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第三章

劣情(高雅視点)

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 翌日、雅次は少数の兵のみを連れて、静谷へと戻っていった。
 それを見送った後、俺は桃井を迎え撃てるよう軍備を整えることに明け暮れた。

 ようやく一息つけた頃、乃絵から文が来た。

 小さく息を吸ってから文を読むと、乃絵は静谷の現状を詳細に報せた上で、俺の留守はしっかり守ると書かれていた。
 いつもなら、なんと頼もしい妻だろうと感心と感謝を抱くばかりなのだが、

『蔦様も虎千代様も、雅次様のことを大変気にかけておられました』

 弟家族は相も変わらず円満であることを強調する箇所を読むと、唇を噛み締めてしまう。

 ずっと信じていたのに。
 俺の気持ちを分かってくれていると思っていたのに! と。

 だが、もし……この裏切りのきっかけが、。だったとしたら。

 ――いつか必ず、惚れさせてみせますわ。
 乃絵は時折、怒ったようにそう言ってくることがある。

 俺にしてみれば、意味が分からなかった。

 俺は乃絵が好きだ。
 どんな時でも凛としている芯の強さ、いつも人の心を気遣える優しさ。その心根の美しさにいつも見惚れている。

 そう答えると、乃絵は決まって、と言う。

 困惑した。

 実をいえば、俺はこれまで女性に心ときめくという経験をしたことがない。
 十二の時からほぼ戦場で生きてきたから、女性と関わるなんてほぼ皆無。

 乃絵が初めてしっかり関わった女性だった。

 しなやかな芯の強さが素敵だなと思った。このような出来た人を妻に持てて自分は果報者だとも思った。
 だが、

 よく分からなかった。

 けれど、乃絵がそう思うのは、俺が……

 そもそも、俺はそういう行為が好きではない。

 この世には愛と幸せに溢れた営みがあるという知識はある……が、人生の半分以上を戦場で生きてきた俺がこれまで垣間見てきたそれは、ただの惨い暴力でしかない。

 初めて会った時の、狼藉を働かれた乃絵の姿などはその極みだ。

 そして、俺はそんな彼女の悲劇を利用し、今の地位を手に入れたクズだ。

 彼女に触れるたび、当時の彼女の姿とともに、強烈な自己嫌悪と罪悪感がとめどなく込み上げてきて、たまらなくなる。

 妻にしたからには彼女を大事にしなければ。幸せにしなければと思えば思うほど。

 それを……それは、自分を妻として見てくれていない証拠。惚れていないからだと責められたら、俺はどうしたらいいのだろう?

 時が経てば、この感情に折り合いがつくだろうか。
 そして、それができたら……妻を抱きたいと、自然と思えるのだろうか。

 その感情こそが、妻の言う「恋」という感情なのか。

 妻がほしいと言うのなら、いつかそういう感情を抱けたらいい。

 そう、思っていたのに、生まれて初めて心の底から抱きたいと劣情を抱いたのは……っ。

「……」

 乃絵からの文をしまい、酒瓶に手を伸ばす。
 だが、やめた。

 今は全く酔える気がしない……いや。
 もう、十分酔っている。

 ――ぁ、あ……ん、ぅ。あ、にう…え……だ、め。駄目で、す……ぁ。おやめ、になっ……ゃっ。

 雅次を一人で返すと決めた時。

 必要とあらば家房に抱かれる気でいるくせに、「兄上を知ってしまったこの身と心ではそんなことできない」などという嘘をしれっと吐く雅次が憎たらしくて、また唇に噛みついてやった。

 雅次は「駄目だ」「やめて」と、いやいや首を振った。
 ほんのりと色づき、緩慢に弱々しく捩れる肢体も、甘やかで震える声も、誘っているようにしか見えないのに。

 本当に嫌がっているのか。それともわざとか。

 判然としなかった。それでも……雅次本人がどう思っていようと、家房はこんな雅次を見たら、嬉々として貪り喰うに違いない。そう思ったから。

 ――やめてほしいなら、こう言うてくれ。「兄上が好きだ」と。

 ――……!

 ――そしたら、やめてやる……ん。

 そう囁いて、舌の裏を舐めてやると、普段の凛とした声音からは想像もできない、ひどく甘やかな声で小さく啼いた。

 ――あ、ああ……っ。そ、んな……ぁ。む、無理……ふ、ぁ。こんな時に、駄目……ん、んぅ。そんな、ことしたら……ぁ、あっ。

 我慢できなくなる?
 知っている。だから言っている。

 ――無理? ……無理じゃない。いつも、言ってくれるじゃないか。

 押し倒しつつ促すと、雅次は「駄目」「怖い」と愚図る。
 だが、掻き抱きながら執拗に口づけて、強請り続けると、

 ――あ、あ……兄、上。……す、き。

 ようやく、振り絞るように言った。
 そして、「もう一度」と強請ると、

 ――好き……は、ぁ。兄上、好き……す…き。兄上、だけ……兄上しか、いらな……ふ、ぁっ。
 堰を切ったようにそう繰り返しながら、自らしがみついてきた。

 その言葉を現実のものにしたくて、その身を深く掻き抱くと、雅次はますます乱れて――。

 それは、まさに……ずっと、必死で振り払ってきた光景だった。
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