより早く、俺は兄上の手を握った。

「そのようなことは決していたしません。むしろ、無理です。兄上を、その……知ってしまったこの身はもう、誰も受けつけません!」

 これは、噓偽りない本心だった。

「お慕いしています。兄上だけ、兄上じゃなきゃ、俺は駄目なんです」

 そうだ。俺には兄上だけ。
 この身も心も兄上しか欲していない。でも。

「ですから、俺を信じてください。どうか……んんっ」
 強引に引き寄せられ、唇に噛みつかれる。

「あに、う……ふ、ぅっ。だ、め……ぁ…ん、ぅ」

「分かった」
 俺の口内を貪りながら、兄上は呻いた。

「お前を信じる。家のこと、龍王丸のこと、よろしく頼む」
 口内で囁かれたその言葉に、涙が滲んだ。

 今までの俺なら、「また騙されてる。お人好しな兄上」と内心ほくそ笑んだだろう。
 だが、今は……無心に口づけてくる兄上の気持ちを思うと、胸が痛くてしかたがない。

 申し訳ありません、兄上。

 
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