吸血鬼は愛を語る

はつしお衣善

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エピローグ

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 広く、果てしない荒野を歩いている夢を見ていた。乾いた風は容赦なく私の体力を奪い、刻んだ足跡は大地を両断するように長い直線を引いていた。赤い大地は血のようで、灰色の空は鉄のようだ。――先はまだまだある。歩き出した時から、ずっと地平線のままだ。
 私は荒れた地面に足を取られ、膝を屈した。ここが限界なのだろう。私は赤い大地に倒れようとした。その寸前、少し後ろに旧知の友人が立っていることに気づいた。ディランが、私の背中を見守っていたのだ。私は膝をついたまま、身をよじって彼を見つめた。口を動かし、何かを言っているようだった。声が聞こえないほどの距離ではないのだが、まるで聞こえなかった。
 ディランは地平線の彼方を指さした。その方向を見ると、先ほどと変わらない大地が続いているだけだった。彼のほうに向き直る。相変わらず声は聞こえないが、何かを言っていた。
『――――旅は、まだ終わらない』
 口の動きが、そう告げていた。私に意思が伝わったのを確認すると、ディランは頬を緩ませ、うなずいた。私はもう一度、荒野の地平線に目をやった。大地はひび割れ、生命がいるとは思えないほどの悪路だった。
 ディランのほうを振り返ると、彼の姿はもうなくなっていた。残っているのは、私の足跡と途切れた彼の足跡だけであった。
 旅は、まだ終わらない――――。彼の言葉を反芻した。
 私は力を込めて立ち上がり、歩き始めた。ディランの足跡はとまったままだが、私の足跡は地平線の彼方を目指し、再び刻み始めた。

   ◆

 遠くで音楽がなっている。質の悪い音源とスピーカーだったが、その旋律はそんな環境に左右されない珠玉の作品だ。ドヴォルザーク――新世界より、第二楽章『ラルゴ』。その音楽に合わせて、まだ幼さを残す歌声が重なっていた。

   遠き山に 日は落ちて
   星は空を ちりばめぬ
   きょうのわざを なしおえて
   心軽く やすらえば
   風はすずし この夕べ
   いざや楽し まどいせん
   まどいせん

 一日の労をねぎらい、家で疲れを癒す。そんな意味が、この歌詞にはあると彼女は言っていた。それはなんと普遍でありながら、生きとし生けるものにとって特別なことであろうか。
 この曲は夕焼けが似合う。――私は今日も、力の限り生きることはできたのだろうか。
 私は夢うつつのまま目を開けた。視界に入ったものは、夕暮れを切り取ったかのような窓に、薄暗い天井、そしてひとりの少女の姿だった。ノエル――いや、遠野希美だ。『家路』を歌い終わった彼女は満足げに笑い、目蓋を開けた。
「おはよう、ヴィンセント」
 夢の続きなどではない。彼女はたしかにそこにいて、私は生きている。ここは彼女の実家なのだろう。
「いったい、どうして……」
 私には理解不能であった。間違いなく私はロジーナの銀の剣によって腹部を穿孔され、浄化したはずだ。刺された箇所に手を当てると、傷は跡形もない。痛みも苦しみも、そして焼けるような熱さも感じなかった。
「もう、挨拶ぐらいしたらどうなの? まぁ、夕方だからおはようもおかしいけどね」
「あ、ああ。おはよう」
 私は戸惑いながらも挨拶をした。彼女の首筋に目をやると、そこには私がつけた吸血痕はきれいになくなっていた。眷属から解放された証拠だ。――と、そこで思い当たり、私は自分の首筋に手を当てた。私が浄化される寸前に、彼女が口づけをしたところだ。
「これは……吸血痕か?」
「正解。どう? 生まれ変わった気分は」
 吸血鬼が吸血鬼を吸血しても意味はない。眷属が入れ替わることも奪われることもなく、主と眷属の主従関係は主の消滅によってのみ、崩れるのだ。だが、実際に私たちの主従関係は逆転している。
「説明してくれ」
「いいわ。あの女――ロジーナが教えてくれたの。吸血鬼は不死身だけど、エクソシストは吸血鬼を浄化してるという矛盾がある。この矛盾をなくすには、浄化を直接的な死として捉えなければいいのよ」
「浄化が死滅ではないとするなら、いったいなんだ。私はこの目で何人もの同族が浄化され、死滅する様を見てきたんだぞ?」
「吸血鬼は死ななない。死ぬとしたら、それは人間でしょう」
「……人間。ならば、浄化というのは吸血鬼を人間に戻す方法というわけか」
 それならば得心がいくことがいくつかあった。エクソシストが吸血鬼を浄化する際、必ずとどめを刺さないことや、ディランが人間になれたことをロジーナに話した時、態度が急変したこともそうだ。あの時、私はディランが精神的にのみ人間になれたと思って発言したが、ロジーナは浄化の真意を私が突いたのだと勘違いしたのだろう。あの豹変ぶりからして、流布してはならない最高機密だったに違いない。
「そして、人間であるならば吸血鬼化できる、ということか」
 浄化され人間となり、人間として死ぬ前にまた吸血鬼となれば永遠に死滅することはない。エクソシストが過剰なまでに秘密にするのもうなずける。
「さすがヴィンセントね。自慢げに説明できないのが残念だわ」
 彼女に吸血痕がなく、代わりに私にそれがある理由は理解できた。……だが、一番の謎がまだ理解できずにいた。それは、なぜ私を眷属にすることで存命させたのか、ということだ。
「伊達に長く生きていないさ。しかし、このことを知ってはエクソシストも黙ってはいないだろうな。ロジーナが私たちのことを報告すれば、だが」
「彼女はそんなことしないんじゃない? 自ら教えてくれたようなものだし」
「そうだな。だが、用心に越したことはない。これからは――と、すまない。方針を決めるのはご主人様のお役目だったな」
 私は慇懃無礼に言った。
「そんな呼び方しないでよ」彼女はそっぽ向いて言った。
「じゃあ、なんと呼んだらいい?」
「……あたしには、ノエルって名前があるじゃない」
 と、ノエルは表情を見せずに言った。私には、それだけで充分だった。
 私を恨んでいるのか、そしてなぜ私を眷属にしたのか――すべてを理解したわけではないが、もう知る必要はない。彼女も私にそれを言うことはないだろう。だが、忘れるようなこともしないはずだ。互いに意識の中に内包し、時には思い出しながらもこれからともに生きて行こう。
「そうだったな、ノエル。それから、あらかじめ言っておくが、私は年寄りだから従属本能に鈍感で縛られにくい。多少の無礼は許してくれよ」
「えー、つまんないの」ノエルは冗談めかして、ふくれっ面になった。「ま、あたしも大概だからいいけど」
「やれやれ、手を焼きそうな主を持ったものだ」
「あら、不満かしら?」
「そうでもない。長い人生には刺激が必要だ」
「ならいいじゃない」
「たしかにそうだな。――それで、これからどうする?」
「そうねぇ。ふたりっきりってのも寂しいし……」
 と、ノエルは考え込むようにワザとらしく顎に手を置いた。
「犬でも飼おうかしら」
 そう言って、ノエルはいたずらっぽく笑った。
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