吸血鬼は愛を語る

はつしお衣善

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吸血鬼の本能Ⅰ

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 一晩かけて私はイタリアを北上した。旅を続けるにしても、行先ぐらいは決めなければならない。住処は吸血鬼にとっても重要だ。どこでもいいわけではない。時折、人里に赴いていたとは言え、私は人間社会から離れて五十年も経つ。それだけの時間があれば、社会は大きく変革されているだろう。いまの私には、知識があまりに少ない。
よりよい土地を見つけるためには、最新の情報が必要になる。そして情報は人間の集まる場所にある。自然の産物しかない……いや、それすらも焼き払われた農園では、得られるものはない。そういった理由で、私はイタリアの南部――イタリアをブーツの形に見立てると、ちょうどつま先の部分だ――から北上し、都市を目指した。
 海岸線に沿って移動していると、アマルフィという都市にたどりついた。海岸に面したこの都市は、急勾配な土地に住宅が立ち並んでいる。昔見た、日本の長崎という街並みを思い出した。まるで集合写真でも撮るかのように、建物の一つひとつが顔を出している。
 ここで情報収集するつもりはなかった。そろそろ日の出なので、ここらで宿をとろうと思い立ち寄ったのだ。吸血鬼は太陽の光で死ぬことはないが、地獄の業火で身を焼かれるような思いはしたくない。あの苦しみは決して慣れるものなどではなく、吸血鬼なら誰でも発狂することだろう。
 アマルフィは世界遺産だかなんだかに登録されている都市なので、その中心産業は観光だ。だから、宿に困ることはない。夜明け前でも受けつけてくれるところはあるはずだ。金を多く持っているわけではないが、一日程度なら問題ないだろう。
 太陽が顔を出す前になんとか宿を見つけ、部屋に入り、カーテンを全部閉めた。カーテンの隙間から日の光が漏れる。なるほど、この街ではその地形ゆえにほとんどの家に日照権が確保されているのだな、と私は思った。吸血鬼にはこの街は向かない、とも。ただ、洗濯物の乾きはよさそうだ。
 日が沈み、空がうす暗くなると、私はのそのそと起き上った。チェック・アウトを済ませ、早々に街をあとにした。人目につかない場所まで来ると、私はコウモリのような翼を生やして空を飛んだ。飛行は吸血鬼の変身能力の一部であり、交通機関を安易に使えないので必須な能力である。
 アマルフィをあとにし、私はナポリを目指した。
 ナポリはイタリアの中では大都市の部類なので、大型の図書館や書店のひとつやふたつ、すぐに見つけることができるだろう。そこで住みやすい国を探すのだ。ナポリからもう少し足を延ばして、ローマへ行ったほうが情報は集結しているだろうが、それはあまりに愚行と言える。何せローマはイタリアで最大の都市だ。人口はナポリの三倍、そしてそれ以上に危険なのは教会の存在だ。エクソシストの総本山の麓へのこのこやって来る悪魔は、よほどの力の持ち主か馬鹿しかいない。脅威なのは彼らだけではない。エクソシストほど悪魔祓いに異常な積極性はないが、聖堂騎士団や数多くの司祭によって、ローマは守られているのだ。ひとたび見つかれば、浄化対象として有無を言わさず抹消されるだろう。
 とは言え、ナポリとローマはそれほど遠くない。危険であることは変わりないのだから、私も大概馬鹿なのだろう。
 ナポリは静かに眠っていた。私は人気のない暗い夜道を歩いた。大通りは割かしきれいなものだったが、路地裏の集合住宅の壁にはところどころ、スプレー塗料でいたずら書きがされている。ここらはあまり治安がよくないのかもしれない。
時刻は深夜にも関わらず、悪魔の気配――悪魔の『魔性』は感じられない。やはり、イタリアという国は宗教が根深く生活に浸透しているようだ。いたるところに教会や礼拝堂が見受けられる。
 ここでいう魔性とは「ましょう」ではなく、「ませい」と読む。
 人間などの一般的な生物は、原始生命体から途切れることなく、連続的に進化し、枝分かれしてきた生物だ。だが、悪魔や天使、妖精や精霊はそれと一線を画す生命体だ。非連続的に突如として誕生したのが、私たち幻想生物である。進化の環を持たず、生物としてたどるべき道すじを歩んでいない私たちは、生物とは言えないのかもしれない。とある学者たちは、私たちのことを非連続的突発種、と呼んでいる。
 魔性は非連続的突発種の発する、現実世界への違和感だ。環から外れた私たちは、本来ならこの世界に存在し得ないもの。その異物感が、他の生物に影響を与えているのだ。悪魔の魔性であれば得も言えぬ不安や恐怖、不吉さで人間たちには感じられる。逆に天使のような種族の魔性は、高揚感や幸福感となって人間に恵みを与える。
 余談だが、この魔性というのは現実世界の存在規模をそのまま示しているので、その濃さが直接、その非連続的突発種の生物としての強さに比例する。ちなみに私は自分でも驚くほど魔性が弱いので、人間と会話していても、あまり嫌悪感を抱かせることはないし、腕っぷしも弱い。魔性が増減することはないので、これからもずっと、私は弱いままだ。
 一般的な生物は生きることで成長し、生命体として強くなる(ある時点から弱体化もする。老化だ)が、私たち非連続的突発種は誕生した瞬間から完成した存在なので、成長することも進化することもない。弱ることはないが、強くなることもないのだ。それは生命として生きている意味があるのか疑問だ。不死というのは、死にはしないが生きているとも言えず、停留している、ということなのかもしれない。進化の反対が退化ではなく、停滞であるように、非連続的突発種は生命の進化を否定している。
 私は千年前に吸血鬼となってから、ずっとこの微弱な魔性とつき合っている。先の説明の通り、昔は強かった、なんてことはない。千年は吸血鬼の中でもかなり長生きなほうであり、その数はわずかではあるが、エクソシストからは『千年物』と称されている。とりわけ、千年物の中でも真っ向からエクソシストと戦い、生き延びているものは魔王とも呼ばれているが、私には関係のない話だ。
 長生きしている、ということはそれ相応の魔性が備わっていることが常なので、千年物の悪魔はすべからく魔性が強力であるはずなのだが……。私の場合は強運と逃げ足に長けている、ということで納得しよう。
 ナポリは神聖な魔性に包まれている。いくら私の魔性が弱いと言っても、あまり長居すると危険だ。どこで正体が見破られるかわからない。それに神聖な魔性は邪悪側の吸血鬼にとっては毒でしかない。
 道中で見つけた割と大き目の図書館へ入る。ここなら他国の情報も充分に備えているだろう。玄関はもちろん、職員専用の裏口や窓のすべては閉まっているが、私にはなんの障害にもならない。わずかな隙間さえあればどこへだって侵入できるのだ。ゴキブリ以上に侵入経路は多い。
 館内は当然暗かった。書架には膨大な数の書物が息をひそめている。私は足早に地理の区分へ赴き、渉猟した。吸血鬼は夜目が利く。新月の夜だろうと、星々の淡い光でこと足りるのだ。それでなくとも人の住む地域には、必ず人工的な明かりがどこからか漏れている。それだけでも充分だ。
 あらゆる国の統計や、風土、宗教を調べていると、おもしろい国を見つけた。はるか極東の島国、日本だ。
 私の最新の情報では、たしか第二次世界大戦の敗戦国で、これから日本がどうなるのか先行き不安な情勢だったはずだ。それがわずか五十余年で世界でもトップクラスの経済大国となっている。あのころでは考えられなかった未来だ。人の中に紛れて暮らすなら、ある程度経済的に豊かである国が望ましい。暇つぶしのものが手に入りやすいのだ。
 エクソシストの拠点であるヨーロッパから、遠く離れているところもポイントだ。極東へ逃げた弱々しい吸血鬼を追うほど、あいつらも暇ではないだろう。それにこの国は宗教にあまり関心がないらしい。私より年上の宗教は、せいぜい仏教と神道くらいか。それも生活に根づいている、というわけではなく、祭事や法事で利用する程度の人間が多いらしい。あとは新興宗教がチラホラあるようだが、そんなものはどの国でも似たようなものなので、些細な問題だろう。
 日本は人口と人口密度が吸血鬼には適しており、それ以上に自殺者と行方不明者の数が多いことも利点となる。
 人口密度が高いということは、それだけ人間があふれ返っているということであり、その中に紛れ込むのは容易だろう。木を隠すなら森の中、というわけだ。それに加えて自殺者と行方不明者を合わせた、この数の多さだ。なぜこんな豊かな国で、と理由が気にならないでもないが、いまはこの統計表が正しいものだと信じてことを進めよう。
これだけの人数が年間でいなくなるのなら、吸血鬼の吸血欲とまれにむき出す殺人欲を密かに満たす条件として申し分ない。人間にとって吸血鬼は邪魔者でしかないだろうが、吸血鬼にとって人間は必要な存在なのだ。情けないことである。
 国土のうち、大半が山地であることも好条件だ。いざという時は人の立ち入らない深山へ逃げ隠れることもできる。
 ひとつだけ問題があるとすれば、海に囲まれた小さな島国であることだ。吸血鬼は流水を自力で越えることはできない。海はもちろん、川も渡ることはできないのだ。陸の少なさは、吸血鬼の行動範囲を狭める。逃げ場が少ないのは、好ましくはないだろう。オーストラリア並の面積までは求めないが、陸が広いに越したことはない。
 しかし、他の条件は悪くない。いや、むしろ悪条件を優に超えるほどの好条件だ。前情報だけで優良だと判断できるのだから、期待できる。実際に生活してみたら予想以上に住み心地がいい、なんてことはよくある話だ。たしか日本には、住めば都、ということわざがあったはずだ。使い方があっているかはわからないが、語感がいい。それにならって、日本で暮らしてみよう。
 私は引っ張り出した書物を書架へ戻し、図書館をあとにした。
次に向かうのは空港だ。日本へ行くにしても、自分の力で空を飛んでは行けない。眼前には地中海、そしてその先には大海原があるからだ。しかし、自力では流水を越えられないが、他力ならその限りではない。飛行機や船、極端に言えば鳥や魚にでも運んでもらえれば、流水を越えることはできる。海に橋を架け、全世界を地続きにしてくれれば面倒事がなくなるのだが、いまのところ人間にそんなことをする理由はないようだ。そんなことをすると、人間のほうに面倒事が増えるのだろう。
 しかし、人間は海に橋は架けなかったが、空に橋を架けた。私がディランと世界を旅していた時の主な交通手段は船だったが、いまは飛行機がある。それも船とは比べ物にならないほど短時間で海を渡ることができるのだ。これを使わない手はない。
しかし、ナポリ・カポディキーノ国際空港へつき、電光掲示板と時刻表を見て、私は目眩を起こしそうになった。どういう見方をすればいいのか、まったく理解できなかったのだ。何ヶ国語かで翻訳したものが表示されてはいるが、読めても何を示しているのか判然としない。私としては、初見でもわかりやすい書き方にしてもらいたかった。
ここで呆然としていても仕方ないので、私は危険を承知で受付に声をかけた。およそ五十年ぶりの人間との会話だった。
「日本へ行きたいのだが、飛行機は出ていないのかい?」
「日本ですね。それなら東京と大阪、どちらを希望されますか?」
 受付の女性は訝しむこともなく、淡々と応対した。
「どっちでもいい。とりあえず、すぐに行きたいんだ」
 と、私が言うと、女性はパソコン(便利なものらしい、ということは知っている)を操作して、空いている便は明日の朝だ、と答えた。
 いくらなんでもこんな危険な地域に一日たりともいられない。滞在できて、せいぜいあと二、三時間だ。ナポリにないなら、もっと大きな都市の空港へ行くべきだろう。日本行の便が残っているかもしれない。イタリアでナポリより大きな都市は、ローマかミラノぐらいだ。
 私は礼を言って、受付から離れた。
 ローマは論外だ。ならばミラノへ行くしかない。ミラノはイタリアの北端にある。ローマを迂回して行く必要があるので、いまから急いで出発しても今晩中にはつかないだろう。だが、それも仕方がない。イタリアの南端から北端へ。まさかイタリアを縦断することになるとは思いもよらなかった。
 しかし、空港の玄関を出る時、ちょうど日本人旅行客と思しきカップルとすれ違った。アジア系の顔は見分けにくいが、言葉は間違いなく日本語だ。荷物の量を見るに、これから帰国するのだろう。
 日本行はもうない、と受付は言っていたが、あれは嘘だったのか。と、私は疑ったが、すぐに自分の思い違いに気づいた。席が空いていないだけで、日本へ飛び立つ飛行機はあるのだ。それならば私には問題ない。尾翼にでもしがみついていればいいのだ。いくら魔性が弱いと言っても吸血鬼の端くれ。人間をはるかに凌駕する力は持ち合わせている。飛行時間はわからないが、もし日の出を見ることになろうとも、機内の薄暗い場所へ侵入して日没を待てばいいのだ。
 私は日本人のカップルがどの飛行機に乗るのか確認し、一度空港を出て、滑走路にある飛行機まで見つからないように飛んだ。尾翼に寝そべり、変身能力で見えにくいように身体を透過させる。この真冬の中のフライトは、凍えるものとなるだろう。

   ◆

 私は日本へやってきた。まさかわずか半日ほどでつくとは、思いもよらなかった。人間の技術は、予想以上に進歩している。大戦の時からその片鱗はあったが、これはうれしい誤算だった。
 また、夜明け前に日本へ到着したのも僥倖だった。機内で潜伏する必要がなく、すぐさま活動できる。私は飛行機の着陸を待たず、尾翼から飛び降りた。重力のままに、地上を目指す。身体全体が凍ってしまっているが、私にはなんの問題にもならない。物質の状態変化もある種、変身と同じようなものだ。凍っていようが焼かれていようが、変身能力を使ってすぐにいつもの状態に戻すことができる。
 ほどよい高さまで降下すると、私は翼を生やして緩やかに滑空し、地上を鳥瞰した。ここは日本のどのあたりだろうか。調べた通り、たしかに山が多い。住むとしたら海側より内陸部のほうがいい。それでいて人口が多すぎず、少なすぎない、地方都市よりも少し規模の小さい土地がいいだろう。
 目を凝らして周囲を見ていると、条件に合いそうな街が見えてきた。大きな川が街の中央に流れているのが少し気になるが、街のはずれには大きな山がある。山の稜線はなだらかに街を三日月状に囲んでいて、麓には山を背に廃墟らしき建物があった。
 私は地上へ降り立ち、外から廃墟を観察した。どうやら病院だったようだ。敷地内は雑草が生い茂り、鉄筋コンクリートの外壁には、ツタがひび割れのように絡んでいる。人の寄りつくような雰囲気ではない。私の住処としては充分だ。肝試しに訪れる人間は少なからずいるだろうが、その時は当たり障りなくやりすごそう。
 私は一旦その病院を離れ、街を目指した。周囲の地理を知るためと、必要なものを集めるためだ。
 時刻は午後八時。街灯の少ない夜道は、私には快適だった。廃墟から街への道のりは畑と工場が多く、この時間になると建物にも明かりはない。しばらく歩くと、住宅街へと様相を変えた。さすがにまだ明かりがある。二十四時間営業の店もところどころにあり、こんな田舎でも眠らない街となっていた。
 とりあえず必要なものは、寝床と日本語で書かれた本、あとは音楽プレーヤーでもあれば、当分文句はない。音楽は暇つぶしだが、本はそれに加えて日本語の勉強にもなる。日本語は憶えているが、古臭いしゃべり方になってしまうと、どうしても違和感はぬぐえない。人間と話す機会は少ないだろうが、用心に越したことはない。書物では発音を学習できないが、そこは問題ない。外国人に完璧な発音が備わっているほうが不自然だろう。
 書店へ行ってみたが、まだ営業中のようだった。店内に少なからず人がいる。できれば人がいない時に盗みたいので、後回しにする。家電屋も営業していたので、音楽プレーヤーも同じだ。と、ここで思い至ったが、あの廃墟には電気は通っているのだろうか? おそらくとまっているだろう。そうなると発電機から用意しなければならないので、音楽を聞くのはまだ先のことになりそうだ。
 次に私が訪れたのは葬儀場だ。営業時間は終わったようで、幸運なことに通夜は行われていなかった。私は目的のものを手に入れる前に、日本の葬儀に使われる祭壇を見に行った。私には馴染みのない祭壇だ。白木でできた、横長の日本家屋のミニチュアにしか私には見えなかった。儀式の時はここに花を飾り、埋め尽くすことで荘厳さは多少増すのだろうが、こんなミニチュアに神が宿っているようには見えなかった。文化の違いだろう。
 葬儀場の倉庫へ入る。目的のものはここにあるはずだ。こまごました仏式の葬儀道具が置かれている中、奥に縦二メートルはあるダンボール箱の山を見つけた。これに間違いない。私は思わず笑みをこぼした。箱を開け、中の梱包材を取り除く。姿を現したのは、桐素材の縦長の箱。蓋の上部には観音開きの扉がついている。蓋と四つの側面には、美しい鳥の彫刻があしらってあった。
 これが日本の棺か、と私は感嘆の吐息を漏らした。シンプルで重厚感のある洋式の棺も悪くはないが、なんとディティールの凝った棺だろう。日本人の細やかな人間性を、この棺は投影していた。
 棺の蓋を開け、中を検める。ここでも私は意表をつかれた。棺の底には、畳が敷いてあったのだ。い草の香りが鼻腔をくすぐる。独特的な香りだが、不思議と落ちついた。こんなところにも日本人の精神が表れているとは、思いもよらなかった。
 私は日本式の棺が気に入り、迷うことなく頂くことにした。持ち運びやすいように棺にベルトをかけ背負い、葬儀場を出た。
 これが私の寝床となる。実際のところ、吸血鬼は棺がなくとも太陽の光さえ届かなければどこでも眠れるのだが、私は古いタイプの吸血鬼だ。どうしても昔の慣習が抜けないでいる。棺の中のほうが、落ちついて眠れるのだ。
 あと必要なのは、採血用の注射器と血を保存する血液パックだが、いまはこの棺の寝心地をすぐにでもたしかめたいので、住処を目指した。
 もう間もなく住宅街を抜けようというころに、私は唐突に目眩を起こした。
 ――いや、これは目眩ではなく、酩酊に似ている。私は耐えようもなく地面に膝をついた。こんな感覚は、千年生きてきて味わったことがない。初めての感覚だったが、これがなんであるかは知っている。殺人欲だ。
 吸血鬼の眷属には備わっていない衝動的欲望なので、初めて体感するのは当たり前だ。時折、ディランが私の前から姿を隠し、全身血まみれになって帰ってきていたのを思い出す。彼もこんな感覚だったのか。
 ――だがそんなことはどうでもいい。私はヴィンセントだ。ディランではない。
 食欲とも性欲とも異なる、抗いようもない衝動が全身を襲う。いまは、このとてつもない快楽へ身を投じるのだ。心臓は早鐘を打ち、呼吸は短く、荒くなる。誰でもいい――誰でもいいから、この手で首を絞め、この爪で肉を裂き、心臓をえぐりだして血を呷りたい……。
 私はおもむろに立ち上がった。ここでうずくまっていても、この渇望は治まらない。苦しむばかりだ。私はゆっくり歩き出した。この足を突き動かすのは、苦しみからの解放のためではない。快楽への期待だ。数分、ともすれば数秒後の狂おしい快楽の未来を夢想して、私は人間を探した。
 コツ、コツ、とヒールがアスファルトを叩く音が聞こえた。女だ、と私は本能的に察した。前方に、仕事帰りらしき女性が歩いていた。
 すぐさま背後から襲い血を浴びてもよかったのだが、それはまるで獣のようであり、知能を持った高等生物としていかがなものか、と躊躇われた。快楽への渇望は限界寸前だ。耐えれば耐えるほど、苦しみは増すばかり。だが、いまはこの苦しみすら快楽へと変わりつつあることに、私は気づかなかった。
 私は飛び上がり、女の目の前に飛び降りた。女は「ひっ」と、息を飲むだけで、硬直してしまった。突然、異国の人間が目の前に現れたら、声も上がらず驚くのも無理はない。それも夜中で、相手は男なのだから当然であろう。このように演出すれば、魔性の弱い私にも、人間を恐怖に陥れることができるのだ。
「こんばんは、今宵はいい夜だ」
 狂いだしそうな欲望を抑え、私は努めて紳士的にふるまった。女は小刻みに震え、あとずさりした。年齢は三十すぎたぐらいか。そろそろ皺が目立ち始める齢だが、彼女の相貌はいまなお美しく、十年も前にはその美貌で男を虜にしたものだろう。疲れた顔をしているが、それがまた女の色香を醸し出していた。
「どうか私の無礼を許してくれ。これほど美しい女性を見かけたら、声をかけずにはいられなかったんだ」
 次の瞬間にも、この女の喉元を掻き切れる。だが、私はもう少し欲望を抑制する快楽に身をゆだねたかった。ほんの些細なきっかけで決壊しそうな理性を私は押しとどめ、女の全身を舐めるように見る。
 ああ、なんとか細い腕だろう。ああ、なんと頼りない脚だろう。ああ――なんとそそる、恐怖のにじみ出た顔だろう。いますぐにでも、この弱く儚い生物を殺してしまいたい。
「君さえよければ、一緒に夜道を散歩しないか?」
 自分がどんな誘い文句をしゃべっているのかすらも、判然としない。頭にあるのはただ、血の詰まった肉を引き裂くことだけだ。
 女はようやく我を取り戻し、震える口で話し始めた。
「急いで家に帰らないといけないので」
 と言って、私の横をすり抜ける。私が引きとめようと腕をつかむと、ついつい力んでしまい、女の腕を握りつぶしてしまった。白い骨が肉を割いて顔を出し、血がしたたり落ちる。やってしまった、もうお楽しみは終わりか、と思ったのも束の間、吹き出す鮮血に理性は決壊した。
 痛みがようやく脳に伝達したらしい。女は少し遅れて叫び声をあげようと、顔をゆがめた。その寸前に、私は女を抱きかかえて夜空に舞い上がった。住宅街で大声をあげられたらさすがに面倒だ。かろうじて残った理性で、私は地上に声が届かない場所へ女をエスコートした。人間にはなかなかできないデートコースだ。女もさぞご満悦だろう。
 女を見ると、急速な上昇による重力と気圧の変化で、気絶してしまっていた。だが、私にはもう関係ない。首筋を裂き、手足を捥ぎ、心臓をえぐり、血を浴び、血を呷り、その生命のすべてを食らった。鮮血の雨と、私の狂気を含んだ歓喜の叫び声が地上に降り注ぐ。その快楽に、私は気絶しそうになっていた。
 初めての衝動と、わずかな時間の夜空の晩餐だったが、私は満足していた。全身は鮮血に彩られ、その臭いに、また酩酊する。普段とはまるで別人だ。
 地上に降りると、女が落としたバッグがあった。彼女の痕跡はできるだけ消さなければならない。これは川にでも流してしまおう。念のため、女の持ち物にあった財布は頂いた。現金や運転免許証などの身分証は役に立つ時があるはずだ。
 少し冷静になって、私はひどい自己嫌悪に陥った。なんの罪もない人間を殺したことに罪悪感はない。こんな目立つ行為に及んだことに対する焦りも特にない。ただ、自身の品格が地の奥底、奈落まで落ちてしまったようで、私はひたすら後悔していた。何が高等生物だ。あれは獣と大差ない所業ではないか。
 肉片は残らず胃袋に入れたが、こぼれた血は地上に落としたままだ。長生きするためにも、こんな危険なことは控えなければならない。いや、できればもう二度と殺人はしたくなかった。――ただ、あの衝動に打ち勝てるとは、到底思えないが……。
 先ほどまでの狂騒が嘘のように、街は静まり返っている。私はふらふら飛行しながら、住処である廃墟へ帰った。
 思えば、私の長い人生において、直接的な殺人は初めてだった。

   ◆

 私は眠りの中にいた。吸血鬼は日の出から日没まで、太陽の出ている間は、基本的に活動を停止している。やはり、この日本式の棺は寝心地がよかった。もうすぐ日没だが、もう少し惰眠を貪ろう。
――どこかで音楽が流れている。スピーカーのノイズ交じりの音楽だ。この旋律は聞いたことがある。そうだ。ディランが持っていたレコードに、この音楽があったはずだ。たしか作曲者はドヴォルザーク。曲名は新世界より、第二楽章『Largo』。物静かな旋律で、どこか郷愁の念を抱かせる。それでいて、夕暮れに似合う音楽だ。
 私の故郷――あまりに古い記憶で、その映像には霞がかかっているが、小さな村と広大な草原が想起された。
 おかしな話だ。私が生まれたのは、千年前のヨーロッパのどこかだ。だが、この曲ができたのは、一八〇〇年の終わりのはず。たかだか百年ちょっと前の曲だ。私の十分の一ぐらいしか生きていない。それなのに、私に千年前の故郷を思い出させるなんて、これを不思議と言わずしてなんと言おう。人間の――いや、音楽の持つ根源的な共通刺激とでも言うのか。過去、現在、未来に関係なく、普遍的な音楽の原理。それがこの曲にはあった。
 思案に耽っていると、音楽はいつの間にか終わっていた。
 なぜ、この日本の辺鄙な土地でラルゴが流れたのだろう。ドヴォルザークの出身はヨーロッパだ。それでいて新世界よりが作曲されたのは、彼がアメリカに在中していたころで、日本とはなんの繋がりもない。それほどに、この曲は有名なのだろうか。それとも、日本の中でもこの街だけに流れる曲なのか。
 よくわからないが、私もこの曲は気に入った。この街のことは、これから『ラルゴの街』と呼ぼう。
 時刻は午後五時を回ったところだった。十二月中旬なので、もう日は落ちている。あたりには薄闇が立ち込めていた。吸血鬼の活動の時間だ。私は足で街を徘徊することにした。空からでは見えないものもあるだろう。
今日は注射器と血液パックを取りに行く予定だったが、気分がすぐれないのでやめにしておこう。昨夜、充分すぎるほど血に浴したし、何より自分のあの姿に再び自己嫌悪に陥っていた。
 なんだったのだ、あれは。まるっきり狂人ではないか。人間がどうなろうと知ったことではないが、あくまでも私は自分の品格を貶めるようなことはしたくなかった。常日頃、そう努めてきたのだが、よりにもよってあんなおぞましいことに私は快楽を見出してしまった。忸怩たる思いで私は口元を押さえた。
……いや、あれは私の意思ではない。吸血鬼の本能とは、一般的な進化を遂げた生物の本能とはまったく別物なのだ。別人――そうだ、あれは別人だ。ある程度、気をつけるだけでいい。必要以上に気にすることはないのだ。
 ラルゴの街は昨夜と違い、喧騒が聞こえていた。車や通行人も多く、家路についているのだろう。私は人の流れに交じって、街を散策した。
 住宅街の真ん中で、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。口の中には、まだ血の臭いが残っている、ような気がする。これをコーヒーで流し込むのもいいかもしれない。コーヒーの臭いを頼りに、私は喫茶店を探した。
 喫茶店はすぐに見つかった。赤レンガでできた、瀟洒な洋風の建物だった。店内に入ると、人がまばらに座っていた。音楽はかけていないようだ。「いらっしゃい」と、老紳士のマスターが声をかけた。私は返事をせず、カウンターの隅に腰を下ろした。
 メニュー表を見て、最初に目に入ったものを注文する。正直なところ、コーヒーには疎い。コーヒー豆の産地は赤道付近に多いため、本場で飲んだことはあまりない。赤道付近は一年を通して日中が長いから、吸血鬼には住みにくい土地なのだ。
 コーヒーがテーブルに出され、舐めるように一口すする。深い味わいと苦みが、口に広がった。よくはわからないが、いい豆を使っているのだろう。メニュー表をいま一度見てみる。外国産のものばかりだ。これだけのものを個人経営の小ぢんまりとした喫茶店が取り揃えられるのだから、全世界の流通は円滑に行われているようだ。
「外人さん、日本語はわかるかね?」
 私が黙々とコーヒーに舌鼓を打っていると、マスターが声をかけた。
「少しなら話せるよ」
 無視してもよかったのだが、人間との会話の勘を取り戻す、いい機会だ。
「ほう。見事なもんだ。いや、突然声をかけてすまない。こんな田舎だと、外人さんは珍しくてね。日本へは何をしに?」
「旅行さ。できれば、永住したいと思っている」
「永住とは、うれしいね。日本人として誇らしいよ。でも、なんでまたこんなところへ? 娯楽なんて少ないぞ」
「静かに人目につかず暮らしたいんだ。人間は好きじゃないからな。それにこの街はいい。ラルゴが流れていたからね」
 すると、来店を知らせる鈴の音が鳴った。マスターは「いらっしゃい」と言って接客についた。注文を受け、コーヒーを客に渡すと、再び会話が始まった。
「この街を気に入ってくれたのはありがたいが、人目につかず、というのは頂けないな。もちろん、その考えを否定したいわけじゃないが、人と接するのはいいことだ。何があったかは知らんが、心を開かなければ、相手も心を開いてくれないよ。人を嫌うかどうかは、心が通じ合う人間を見つけてからでも遅くはないだろう」
 たかだか六十年程度の人間に、人生を説かれた。老婆心からか、あるいはしゃべり好きか。老人がしゃべり好きというのは、世界共通なのだな。足の運びが鈍くなったから代わりに口を動かすのだろう、と私は思った。
「そういう人ならいたよ。つい最近、死んでしまったがね。長いつき合いだった分、心は通じていたかもしれない」
「……そうか。それは失礼した」
 マスターは伏し目がちになった。踏み込みすぎたと反省しているようだった。
「ところで、君の日本語は発音も見事だ。さぞ、勉強したことだろう」
 マスターは努めて明るく会話を再開した。
「何度か日本へ来る機会があって、その時勉強したよ」
「そりゃあいい。そんなに日本が好きなんだな。どれ、私が日本のいいところを教えてあげよう。国内専門だが、私も旅が好きでね」
 彼は失言から来る罪悪感を払拭するように、雪崩の如く話し始めた。しかし、私はすでに彼との会話に飽きていた。何がうれしいのか、彼は自分の旅路を喜々として思い返している。私にとって、旅の始まりとは逃亡のことなのだから、思い返してもあまりいい気分ではない。
 私が、「もうけっこう」と言って席を立つと、マスターは気分を害することもなく会計を始めた。昨夜、手に入れた財布から金を取り出し、彼に渡す。
「そうそう。今朝、このあたりに広範囲にわたって、血の跡が見つかったらしい。たぶん、近所のワルガキが動物でも殺したんだろう。お前さんは体格がいいから狙われないだろうが、夜道には気をつけてな」
「ありがとう」私は笑みを浮かべた。「気をつけるよ」
「元気出しなよ。お前さんは若い。人生これからだ」
 マスターも笑顔を浮かべた。まだ罪を拭い足りないらしい。
「大きなお世話だ、若造」
 レシートを受け取って、店を出る。唖然としたマスターの顔は滑稽だった。
 喫茶店を出て、私は書店へ行き、読みごたえのありそうな本を数冊、盗んだ。それから空を飛び、街を鳥瞰しながら遊泳する。地上には明かりがチラホラ灯っている。静かな夜だった。街の真ん中を流れる大きな川には、半月の輪郭がゆらゆらと反射していた。
遠くの地には光が密集している。大都市があるのだろう。ここは豊かな国、日本だ。その明かりの下に戦火はなく、人間の夢や希望がたゆたっていることだろう。吸血鬼には、この光は眩しすぎる。
「……ディラン。あなたの果たした夢は、なんだったんだ」
 廃墟へ戻り、棺の中に入って、私は眠りについた。

   ◆

 またどこかで、音楽が流れている。新世界よりのラルゴだ。どうやら、この街は午後五時に必ず、この曲が流れるらしい。私は再び、千年前の大草原に思いを馳せていた。だが、棺の中では音がこもっている。私は重い腰を上げ、棺から這い出た。
 昨日、盗み出した本を片手に廃墟の外へ出る。病院の中庭らしきところに、大きな木が一本立っていた。私はその木の幹に背中を預け、本を開いた。道徳と哲学の本だ。だが、音楽はまだ続いている。意識はどうしても、その旋律に向かってしまう。私は目で文字を追えず、曲に耳を傾けていた。
「……あなた、誰?」
 すると、頭上から声をかけられた。見上げると大木の枝の上に少女が立っていた。ちょうど、ラルゴが終わった時に話しかけられたので、彼女もこの曲に聞き入っていたのかもしれない。
彼女の存在には気づいていたが、私は別段、困惑することもなく本に目を戻した。こんな時間に、こんな廃墟の敷地で、それも木に登っている少女は珍しいが、彼女の首元の異物を見ればすべて納得できる。ここでは珍しいことではない。
「ねぇ、シカトしないでよ。誰なの?」
「ホームレスだ」
「嘘ばっかり。外人のホームレスがこんなところにいるなんて、聞いたことない。それに、ホームレスはそんな難しそうな本を読まないでしょ」
「偏見だな。外人のホームレスだっているし、本は読者の貴賤を問わない」
「ふーん。ま、世の中いろんな人がいるからね。そういうことにしてあげる」少女は続けた。「でも、こんな暗いところだと読めないんじゃない?」
「夜目が利く」と、私は本から目を離さず答えた。「読書したいんだ。人の読書の邪魔をしないように習わなかったか?」
「そんなこと習うまでもなく知ってるわよ。でも、夜目が利くって言っても限度があるんじゃない? こんなに暗いのに」
 私はたまらず本を閉じた。
「邪魔をしたくて邪魔しているならやめたほうがいい。この本にもそう書いてあるぞ」
少女に表紙が見えるように本をかざした。彼女は目を凝らしたが、やはり見えなかったようだ。
「先に邪魔したのは、そっちでしょう。人に迷惑をかけたら謝りなさいって、その本に書いてない?」
「書いてあるかもな。だが、そこまでまだ読んでいないから、知ったこっちゃない」
「それ、ずるくない?」少女は口先をとがらせて不満顔になった。「それにしても、いまのあたしを見ても読書を続けるなんて、ちょっとおかしい人なの?」
「たしかに、木登りは卒業しないといけない年齢に見えるな」
「これが見えないフリするのはやめて」
 と言って、少女は自分の首を指さした。彼女の白く細い首には、不釣り合いなロープがかけられている。
「変わったアクセサリーだな」
「なんの冗談よ。それとも、いちおう気を使ってくれてるつもりなのかしら」
「そんなつもりはないさ。首吊りだろ? もっともポピュラーな自殺方法だ」
 絞首など、幾度となく見てきた。飢餓や病魔に苦しんだ村で、死と恐怖の蔓延した戦地で、罪人を裁く処刑場で――。首を吊って死んだ人間の共通点が、その双眸に虚ろな闇が宿っていることも、当然知っている。
「邪魔したつもりはなかった。本当に君に気づかなかったんだ。私のことは気にせず、続けてくれて構わない。ただ、君が死んだあと、死体は隠させてもらうよ。死体が見つかって人が集まるのはごめんだ。せっかく見つけた住処だからな」
「ふーん、。ま、別に心配して欲しかったわけじゃないけどさ。あなた、ほんとにちょっと頭がおかしいのね」
「読書に戻っていいか? 君に謝らないといけないような内容が書いてあったなら、その時に謝罪する。たとえ死体になっていてもね」
「ご自由にどうぞ。じゃあ、あたしは謝るまでここにいるわ」
 それから私は本に意識を移した。あたりはどんどん暗くなり、吐息の白さが目立ってきた。嘘や冗談ではなく、本当に私が読書に集中している姿が信じられないのか、少女はチラチラと私の様子を見てきた。
 季節は身も凍るような冬。人間には厳しい夜になってきた。少女は身体を震わせ、両手で腕をさすっている。
 私は本を閉じて立ち上がった。
「読み終わった?」
 待ちわびたように、少女はすぐに話しかけた。
「いいや。そろそろ出かける。一日中、読書するのは健康に悪い」
「どこへ行くの」
 私は少し思案した。
「街へ買い出しに。日本へ来たばかりで、入用なんだ」
「私も行こうかな。どうせ暇だし」
「やめてくれ。目立ってしょうがない」
 夜に血縁者でもない未成年の女を連れて歩くなんて、警察に通報されたら問答無用でしょっ引かれるだろう。
「このままおとなしく帰るか、さっさと首でも吊ってしまえ」
「いじわる。もういい、帰るわ」
 帰ったところで誰もいないけど、と少女はぽつりとつぶやいた。私はそれを無視して街へ向かった。
 小型の発電機を取って来ようと思ったが、やめておいた。エンジン音がうるさそうで、音楽を聞くには不向きだからだ。地下に置いて、延長コードで地上まで電気を通すことも考えたが、それはあまりに不格好だ。どうせやるなら大型の発電機を地下に設置して、病院全体に配線したほうがスマートだし、便利だろう。手間はかかるが、時間だけはある。気長にやろう。
 私は乾電池式のラジオとテレビ(インターネットのない私には、最大の情報源だ)、それから味のよさそうな酒を盗み出して、家路についた。家路――と、言えるほどの思い入れは、あの廃墟にまだないが、それでも日本式の棺を思うと、恋しい寝床と言って差し支えない。
 廃墟につくと、当然だが人気はなかった。中庭に目をやる。そこにも誰もいない。木の上にも、少女の姿はなかった。ただ、木の枝に縄がぶら下がっているだけだった。――じきに夜が明ける。

   ◆

 ちょうど日が暮れるころ、私はラルゴが流れる前に目を覚ました。いまのところ、眠りを妨げるものはない。
日本には肝試しをする時期があるらしく、それは夏場だそうだ。高温多湿の夏に、納涼として楽しむもののようだ。日本と違い、冬の気候が低温多湿の国だと、立ち込める霧の不気味さから怪談話が冬のイメージがある人間もいる。人間の恐怖は、その土地柄に大きく影響されるのだろう。
 なんにせよ、肝試しのシーズンが夏であるならば、冬の日本は平穏に暮らせそうだ。
 ――あの少女を除けば、だが。
 当たり前のように、少女は木に登って首に縄をかけていた。昨日見た姿の焼き増しだ。
 私はため息をついた。
「本当にこんな廃墟の病院で暮らしているんだ。満足に住む当てもないのに、よく日本に来ようと思ったわね」
 そしてまた、当たり前のように少女は私に話しかけた。
「私は満足だよ。質のいい寝具もあるからな」
「病院のベッドって、寝心地悪くない?」
 ベッドではなく、棺のことを私は言っているのだが、正直に話すこともないだろう。私は少女の話を無視して、本を開いた。彼女も私の心情を察してか、それ以上追及することはなかった。
 しばらく静かな時をすごしていると、どこかのスピーカーからラルゴが流れ始めた。午後五時になったようだ。
「どうしてこんな日本の辺境で、この曲が流れているんだ?」
 ふと気になって、私は少女に問いかけた。退屈そうに枝に座っていた彼女は、少しうれしそうな表情になった。
「どうしてって言われてもなぁ。これって日本の古い曲なんでしょ? だったら日本で流れてもおかしくないじゃない」
「何を言う。この曲――新世界より、第二楽章を作ったのはドヴォルザークだぞ。日本とは遠く離れた地で作られたんだ」
「誰よ、それ。変な名前。この曲って、誰が作ったか知らないけど、『家路』でしょ? 音楽の教科書に載ってたから知ってるわ。けっこう好きで、歌詞も憶えてるの」
 そう言うと、少女は瞳を閉じて、頼んでもいないのに、スピーカーの音に合わせて歌い始めた。

   遠き山に 日は落ちて
   星は空を ちりばめぬ
   きょうのわざを なしおえて
   心軽く やすらえば
   風はすずし この夕べ
   いざや楽し まどいせん
   まどいせん

 私は不覚にも、清涼感のある少女の歌に聞き入っていた。彼女よりも歌のうまい人間はいくらでも見てきた。だが、夕焼けの真っ赤な空を背景にし、木の上で歌う少女は、とても美しく見えた。
 少女がゆっくりとまぶたを開ける。青い瞳だった。私は、初めて彼女の姿をしっかり見たかもしれない。風に波打つ、黒く長い髪。少し釣目の大きな瞳。鼻筋が通っており、それを中心に顔の各部位がバランスよく整っている。幼さから抜け出せないでいるものの、そう遠くない将来、美人と言える面立ちになるだろう。瞳の色もそうだが、顔の造作から日本ではない異国の血が混じっているな、と思った。
 歌い終わった少女は、どこか満足げに笑いかけた。その表情に、自殺志願者の暗い影など微塵たりともなかった。
「そんな歌は知らん」
 私はにべもなく言い捨てた。しかし、歌詞の内容の前半部分から想像するに、やはりこの曲は夕焼けをイメージさせる旋律に間違いはなかったようだ。それでも歌詞は古い日本語のようで、全体の内容は把握できなかった。
「あたしだって、ド……なんとかって人、知らないわよ。でも、日本人だったら誰でも知ってるんじゃないかな、この曲」
 少女は口先をとがらせて反論した。名曲であるがゆえに、日本人が勝手に自国に取り入れて歌詞をつけたのだろう、と私は推測した。
「そうか。日本人にとって、この曲には言葉があるんだな。だが、私には必要ない。この曲はその旋律だけで、私に郷愁の念を抱かせてくれる」
「せっかく歌ってあげたのに……」と、少女は頬を膨らませた。「でも、そんなにこの曲が好きなんだ。わかるなぁ。あたしもこの曲、好きよ」
 少女は少し言葉を切って続けた。
「この曲が終わったら飛び降りようって決めてたのに、目を開いたらあなたがいたんだもん。びっくりしちゃった」
 どうやら昨日の話のようだ。私は本を開いた。
「だから昨日も言ったじゃないか。私のことは気にせず、死んでいい」
 私は読書しながら答えた。本の文字に集中していても、相槌は打てる。こいつにはそれで充分だろう。
「苦しんでる顔なんて人に見せられないでしょう」
「首吊り死体はどれも苦悶の表情が貼りついている。いずれ見られるぞ」
「それは過去の表情でしょ。あたしは現在進行してる顔を見せたくないの」
「だったら私がいない時にすればいい」
「言ったでしょ? 『家路』が終わったと同時がいいの」
「そんなに注文が多いやつは何かと難癖つけて、当分自殺なんてできないな」
「いいじゃない。生まれる時は選べないんだから、死に方くらいわがまま言わせてよ」
 なるほど、そんな考え方もあるか。平和で頭のいい国民性だ。
「私は自分の生活を、君のわがままのためだけに崩すつもりはない」
「いいわよ、それで。偶然、あなたがいない時に実行するわ。生まれるのも偶然で、死ぬのも偶然を待つってわけね」
 私の平穏を脅かす言葉だった。私は暗澹たる思いで、本のページをめくる。
 だが、少女の願いはいずれ叶うだろう。偶然の死か、あるいは私の殺人欲の犠牲者となる、必然の死か。そのどちらかだ。

   ◆

「ねぇ、もう知らない仲じゃないんだし、そろそろ名前くらい教え合ってもいいと思わない? あたしは希美っていうの。あなたは?」
 少女――希美と出会ってから、数日がすぎたころだった。相変わらず彼女はラルゴが流れるころには木の上に登っており、そして私も相変わらず、曲が終わる前には、この荒れた中庭に来ていた。
 希美の勝手な要望に、私は辟易としていた。どう振り返ってみても、知らない仲だ。彼女は一方的に話しかけて、それを私は曖昧に相槌を打っていて、こんなやり取りでは知り合える要素などない。それに、知り合う必要もないのだ。
「ねぇってば! いまさら日本語わかんないフリしてもダメよ」
「……ヴィンセント」
 これ以上騒がれたら、近くを通りがかった人間が来るかもしれない。私は観念して、名前を教えた。
「ふーん、かっこいい名前ね。どういう意味が込められてるの?」
 そう言えば、ディランからもらったこの名前の由来を聞いたことがなかった。
「さぁな。呼びやすさとか、たまたま思いついたか。ひょっとしたら知人の名前を拝借したのかもな」
「名前って大事よ。ちゃんと両親に聞いてみたら」
「両親はとっくに死んだよ。それに、ヴィンセントという名前は親から貰ったものではない。……友人がくれたものだ」
「友達が? 親がつけた名前は?」
「憶えていない。忘れた」
 千年生きた中の、最初の二十年程度の記憶なのだ。いまではその記憶は風化し、ほとんど憶えていない。憶えているのは大草原という私の原風景のみだ。
「なんか複雑なのね」
 よくわかんないけど、と希美はつけ加えた。それなりに気を遣っているらしい。
「あたしの名前はさ」
 希美が語り始めた。私は読書に戻った。
「『運命がふたりを引き裂こうとも、宿した命は私たちの希望だ』って、お母さんが言ってた。お母さん、未婚の母なのよね。駆け落ちしたのか、なんなのかわかんないけど、こんな恥ずかしいこと、真顔で言うんだもん。よっぽどの大恋愛だったんだろうなぁ。でも、あたしが生まれた時には父親はいなくなってたんだから、お笑い草よね。運命ってやつに引き裂かれたのかしら」
 私は本のページをめくった。特別なことなどない。そんな事情、人間にはよくあることだ。
「お母さんは詳しく話してくれなかったけど、あたしの目の色や顔の造りからしてさ、たぶん父親はヴィンセントみたいな外人だったと思うの」
 希美は自然に私の名前を呼んだ。
「私に父親の影を重ねているのなら、お門違いだ」
「わかってる。そんなわけないじゃん。父親の顔も名前も知らないんだから」
 少しだけ彼女の声に悲愴の色が見えた……ような気がする。
「ただ、まったく知らない人だけど、父親はちょっと恨んでる。あたしの親は未婚で片親だし、あたしの見た目はこんなのだし、愛想なんてないから周りからは奇異の目で見られ続けて、当然のように行きつく先は学校でいじめよ」
 自殺志願の理由は、そのあたりにあるのか。思っていた以上に普通の理由だ。しかし、それも当然だ。人間は知的で高等な生物ゆえに、複雑な思考や感情が渦巻き、結果として自殺する。客観的に見れば大したことのない理由かもしれないが、当の本人の中では大きな問題なのだろう。そして自殺志願者に共通するものはひとつしかない。絶望すればいいのだ。皮肉にも、希美の名前の由来とは対義語である。
「愛想がないのは、君の性格だ。父親のせいにするのは忍びない」
「そうね。それはただの八つ当たり」希美は笑った。「でも、無責任な人なんだから、それぐらい、いいでしょ」
「たしかに、その通りだ。しかし、父親としての責任は放棄しているが、ある種、君の父親は君の心の支えになっていたんだろう」
「どういう意味?」
「君の中で、父親は諸悪の根源となっている。身に降りかかる不幸や世の不条理、そのすべての原因が父親の幻影に収束していたのだ。そうすることで、君は心の安寧を無意識に図っていた。君の中で、父親は汚物を入れるゴミ箱だったのさ。さながら災厄を詰め込んだパンドラの箱だ。ついでにその箱の中には、希望も入っているぞ」
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「学校のやつらと戦う意志はないのか? 明らかに敵とわかっていながらむざむざ放置するなど、愚の骨頂だぞ」
「孤軍奮闘しろって? ヴィンセントって、学校がどういうところか知らないの?」
「知らん。だが、ひとりではなく、味方をつければいい」
「そんな人がいたら苦労しないわ。みんな敵よ」
「そうか? 君の容姿なら、男を引き込むことなど容易だろう」
「ふん、誰があんなやつら。あいつら、頭の中はいやらしい妄想ばっかりじゃない。優しく声をかけてくる男子も、あたしを無理やり押し倒して欲望を吐き出したいだけ」
「そのまま身をゆだねればいいんだ」
「馬鹿言わないで。ヴィンセントも男なんだから、男の弱点はさすがにわかるでしょう? 思いっきり蹴り上げてやったわ」
「ひどいことをする」
「先に仕掛けたのはあっちよ」
 希美の語気は強く、憤慨している様が見て取れた。だが、私は彼女の口先が少し震えているのを見逃さなかった。よほど男の情欲がおぞましかったのだろう。
「女の魅了の力は、どの時代においても凄まじいものなんだがな。女の虜になった男は忠実なる下僕だ。ほかの女どもが手を出せないほどの女王になれば、君も追いつめられることはなかったろうに」
「いやよ、そんなの」と、希美はそっぽ向いた。
 潔癖か。いや、そもそも周りを威嚇して虚勢を張り、自己防衛するような弱々しい希美には、その器量はない。王の器とは、プライドではなくエゴなのだ。
 ふと、本のページが進んでいないのに気がついた。何をやっているんだ、私は。人間の、それもこんな小娘の話に気がそれるなんて、どうかしている。
 私は読書に集中した。希美は話し足りなさそうだったが、私の意識が本へ向かっているのに気づき、自重していた。
 しばらく、静かな時が流れた。耳に届くのは、風の囁きと希美が身体をさする音。読書するのに支障はない。月明かりが雲間から覗く。明日は満月になりそうだ。
 満月の夜は吸血鬼にとって、もっともその性質が表出する時間だ。吸血欲と殺人欲――いずれも、私にとっては忌むべき欲望だ。人間といやが応にも関わらなくてはならないのだ。人間への依存は、吸血鬼の欠陥のひとつ。静かにひとりで暮らしたくても、それは叶わぬ夢なのだ。人間と変わらないな、と私は思った。
 私は本をそっと閉じ、立ち上がった。枝の上で器用に眠っているように思えた希美は、私の動く気配を感じ取ると、目ざとく話しかけてきた。
「もう街へ行く時間?」
 私は頷いた。
「じゃ、あたしも帰ろっかな」
「その前にひとつ。君には大変申し訳ないことをした。邪魔してすまない。心から謝罪しよう。だが、以前も言ったように、私は自分の生活リズムを変えるつもりはない」
 読んでいた本には、私の希美に対しての行いについて、謝罪しなければならないような内容が書いてあった。著者が誰なのかは興味ないが、内容からすると、どうもヒューマニストのようだ。不服ではあるが、約束したからには果たさなければならないだろう。
「あ、やっぱり? だから言ったじゃない」
 うれしそうに希美は笑った。
「そんな本を読むまでもなく、みんな知ってることなのよ。ヴィンセントはもっと人としゃべって、礼儀・礼節を勉強すべきよ」
「学校でいじめられるようなやつに言われたくはないな」
「……そう言われると傷つくわ、その通りだけど」
 希美はいやなことを思い出したようで、落ち込んでしまった。感情の起伏が少ない印象があったが、やはり年相応に思春期らしい少女だった。
「ところで、この本には君も謝らないといけないような内容が書いてあったはずだが、憶えているか?」
 と、私が話を蒸し返すと、「うーん」と言いながら、希美はわざとらしく上目遣いになって思い出そうとする仕草をした。からかっているつもりなのだろうが、私は彼女の発言を待った。月が彼女を鮮やかに照らし出す。
「ごめんなさーい」
 舌を出して、希美はいたずらっぽく笑った。

   ◆

 翌日の夕方、私はラルゴが流れる少し前に目を覚ました。私は棺の蓋を開け、病室を見回した。夜空は晴れ渡っているらしい。空はまだ藍色にもかかわらず、強い月の光が窓から差し込み、病室を明るく照らしている。
 今宵は満月。吸血鬼の欲望は、いまのところ湧きあがってはいない。それでも、どことなく気分は高揚していた。
 この世界は陰と陽の気が渦巻いている。女・男、地・天、悪・善、不幸・幸福――――
人間を含めた一般的な生物は、陰と陽、ふたつの気(大小、差はあるが)が混在している。だが、非連続的突発種はどちらか一方の気しか内在していない(厳密に言えば極小の相反する気は存在しているが、些末なことだ)。天使のような、人間に恵を与える非連続的突発種は陽性であるが、私たち吸血鬼は暗闇に生きる種族なので、その性質は陰性だ。そして、同じように太陽は陽性で、月は陰性である。だから悪魔と呼ばれる種族は、陰性の気が最大限に立ち込める満月の夜に、その力を発揮する。だが、私は魔性が弱いので、その影響をそれほど強く受けないようだ。
 考え事をしながら、私は窓辺に近づいた。月は藍色の夜空にきれいな円を描いている。周囲の星々の輝きを打ち消すその光は、起きたばかりの私には少しまぶしい。ラルゴがそろそろ流れる時間だ。中庭へ向かおう。
 中庭についた私がまず、頭に思い浮かべたのは、テルテル坊主だった。日本の風習……なのかはわからないが、明日の晴天を願って吊るす人形だ。ただ、坊主というのは男の子に対する呼び方だ。だとすると、あれはテルテル少女か。
 ラルゴが――その優しくも力強い旋律が音を刻む。日本では『家路』だったか。歌詞はすっかり忘れてしまっていた。
 偶然の死と必然の死――どうやら見えざる運命の糸は前者にかかったらしい。
 希美はいつもの木の枝の上ではなく、枝の下に吊るされていた。枝には樹皮が削り取られた、まだ新しい痕がついている。あそこで足を滑らせたのだろう。
 希美は足をばたつかせて、苦しみもがいている。吊るされて、まだそんなに時間は経っていないようだ。それに加えて足を滑らせた時、咄嗟にロープの輪に指を入れて、完全に首が閉まるのを防いでいた。
 しかしながら、運がいいとは決して言えない。ロープを切断する道具もなければ、ロープを伝って木の枝によじ登る腕力もない。手を抜いてしまえば、すぐにでも楽になるのだが、死の恐怖から踏ん切りがつかないのだろう。
 希美の首は徐々に締まっていく。彼女の体力も限界寸前のようだ。顔は燃えるように赤くなり、涙とも唾液ともわからないものが、顎を伝って地面に落ちていた。これは生き地獄だな、と私は思った。
 私は木のそばに座り、幹に背を預けた。それから持ってきた本のしおりを挟んだページを開き、読書を始める。じたばたと少し騒々しいが、いつもの不毛な会話よりは幾分マシだ。それに彼女との会話はいつ終わるかわからないが、この騒音は我慢していれば、いずれ静まるものだ。
「た……すけて」
 希美が絞り出すように声を漏らしている。残念なことに、こんな状況でも会話をしなければならないようだ。
「よかったじゃないか。君の願いがもうすぐ叶うんだ。邪魔しちゃ悪い」
「……くるし、い」
「死ねば何も感じなくなるさ。ほら、耳に意識を集中しろ。ラルゴが――『家路』がじきに終わる。名曲とともに死ねるのだ。誇りに思うがいい」
 私の声が聞こえているのか、それすらも希美の顔からはうかがえない。ただただ、歯を食いしばり、苦しみに耐えている。しかし、私が助けないと悟ったのか、彼女の足は次第に動きを失い、だらりと重力のままに垂れ下がった。

   いざや楽し まどいせん
   まどいせん

 希美が脱力するとともに、名曲は終わりを告げた。『家路』の最後の歌詞だけは、なぜか耳に残っていた。
 私は本のページをめくりながら、死体をどこへ隠そうか考えていた。
 ――すると、ロープを繋いでいた木の枝が乾いた音を立てて折れた。枯れ木ではないのだが、ここ数日、希美が乗り続けていたのでもろくなっていたのだ。それにとどめを刺す形で、彼女が苦し紛れに暴れまわったのが功を奏したのだろう。
 偶然の死は回避されたのだ。運がよかった、と言っていいのだろうか。
「私は邪魔していないぞ。勝手に木が折れたんだ」
 何を恐れることがあるのか、私は自然と言いわけめいたことを口にしていた。しかし、皮肉とも取られかねない私の軽口に、希美は一切返事をしなかった。会話をいやがっていたものの、返答がないとそれはそれで気になってしまうのが腹立たしい。
 希美のほうを振り返ると、理由は一目瞭然だった。運悪く、と言っていいのだろうか――彼女が落ちた場所には、コンクリート・ブロックがあり、頭に当たってしまったようだ。後頭部からはおびただしい血が出ており、意識は朦朧としている。
 二、三メートルしかない高さだが、よく考えるまでもなく、人間だったら打ちどころによっては死んでしまう。長い時間、酸欠状態にあってこの出血量だ。放っておいたら死ぬのは間違いない。
「願いひとつ叶えるのも大変だな」
 私が呼びかけると、希美は目を少し開いて、魚のように口を動かしていた。
「最期の言葉ぐらい、ちゃんと聞いてやろう」
 あとで体内に残った血液は頂くのだ。少しでも善行して、祟られないようにしよう。
 私は希美の口元に耳を近づけ、か細い声を聞いてやった。
「――死にたくない」
 やはりそれか。人間の――いや、生命の根源的な願いであり、絶対不可避の結末だ。しかし、これはどこかで……?
『死にたくない――』
 希美ではない。誰かの声が私の脳裏に甦る。いつか、どこかで聞いた言葉だ。
「――もっと、生きていたい」
『もっと、生きていたい――』
 希美の声と、誰かの声が重なる。生を欲する祈りが、満月の夜に木霊した。
 希美が瞳から涙を流す。雫は地面に落ちて、吸い込まれてしまった。同時に私の頬にも流れるものを感じた。
 これは、私の声だ。――忘却した千年前の記憶が甦る。これは人間のころの、最後の記憶だ。あの日、私は村の最後の生き残りで、ひとり死にかけていた。そこへ現れたディランにかけた言葉が、希美の言葉と重なっていたのだ。
 ――死にたくない。もっと、生きていたい。
 私は千年前、たしかにそう願った。そしてディランはそれを受け入れ、吸血した。いまでは、なぜ生きるのか、なんのため生きるのか理由がわからないでいる。なぜ、それを願ったのかも……。あの焼け落ちる農園で、彼とともに死んでも悪くはなかったはずだ。
 希美が力なく、宙に手を伸ばす。何かが見えているとも思えない。ただ、人は天に祈るものなのだろう。私は、彼女の小さな手を握った。
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ディラン、あなたは私を眷属にした時、何を思った。私と希美の会話以上に、私たちには会話はなかったはずだ。ただ一言ずつ、言葉を交わしただけだった。どうして、私は彼に命を救われたのだ。
 疑問は尽きない。自分への、ディランへの、そして希美への……。たしかなことは、私は生きていて、少女は死にかけている。
 ――ディー、私にはまだ、何もわからない。だから、あなたの言葉を借りよう。
「生きたいか、人間よ」
 私は希美の耳元で囁いた。彼女は弱々しくうなずいた。
「ならば、私のそばにいてくれ」
 私はそっと、希美の首筋に口をつけ、吸血した。
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