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もうひとつの幸福
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大樹の天使討伐から明けた午前。私たちはリディとエルフリーデの家にいた。彼女たちの家は竹林に囲まれた静かな場所に建っている。笹が擦れ合う音と、竹が風で軋む音がなんとも心地いいのだが、いまの暗い気持ちではその音も耳に入らない。私たちは黙って思案し、部屋にこもっていた。
洗濯仕事は、今日はない。きっと明日も明後日も、ずっとこれからないだろう。長年続けていた習慣をやめてしまうと、心も身体も調子が悪くなってしまう。いまの私たちには無心になれることが必要なのかもしれない。
「ただいま」
カナが帰ってきた。彼女の仕事、農業を勤めることが難しい旨を伝えるため、農協の寄合に顔を出してきたのだ。女神様と崇められてしまったため、そんなことする必要もないのだろうが、直接口頭で述べることで彼女なりのけじめをつけたかったらしい。
「おかえり。農協の人たちはなんだって?」
「女神様に我々の仕事をさせるなんて、滅相もありませんって。いやになっちゃうよ、まったくさ。ちょっと前まで、カナちゃん、カナちゃんって対等にしゃべってたのに、いきなり担がれちゃうんだもん」
カナは無理して冗談っぽく答えた。精神干渉するまでもなく予想はできる。おそらく、寄合所は女神が来たことで大混乱となったのだろう。
「あとこれ」
カナは米と野菜を差し出す。
「玄関前にまだたくさんあったよ」
早朝に村人たちが持ってきたのだろう。私たちへの貢ぎ物だ。こんなものがほしくて、あんな扱いをしてほしくて、私たちは戦ったのではない。ただ、みんなに生きていてほしかっただけなのだ。
私たちはわずかに言葉を交わしただけで、すぐに沈黙に戻った。昨日、天使を倒したあとから、私たちは黙ったままだった。みんな考えることが山積みなのだ。私たちが戦う意義や、これからのこと。もう、この村にはいられないかもしれない……そんな予感がよぎる。しかし、私たちはこの村で生まれ、この村で死にたいのだ。
そんなことを食事も摂らずに考えていると、時刻は午後を回っていた。みんな疲れた表情で俯き、それでも考えごとを続けていた。
すると、エルフリーデが物音を立てないよう、おもむろに立ち上がり、部屋から出て行く。みんな一瞬だけ彼女に目をやったが、関心はすぐに自分の心に向いた。
しばらく時間が経っても、エルフリーデは姿を見せない。心配になって部屋を出ると、彼女は調理場でかまどに火を入れ、火吹竹で火を熾していた。調理場には味噌汁とご飯の香りが漂い、野菜の煮つけができていた。みんながお腹を空かせているだろうと、食事の準備をひとりでしていたらしい。
「エルフリーデ、言ってくれれば私たちも手伝ったのに」
私がエルフリーデに声をかけると、彼女はすすのついた顔で笑った。
「ううん、いいの。あたしは考えるのが下手だから、どんなに考えてもいいことなんて思いつかないの。だから、せめてご飯ぐらい作って、みんなに力をつけてもらいたいんだ。あたしが作った料理をみんながおいしいって言って食べてくれるのが、あたしはうれしいから」
精神的に磨耗し、不安に駆られる中、エルフリーデだけがみんなのことを考えていた。
「あんた、夢がまだないとか言ってたけど、いい料理人になれるよ」
カナがエルフリーデの頬のすすを拭った。カナの言う通りだ。エルフリーデは誰よりも友達を想い、誰よりも暖かい。年下だから能力的に劣るのは仕方ない、と思わせない澄んだ心の持ち主なのだ。
「そうだね。ありがとう、エルフリーデ。食事にしようか」
私たちは手際よく配膳し、円卓を囲んだ。暖かい食事を摂っていると、自然と会話が弾み、笑みがこぼれた。それはささやかなものだったが、心は自然と安らいだ。何が起ころうと私たちの関係は変わらない――幾度となくそう思わせてくれる。周りが変わっても、世界の見え方が変わっても、私たちは私たちのままだ。
「みんな、話があるんだ」
明るく会話をする中、私は声を落として口火を切った。みんなは私の様子に居住まいを正し、箸を休めた。和やかな雰囲気を壊すようで気が引けるが、いずれ言わなければならないことだ。
「私たちは、もうこの村にはいられない。だから、この村を出ようと思うの。確証はないけど、ここらを徘徊してた天使は倒したから、しばらくは大丈夫だと思う」
「村を出て、どこへ行くおつもりですか?」
私の唐突の案に、リディは言いあぐねているふたりに代わって質問した。
「ライラ村――アイちゃんがいる村に行きたい。自分勝手だけど、やっぱりアイちゃんが心配なの。それに、最後に届いた手紙に気になることが書いてあって」
手紙にはライラ村の隣村に、天使が現れたことが書いてあった。おそらく、私たちが倒した天使とは別物だ。アイちゃんの周辺に天使がうろついているということになる。この手紙が届いたのはけっこう前のことだが、続報はない。私が返信をしていないから、彼女も手紙を送ってこないのだと願っているが、どちらにせよ一刻の猶予もない。早く彼女の元へ行かなければならない。
「必ずライラ村に天使は現れる」
「待つばかりじゃなくて、こっちから攻め込むってわけね」
カナが好戦的に答えた。
「そういうこと」
みんな、私に賛同してくれているようだ。顔色は明るい。
「ねぇ。もうひとつ提案なんだけど……」
私は続けて話をした。この戦いが終わった先の、私たちの未来の話だ。
「天使を全部倒したら、どこか静かなところに家を建てて、みんなで暮らそう。カナが畑を耕して、エルフリーデが食事を作って、私が衣服を編んで、リディが私たちの体調を管理するの。たぶん、そんなに豊かに暮らせないだろし、世界が崩壊するまでの僅かな時間かもしれないけど、最後に、そんな生活も悪くないんじゃないかなって思って」
みんなは静かにうなずいた。それは私たちが夢見る、幸福の終焉だ。最期のその時まで、ずっと一緒にいたい。のんびりと、安らかに……。そこは生まれ育ったリッカ村でもなければ、大好きな両親や村の人もいない。だけど、それでいい。さみしいけど、それでいいんだ。村人たちは、私たちがいなくなっても変わらず牧歌的に生活するだろう。そこに私たちは、もう入れない。だから、私たちは苦楽を共にした、心休まる大好きな友達と平穏に暮らすのだ。そのまほろばのような桃源郷を、私たちはたしかに共有した。もちろん、そこにはアイちゃんも、そしてユユの魂も一緒だ。
「そうですね。それは……とてもすばらしいです」
リディが悲しく微笑んだ。私が彼女の影差す表情の真意を読み取れずにいると、玄関の戸を叩く音が聞こえてきた。
「もしもし。どなたか」
村人だろうか。あの信心深い瞳を思い出す。できれば、もう村人には会いたくない。カナが誰何すると、彼は旅の吟遊詩人だと答えた。
「吟遊詩人? 吟遊詩人が私たちになんの用ですか?」
「久方ぶりにふる里へ帰ってきたところ、心底驚く奇跡を目の当たりにしたものでして。是非ともお会いしたく、不躾ながら訪ねました。先日の戦い、お見事にございます」
物見遊山に旅を続ける吟遊詩人のことだ。詩のネタにでもすべく、ここへやってきたのだろう。
「申し訳ありませんが、帰っていただけますか。私たちは――え?」
いま彼はなんと言っただろうか。先日の、戦い……?
私は思わず玄関を開けていた。そこには着古したマントを羽織った青年が立っている。
「なんと。遠目にはわかりませんでしたが、年端も行かぬ可憐な少女たちではありませんか。よく戦う決心がついたものです」
「戦いって、どうして? あなたはいったい何者なの?」
新人類は戦いの概念を持ち合わせていないはずだ。それなのに彼は私たちの昨日の行いを戦いだと道破した。それに加えて、彼の口調こそ丁寧ではあるが、私たちを崇拝する意思は感じられない。
「僕は……僕たち吟遊詩人は旧人類の末裔なのです」
言葉にできない衝撃が走る。絶滅したと思っていた旧人類は生き残っていたのだ。
「そう言われてみれば、吟遊詩人さんたちは何かと、旧文明のことをよくお話になられていましたね」
と、リディは言った。たしかにそうだ。満天の星空も、その星の物語も、科学と魔術も、すべて吟遊詩人から伝えられた話だ。それらは聖者の卵で育てられた新人類では知りえない知識であるはずだ。
「よろしければ、中でゆっくり話を窺がいたいのですが」
「いえ、ここでけっこうでございます。行かねばならないところがありますので」
リディの申し出を青年は丁重に断った。
「僕たちは科学文明に惜敗した、魔術文明の子孫なのです」
青年は訥々と話し始めた。熾烈な戦争のあと、わずかに生き残った魔術師の先祖は、生まれてきた新人類を見届けた。その時、無抵抗な新人類を根絶やしにすることも考えたそうだが、とてもそんなことはできなかったのである。何も、無垢な新人類を殺めることが倫理に反するからではない。ほとんどの魔術師の第一義は崩壊する世界の救済である。そんな彼らが、倫理などという枠にはとらわれるはずがないのだ。
では、なぜ新人類を見逃したのか。それは新人類を殺してしまえば、幸福逓増に拍車をかけるからだという。天使の代替になってしまう、と言えばわかりやすいだろう。
「そこで僕たちの先祖はこう考えたそうです。少しでも世界の終焉を先延ばしにするために、残された我々――不幸観測者で常に不幸を感じ続けよう、と」
それは、なんと残酷な結論だろう。すべてを忘れて、幸せに生きることもできたに違いない。それでも、少しでも禍福のバランスを保つために、自ら不幸の沼へと足を踏み入れたのだ。生まれてくる子どもに幸せのなんたるかを教えず、不幸を植えつけることで負の連鎖を続けてきた。親を恨み、新人類を憎み、目に映るすべてのものを不幸だと受け入れる。それでも感情を表に出さずに彼らは耐え忍んできた。
彼らが不幸を感じ続けていてくれたから、私たちは幸せに暮らせてきたのだ。私たちの幸福は、彼ら――魔術師たちの不幸の上で成り立っていた。
「僕たちには魔術がほとんど伝わっていません。新人類に牙を剥かないためです。せいぜい、連絡を取り合うための小さな使い魔を使役する程度です。ですが、いよいよ連絡を取り合える仲間がいなくなりました。どうやら、僕が最後のひとりのようです。その現実に、毎日のように悲観しました。いつも、目に見えない何かを恨んでいました。苦しみ、嘆き、それでも発散するために狂うこともできずにいました」
狂ってしまえばどんなに楽だっただろうと、彼は言葉を漏らした。
以前、別の吟遊詩人がリッカ村を訪れた時、私たちは嬉々として彼らに群がった。吟遊詩人の話は、子どもの私たちだけでなく、大人たちもみんな好きだった。だが、彼らからしたら、私たちは諸悪の根源とも言える存在だ。この世のすべての不幸を背負った彼らは、そんな私たちを前に何を思ったのだろう。
ひょっとしたら、あの言葉のわからなかった歌は、私たち新人類を憎む詩だったのかもしれない。そして鏡に映った彼の姿からは、どのような心が映し出されていたのだろう。私は、どうしてもあの時の彼の表情を思い出せなかった。
「ですが、先日の戦いを見て、肩の荷が下りたような気持ちになりました。先祖が予言した通りです。終焉の間際に生み出される相対神。あなたたちが、相対神となるべく選定された方たちなのでしょう? あなたたちはすべての真実を知り、不幸を感じることができるのでしょう?」
青年は私たちに詰め寄った。私たちは狼狽するばかりで、答えることができなかった。
価値観の反転以降、不幸観測者になってしまったことは事実だが、相対神になるつもりはない。魔術文明は世界の滅亡を回避するために、気の遠くなるような膨大な時間を消費してきた。いまもそうだ。自らを犠牲にして、世界を存続させている。それなのに、私たちは身勝手にもこの世界を終わらせようとしているのだ。そんな残酷なことを彼に告げてしまってもいいものだろうか。
「わかっています。いいのです。天使を倒したことの意味ぐらい、僕にもわかります。運命に反しようというのでしょう。ですが、それは僕にとってはどうでもいいことなのです。こんな世界、消滅させるのならばそうすればいい。醜い世界などに未練はありません。肝要なのは、不幸観測者が僕以外にもいるということなのですから。お聞かせください。あなたたちは、いま不幸を感じられますか?」
私たちは控え目にうなずいた。
「――ああ、なんとすばらしい日だ。ありがとうございます。今日はそれを確認したくて、ここへ訪れたのです。これで旧人類としての役目は終えました。安心してふる里――クジラの腹へ帰り、死ぬことができます」
一方的にそう言うと、青年は踵を返して有無を言わさず歩き出した。想像を絶するほど、辛かったに違いない。彼はいままで、この世界の不幸をひとりで支えていたと思っていたのだ。その責任と、死ぬことすら許されない絶望は計り知れない。だが、先日の私たちを見て、彼の呪いとも言える束縛は解き放たれたのだ。
「待って、何も死ぬことはないわ。いままで不幸な目にばかりあっていたのなら、いまからでも幸せに――」
私が呼びとめると、彼は一瞬だけ恐ろしい表情をして振り向いた。浅はかな言葉だったのかもしれない。
これまでの彼の人生がどのようなものだったのかはわからない。だけど、少なくともこの先――未来は希望に輝いていなくてはならないと思ったのだ。私たちが自らにそう願っているように、彼にも。だが、新人類である私たちが同情を寄せるなど、皮肉であり、おこがましい。
吟遊詩人の形相に驚いてたじろぐと、彼は再び顔を背けた。
「死なせてください。そして、僕の代わりに不幸を観測してください。それが、旧人類が新人類にできる、せめてもの復讐なのですから」
青年は今度こそ振り返らずに歩き出した。
「なんと不思議なことか。幸福の徒は死を望み、不幸の徒もまた、死を望む。禍福の究極的な望みが、同じ死とは」
青年は吟遊詩人然と、歌うように姿を消した。もう誰も、呼びとめるものはいない。あとに残ったのは、不幸という呪いだった。
◆
草木は静かに呼吸をする。虫は陽気に音色を奏でる。泉には優しくさざ波が立つ。闇夜は妖しく息を潜める。月の光は優しく照らし、水面を瞬かせていた。今宵は満月。その明るい光は、心の中も照らすだろう。
毎日のように洗濯に来ていたころが、昨日のことのように思い出される。何かと、非現実的なことが立て続けに起きて、つい忘失してしまうが、ここへ来ると幸せだったあのころが、たしかにあった現実のものとして想起できる。もし、マリアが言ったように、桃源郷を作るのならば、この場所ほど適したところはほかにないかもしれない。ただ、あれを除けば、の話だが……。
リディは祠の前へ移動した。ほかのみんなが寝静まったのを見計らって、ひとりで泉の祠へやってきたのである。目的はもちろん、代弁者との会話だ。
「いらっしゃいますか?」
『わざわざここへ来る必要はない。地続きであれば、私はどこでも発生できる』
リディが声をかけると、間髪を置かずに大蛇が姿を現した。初めて会った時と同じように、祠に絡みついている。
「できれば、みなさんには聞かれたくないのでここへきました。少しばかり、お話をしたいのですが、よろしいですか?」
代弁者は返事をせず、舌先を出して先を促した。
「では早速質問です。天使は幸福過多が生み出した拮抗律の化身、ということでしたね。だとしたら、天使をすべて消滅させた場合、幸福過多を補うために、また新たな天使が生まれるのではないですか?」
『天使の総数は決まっている。増減はしない』
「間違いないのですね? それならば、天使をすべて消滅させた時の幸福過多は誰が補うのですか?」
『人間の手で天使をすべて消滅させることは不可能だ』
「……私たちの戦いに、意味はないと?」
『そうだ。仮に天使を消滅させることができたとしても、それは人類の幸福へそのまま還元される。死してなお、人々に恵みをもたらすのが天使だ』
「どういうことですか?」
『そのままの意味だ』
リディは値踏みするように代弁者を見据えた。しかし、代弁者は口を噤んだままで、それ以上の情報は引き出せそうになかった。
「……納得はできませんが、わかりました。では、もうひとつよろしいですか?」
好きにしろとばかりに、再び舌を出す。
「私たち四人が選ばれた理由はない、と言っていましたね。それはわかりました。では、なぜ四人なのですか?」
相対神となり〝First Star〟を発動するのはたったひとり。だとすれば、最初からひとりだけ選んでいたほうが話は早い。複数人選定されれば迷いは複雑化し、それだけ世界の消滅のリスクも高まる。現に、リディたちは自然的な死を選び、世界の消滅を選択した。完全なる世界を作ることが人類に課せられた使命ならば、有無を言わさずひとりに託せばいい。
『よくぞ気づいた、聡明なるものよ』
相変わらず表情はまったく変わっていないが、リディには代弁者が皮肉めいた笑いを浮かべたように思えた。
『むろん、複数人選定したのには意味がある。幸福に浴し、不幸を知らぬものに調和の取れた世界は生み出せるはずもない。その場しのぎに世界を廻すことは時間の浪費だ。ゆえに複数人を選定し、時間を与えた。怒気、苦悩、悲嘆――与えられた時間で芽生える感情は多岐に渡る。それが複数人であればなお更だ。迷いはより複雑化し、不幸はより根の深いものになる。不幸を体感することは、必ずや新世界への糧となるだろう』
みんなで話し合い、結論を出したことを思い出す。しかし、それすらも代弁者の――あるいはこの運命の手のひらの上のことだったのだ。
「やはり、そういうことですか。そうだとすれば、私たちに与えられたこの魔術の知識。これは天使と戦うために使うものではないのですね。私たちに魔術の知識を与えた本当の目的は――あなたは、なんて残酷なことをさせるのですか!」
リディは思わず語気を荒げた。その目的が指し示す未来の姿が、彼女に怒りと、そして恐怖を植えつける。
『そこまで理解しているか。そうだ。〝First Star〟は他の選定者の死をもって結実する。生き残った最後のひとりに託されるのだ。諸君に与えられた魔術は〝First Star〟の使用者を決するため、選定者同士で戦い合う武器だ』
戦うために磨き上げた魔術の力。これを向けるべきは天使ではなく、すぐ隣にいる友人なのだと、代弁者は道破した。たったひとりだけに託される〝First Star〟を勝ち取るために、愛する友人をこの手で殺さなければならないのだ。そうすることで、新世界の完全性はいっそう高まるのだから、と。
「……私は、みなさんの望みを叶えるために、天使と戦います。これまでしてきたように、これからも。それが私の望みであり、生きる道です」
だが、もし天使を倒せなかったら、その時は――。
『それは果たして、貴殿が望む道か? 他人を尊重する理念をとやかく言うつもりはないが、それは自身の意志を蔑ろにしてまで押し通す理念ではあるまい。自己犠牲は英雄的ではあるが、決して人道的ではない』
「あなたが道徳を説きますか」
『そうではない。私は、貴殿が新世界の相対神を担うに適した素質を持っていると分析したまでだ』
代弁者は、あくまでも機械的に、無感情に言葉を吐いた。
「ふふ、蛇さん。その禁断の果実は受け取れませんね」
リディは蠱惑的に笑い、背を向けた。
「それに、私に素質がある、ですか。ただ、知識を人より多少、持っているだけの私が。本当に何も知らないのですね、あなたは」
リディはみんなが眠る家へ歩き出した。振り返ることはない。代弁者は彼女の後姿を見つめるばかりで何も言わなかった。
「――さようなら、無知全能の相対神さん」
『私は万物の霊長へ使命を伝えるもの。それ以外の何者でもない』
◆
翌日、私たちは空を泳ぐように移動していた。夕日はあらゆるものを赤く染め上げ、影を長く伸ばしている。眼下に広がる草原、初めて見る大海、大空は西と東で赤色と藍色で二分にしていた。上空からの広大な景色は、旧人類にとっては当たり前のものでも、私たちには目を見開くほどの彩りを与えてくれる。上空の風は心地よく、俯瞰した光景は大地の広大さを教えてくれた。
早朝、私たちは村人が起きる前にライラ村に向けて出立した。生まれ育った故郷を出る時、私たちは示し合わせたかのように同時に村を振り返った。私たち四人の心の中に共通して存在している原風景。もしかすると、二度と戻れないかもしれない――私たちは村の風景を心に刻み込んだ。
険しい山を越え、日陰のない広大な平地を歩き通し、密林を抜けなければライラ村へたどりつけない。人間の足では厳しい道のりだ。しかし、馬を使って数日かかる道のりを、私たちは半日で踏破した。強化の魔術で甚大な瞬発力と持久力を得た私たちにとっては、泉へ洗濯に向かう道のりとなんら変わらなかった。それに加えて、エルフリーデの飛行能力もある。これのおかげで回り道をしなければならないような山や谷、幅広い川などは軽く乗り越えられる。もちろん、この移動では先日の天使との戦いのようにエルフリーデの意識を奪って飛行する必要はない。彼女の意思で、私たちは飛んでいるのだ。
日が傾き始めたころ、私たちは大海原を目の当たりにした。内陸で暮らしてきたので、いままで海を見たことがない。始めて見た海はあまりに壮大で神秘的に映った。あの海に向かって、アイちゃんは毎日歌を歌っていたのだろう。
「……あった。あそこ」
なだらかな海岸線へ目を凝らしていると、数艘の船が停泊している港と、小さな漁村が見えてきた。周囲にほかの村は見当たらなかった。あそこがライラ村だ。エルフリーデに指示して、村のはずれに着地する。いきなり空から村の中に降り立っては、天使だなんだとリッカ村の二の舞になってしまうからだ。
ライラ村まで歩いて近づくと、すぐに様子がおかしいことに気がついた。夕飯時だというのに、村に活気がなく、薄ら寒いほど静かなのだ。
「まさか……」
いやな予感は拭えない。私はなりふり構っていられず、強化魔術を使って駆け出した。
ライラ村の看板が見えてきた。ここから見ても村は閑散としている。不思議なことに、馬や鶏といった家畜はいるのだが、人間の姿がまったく見当たらない。みんなどこへ消えてしまったのだろうか。
「どうして誰もいないんだろう……。まさか、もう天使が……」
カナが弱気な声を漏らす。
「そんなはずない! だって、血のあとも死体もないんだから。きっとどこかにいるよ」
私は焦っていた。いつか必ず会えると信じていた人と、会えないかもしれない。その可能性は、いやでも濃度を増してくる。
「ほかの場所を探してみよう。この時間だったら、浜辺で貝を捕ってるか、岬で歌の練習をしてるはずよ」
いままでのアイちゃんの手紙の内容を思い出しながら、私は彼女がいそうな場所を挙げた。村人が誰もいないのに、アイちゃんだけが残っているなんてことあるわけがない。頭ではわかっていても、私は行動せずにいられなかった。
だが、浜辺に彼女の影は伸びていない。岬に彼女の歌声は聞こえない。それでも私は空を飛び、村の周囲を見下ろして彼女の姿を探した。
どこにいるの、アイちゃん。私、我慢できずに会いに来ちゃったよ。どこか遠くで、一緒に暮らそう――。
私はいつまでも空を飛び続けた。あの子はみんなと同じ親友だ。顔も、声も、触れ合ったこともないけれど、文通を通して芽生えたこの気持ちは本物なのだ。一目見れば、すぐにアイちゃんだとわかる。
だから、お願い。姿を見せて――。
(エルフリーデ、今度はあっちに飛ばして)
私は精神干渉でエルフリーデに指示した。ほかの三人は地上で探索している。
(マリアちゃん、もう下ろすね……)
エルフリーデの通信とともに身体が降下を始める。縮小された風景が拡大する。
(待って! まだ全部探してないの。お願い、もう少し探させて)
地面にゆっくり下ろされて、私は膝をついた。みんな悲しそうに目を伏せ、どう声をかけていいかわからないでいる。
「ううん。アイちゃんはもういないんだと思う。これ……。いまさっき、これが落ちてるのを見つけたの」
エルフリーデは後ろめたそうに何かを差し出した。見慣れた便箋。しわくちゃで、ところどころ泥で汚れているが、見間違えるはずがない。これは、アイちゃんの手紙だ。私は彼女から奪い取るように手紙を受け取った。
アイの手紙Ⅳ
お返事も待たずにお手紙を出してごめんね。でも、今回はどうしてもお手紙をしたためようと思います。
マリアちゃんのお手紙届かなかったよ。珍しいね。どうしたのかな? リッカ村に天使様がおいでになられたって聞いたけど、天に導いてくださったわけではないんだよね? 連絡係の人からマリアちゃんはいたけど、手紙を受け取らなかったって聞いたよ。いろいろ忙しくてお手紙を書く暇がないのかな。それなら仕方ないね。優しいマリアちゃんのことだから、手紙を出せなくて気に病んでるかもしれないけど、どうか気にしないで。
本当はゆっくりマリアちゃんのお手紙が来るのを待とうと思ってたんだけど、すごいことが目前に迫ってて、こうして駆け足で筆を走らせてるんだ。このお手紙が最後になるかもしれないから、いてもたってもいられないの。
いま、天使様が私の村においでになられたんだ。
空一面を天使様が覆ってるの。天使様ってこんなに大きなお姿をしてるんだね。なんだか優しく包み込まれてるみたい。こんな光栄なことってないよね。
村の人たちは大興奮で、みんな外に出て天使様にお祈りしてる。私だって興奮が収まらないよ。マリアちゃんもこんな気分だったのかな?
ああ、どうしよう。いつまでも部屋にいないで、そろそろ天使様にお会いしないと失礼だよね。私だけ置いてけぼりにされちゃうかも。
このお手紙と最後に直接マリアちゃんに渡すつもりだったお手紙は、いちおう連絡係のおじさんに渡すつもりだけど、おじさんも天に導かれるかもしれないから、マリアちゃんに届けられるかはわからない。ううん、たぶん届かないと思う。
あの天使様は隣村の人たち全員を導いてくださったんだから、きっとこの村も……。
でも、もし、奇跡的にこのお手紙がマリアちゃんに届いたのなら、私の冥福を祈ってくれるとうれしいな。
いままで、本当にお手紙ありがとう。
同年代の友達がいない私にとって、あなたはかけがえのない存在でした。ひとりで洗濯してる時はあなたのことを考え、ひとりで赤ちゃんのお世話をしてる時はあなたを想い、風が吹けばあなたの声を思い描き、木々が揺らげばあなたの姿を重ね、楽しいことがあればあなたと分かち合い、うれしいことがあればあなたに幸あれと祈りました。
私は、あなたと出会えたことが何より幸せでした。大好きだよ。
親愛なるマリア様へ アイより
その手紙は恋文のようであり、遺書のような、暖かくも枯れた内容だった。私の中で冷たい風が吹雪く。この手紙を書いた時、アイちゃんは幸せだったに違いない。きっと、私の幸福を祈って夭逝したのだ。それならば、私も手紙にあったように、アイちゃんの冥福を祈るべきだ。それが私にできる、最後の……。いや――。
「違う! こんなの、やっぱり間違ってるよ! 私は、あなたに会いたかった。ずっと、一緒にいたかった――」
彼女は今際の際で天使に抱擁され、幸福だったかもしれない。それはおそらく事実であり、不幸であるより間違いなくいいことだ。でもそれは、故人だけの感情である。アイちゃんの死は、彼女自身にとっては満足かもしれないが、私にはとてもじゃないが受け入れられない。死は故人だけで完結しない。故人の死を残された人々が嘆き、偲び、尊ぶことで人の死は完成される。ひとりの死は、決してひとりのものではない。
だからこそ、私は悔しい。アイちゃんはきっと、自身の死を私が喜んでくれると思っていただろう。だが、それはできない。私にはできないんだ。私と彼女の気持ちが、初めて通じ合わなかったのだ。
この手紙が書かれたのはいつのことだろう。もっと早く来ていれば、アイちゃんに会えたのかもしれない。彼女を守れたかもしれない。
以前の価値観を持っていたら、私はなんの疑問も持たずに彼女の死を喜んで受け入れていたのだろう。彼女は死ぬ時、幸福に満たされ、私もまた彼女の死に幸福を感じる。それぞれの主観で見れば、誰もが幸せで、不幸などどこにもない。幸福の死だ。このありようは一見すばらしいものに思える。
しかし、死ぬこととは今生の別れなのだ。もう、二度と会えないのだ。もう二度と、気持ちを分かり合えることはできない。愛する人と、ともにいたいと思う気持ちに、限りはないはずだ。それなのに、愛する人の死を悲しむこともできないなんて、これほどの不幸がどこにあるだろうか。
やはり、死が幸福なものだなんて間違っている。アイちゃんは死にたくないと願うべきで、私は彼女に死なないでと祈るべきだ。それが人間の自然な感情の流れである。人類の幸福を求める本能。それがいつしか捻じ曲がり、歪な幸福観をもってその流れを断ち切った。その結果が、この幸福に満ちた世界だ。だが、この世界にはひとつの幸福が欠如している。それは、不幸を不幸として嘆くことができる幸福だ。
私はアイちゃんの手紙を握り締めて泣きはらした。声は枯れ、涙も枯れるまで彼女の死を悼んだ。この気持ちが彼女への手向けになるのだろうか。それすらもわからず、私はとめどない感情を吐き出していた。
「そうだ……手紙。最後の手紙はどこ?」
文中にあったアイちゃんの最後の手紙。それがどこかにあるはずだ。それを読んだところで、彼女が生き返るわけでも、私の心が晴れるわけでもない。だけど、探さないわけにもいかない。アイちゃんの言葉は、あますことなく私の心にとどめておきたいのだ。それが、彼女の死を受け入れられない私の、せめてもの供養だと思った。
「みんな、もう一通手紙があるはずなの。お願い、もう一度探すのを手伝って」
私は鬼気迫る思いでみんなに懇願した。だが、みんな一様に苦虫を噛み潰したような表情をして面を伏せている。
「マリア、このあたりは私たちが隅々まで探したよ。草むらの奥も、瓦礫の下も。家の中も全部だ」
カナは少し言葉を切った。
「抽斗にあんたの手紙がいっぱい入った家があった。アイちゃんの家だろうね。でも、そこにもなかった。風に流されたんだろう。ここにはもう、最後の手紙はないんだ」
「でも……でも、どこかに必ずあるはず。消えてなくなるはずないもの。だから探そう。探させて、お願いだから」
「砂漠で一粒の砂金を探すようなものです」と、リディは言った。「残念ですが、私たちに手紙を探す時間の余裕はありません。一刻も早く、リッカ村へ戻らなければ」
「そんな……そんなぁ……」
私は悲しみと虚脱感から膝を折った。アイちゃんの最後の言葉がなければ、私たちの文通にピリオドを打つことはできない。胸に押し寄せる彼女とのやりとり。その一つひとつが私の手のひらからこぼれていくのを感じた。掴もうにも掴めない。心は、空白に埋め尽くされつつあった。
私はしばらくその場から動けなかった。みんなは頬を濡らしながらも黙ったままで、私を見守っている。早く立ち直らなくては。でも、身体に思うように力が入らない。自分がこれからどうすればいいのか、わからない。
――すると。
「……みんな、あれ」
みんなが涙を流していると、空を仰いだカナが天を指さした。彼女に促されて、みんな空を見上げる。
夕焼けに染まる、赤い空。そこには、水がめを肩に担いだ巨人が浮かんでいた。巨人は上半身裸の男の姿をしており、腰布をまとっている。皮膚の色は光沢を持った黄土色で、まるで銅像のようだ。
巨人の天使が水がめを傾ける。中から黒く濁った液体が勢いよく流れ出した。あの水がめのどこにそんな容量があるのか、黒い泥は滝のように延々と流れ続けている。
あんな生物、この世に存在するはずもない。間違いなく天使だ。あいつが、アイちゃんを殺したに違いない。あいつが――。
心の空白は、怒りと憎しみに塗り潰された。
私たちは宝石に魔力をそそぎ、魔法衣に変身する。
「エルフリーデ、私たちに翼をちょうだい」
エルフリーデがうなずくや否や、私は半ば強制的に彼女の意識を奪った。眠りについた彼女を抱きかかえる。あいつを一秒でも早くこの世から消滅させなければ、私がどうにかなってしまいそうだ。
黒い泥が土石流のように地を張って私たちに襲いかかる。建物や動物にぶつかっても一切傷つけず、まるで意志を持った生物のように流動していた。泥の中に数え切れないほどの人骨が目に入る。この泥は、地に足つけていなければ生きられない人類だけを殺す生物だ。私たちは空を飛んでそれを回避する。
この夥しい数の人骨の中に、アイちゃんが……。これではもう、探し出して弔うこともできないではないか。
天使のいる高さまで空を飛ぶ。天使の表情はなく、私たちを冷たく見つめていた。
「妙ですね」リディが眉を顰める。「ここらには私たち以外、人はいません」
「それがどうかしたの?」と、カナは質問した。
「私たちが攻撃を仕掛ける前に、あの天使は先制しました。明らかに私たちを狙っているのです。不幸観測者である、私たちを」
どういうことか、理解しかねているカナにリディは説明を続けた。
「つまり、幸福を感じる人が、人類そのものの数が少なくなってきているのです。人類の減少は、そのまま幸福の減少に繋がります。おそらく、幸福の全体量が減りすぎたのでしょう。だから、不幸観測者である私たちの存在を消すことで、幸福の量を相対的に増やそうと私たちを狙っているのです」
新人類の死による幸福感は、あくまで一時的なものだ。死んでしまえば幸福も不幸も感じられない。新人類が死ねば死ぬほど、私たちが生き残れば生き残るほど、禍福の比率は逆転する。だから天使は不幸を取り除くために、新人類から私たち不幸観測者へ標的の優先順位を変えたのだ。
「望むところよ。私たちは、すべての天使を倒すんだから。あっちから来てくれるなら願ってもないわ」
私は天使目がけて突進した。顔面を強烈に殴打したものの、やはり効果は薄い。私の力では、渾身を込めてもびくともしない。それでも、私は攻撃するのをやめるつもりはなかった。倒すためではなく、怒りをぶつけるために。
「リディ、私に武器を」
「あまり無茶はしないでください」
青龍刀を私に投げ渡し、リディは天使の背後へ回り込んで挟み撃ちにした。縦横無尽に飛び回り、岩石を叩き切る勢いで一刀ずつ確実に天使に与えた。だが、鋼のような天使には傷ひとつつかない。やはり、私とリディの攻撃では動きをとめるのが精一杯だ。
「カナ! 大魔術の準備を!」
「それが、ここら一帯あの黒い泥が埋め尽くしてて……。あんまり遠いと避けられるかもしれない」
いつの間にか眼下の村は泥に沈み、大地は黒一色に染められていた。いまだに天使は水がめから黒い泥を吐き出し続けている。カナの魔術を使うには足場が必要だ。空中では踏ん張りが効かない。
周囲を見渡す。すると、運のいいことに黒い泥に浸かっていない丘を見つけた。泥の海から突き出した小高い丘と、天使の距離は三里弱。カナの魔術が音速の三倍以上だとしても、着弾まで約十秒もかかってしまう。……いや、十秒ぐらい、とめてみせる。
「ぎりぎりまで引きとめる。危険だけど、カナ、お願い」
了解すると、カナは丘を目指して飛んでいった。容易ではないが、息がぴったり合う私たちなら、きっとできるはずだ。
「リディ、もっと武器を精製してて。カナの準備ができ次第、死に物狂いでこいつをとめよう」
「わかりました」
あたりに冷気が漂う。空中に展開される無数の武器。その数は私の分も考慮して、以前の倍近くある。リディも状況を察して、相応の覚悟と決意を用意している。
背中にいるエルフリーデをしっかりと背負い直し、私は両手に得物を掴んだ。勝負はカナの魔術が発動してからだ。まだこちらからは仕掛ける必要はない。それでも私は自分を抑えきれずに攻撃を始めた。
ウォーハンマーとメイス。金属のように硬い相手には、刃物で切り裂くより鈍器で破壊したほうが理に適っている。私は怒りに任せて、人間の身長以上に大きい天使の顔面を叩いた。何度も何度も、力の限り。
自分の非力さが恨めしい。天使の顔面には傷ひとつつけることもできず、動きを封じることしかできない。天使はただ私を見つめ、黒い泥を吐き出している。できれば、この手でこいつを倒したい。
いつしか私は攻撃しながら涙を流していた。アイちゃんは、あの黒い泥を被って痛かっただろうか。苦しかっただろうか。それでも、幸せだったのだろうか。意識も情もない、こんな生物に殺されて……。
(いつでもいける。合図を!)
カナからの通信が入る。込み上げた激情がおさまる。いまは感情に流されてはいけない。目の前の敵を倒すんだ。
「リディ!」
(カナ、撃って!)
同時に、私はふたりに呼びかけた。私とリディは天使へ武器を突き立てる。不動の天使。出現した位置から少しも移動していない。もう動きたくても動かせない。これからの十秒が、勝敗を分かつ。なんとしてでも、こいつを……。
――――そう言えば、こいつはなんで攻撃してこないの?
水がめから、黒い泥の流出がとまる。同時に、天使の身体が溶け出し、硬い表情も醜く崩れ、黒い海に吸い込まれるように落ちていく。
(カナ、待――――)
振り返ると遠くで閃光が煌いた。間に合わなかった。カナの大魔術が発動したのだ。
天使に向き直ると、すでに全身は溶け落ち、向こう側が見えていた。対面にいたリディと目が合う。彼女もまた、動揺を隠せないでいた。
呆然と地面を見下ろす。溶けた天使は黒い泥に落ち、吸収されて姿が見えなくなった。
いったい、何が起きたの? 天使は、どこ……?
「マリアさん!」
私が混乱に陥っていると、リディが私を引っ張って移動させた。するとすぐに、私たちがいたところにカナの炎の魔術が通り過ぎた。この世の物質であれば、どんなものでも消滅させる浄化の光。だが、獲物を失った炎は虚しく空を切り、天へ走る。
(天使の姿が見えなくなったけど、どうなった? こっちからじゃ、よくわからなかったんだ)
カナから呼びかけられるも、どう説明すればいいかわからなかった。私が黙って俯いていると、代わりにリディが答える。
「私たちにも、よくわかりません。天使が溶けて消えてしまったとしか……」
黒い大地が波打つ。目を凝らすと、私たちの真下の泥がせり上がっていた。まるで、意志を持った生物のようだ。
(溶けた? 炎で溶けたわけじゃないの?)
「ええ。カナさんの炎が当たる前のことでした」
黒い泥は植物のように天を目指し、伸び始めていた。誘われたのだ、私たちは。あの巨人の銅像はさながら誘蛾灯で、私たちは光にいざなわれた小さな虫。天使の本体は、大地に広がるあの黒い泥だ。
「リディ……逃げなきゃ」
「――え?」
「早く!」
今度は私がリディを引っ張った。だが、いくらなんでも気づくのが遅すぎた。大地が黒に染まった時点で、私たちは天使の手のひらの上にいたのだから。
せり上がった泥が一気に噴出する。大樹の塔以上に太い水柱がそびえる。先端は蛇のように大口を開け、私たちを飲み込んだ。黒い激流にもまれ、方向感覚を失う。なおも黒い泥は噴出を続け、大地に広がったそれを一滴残らずすくい上げた。
上昇する一本の水柱。絡まった紐のように天空を覆いつくし、飛翔する。その姿は天使と同等に天を象徴する幻獣。神格が最も高い幻想生物。大空を舞う龍だ。黒い龍こそが、この天使の本来の姿だった。
私とリディとエルフリーデは、天使の体内に飲み込まれてしまった。呼吸はもちろんできず、この黒い泥も強化された耐久力と自然治癒を上回って身体を溶かしている。急いで脱出しないと、長くは持たない。
天使の体内は常に激流が渦巻いていた。この巨大な天使にとっては血流程度なのだろうが、私たちからすると大洪水の渦中だ。前後不覚に陥り、自分たちがどこにいるのかもわからない。幸いだったのは、エルフリーデをしっかり背負っていて、リディの腕も放していないことだ。
(マリア、リディ。何が起こってるの? 無事なの? 返事して!)
薄れかけた意識の中、カナのかすかな通信が私の意識を呼び戻した。
(なんとか、生きてるよ。天使に飲み込まれたみたい)
(よかった。それで、何か手はある?)
薄目を開けて周囲を見渡す。衣服と人骨が激しく行きかい、黒く濁った体内では自分がどこにいるのかわからない。黒い泥が溶かしているのは人体のみ。魔法衣には影響が及んでいないので、魔術を使う分には問題なさそうだ。だが、私の精神干渉はもちろんのこと、エルフリーデの大気の魔術も体内には気体がないため、効果は見込めない。
(リディの魔術で、この泥を凍らせることはできない?)
(私が操れるのは自分で生み出した水のみです。超低温の氷を精製して泥を凍らせようにも、この激流と巨体の中では流されてしまいます)
(長刀で胴体を切断は?)
(先ほど試しましたが、皮膚まで液体でできているようで、突き通しても意味がありませんでした)
私たちの魔術では脱出できそうにもない。だとすれば、このまま天使を倒す方向へ発想を変えれば……いや、ダメだ。私たち三人では天使を破壊できない。頼みのカナも魔術を発動したばかりで、再使用するには時間がかかる。カナの回復を待っていたら、私たちもこの骸のようになってしまうだろう。
酸欠状態では考えがまとまらない。もっと、違う方法はないだろうか。こいつだけは、絶対倒すんだ。たくさんの人の命と、アイちゃんの仇。例え死んでも、この天使だけは引導を渡してやる。例え、私が死んでも。
――そうだ。いや、でもこれは……。
ひとつの考えが頭をよぎる。しかし、それは私ひとりの問題ではない。
(そうしましょう。きっと、エルフリーデもわかってくれます)
私の諦観の念が伝わったのか、リディは私の考えを察し、優しく語りかけた。リディの覚悟はすでに決まっている。エルフリーデも、こんな酷いことを考えた私を許してくれるだろうか。
(何か思いついたみたいだね。私にできること、ある?)
何も知らないカナが話しかける。彼女にも、謝らなければならない。
(ごめん、カナ。ひとりで逃げて。悔しいけど、私たちはここでお別れだよ)
(はあ? 何言ってんの?)
(カナの魔術じゃないとダメなの。私たちでは、天使を倒せない。だから、逃げて回復して、そしてこいつを倒して。私たちの思いも乗せて。お願い)
おそらく、逃げる必要もない。この天使は私たち三人を消滅させて標的を再び変えるだろう。なぜなら、人類が少なくなったとは言え、不幸観測者を根絶やしにするには時期尚早のはずなのだ。カナひとりを残すことで、不幸の芽は摘まれ、幸福が相対的に増加することになる。当然、いずれ時が来れば、天使は再び生き残った彼女を狙うはずである。しかし、その時には彼女も充分に回復しているだろう。そこで天使を討ってくれれば、私たちの無念も晴らせるのだ。
(カナ……ごめんね。ひとりぼっちにさせて)
きっと、カナなら天使をすべて倒してくれる。彼女は私の想像を遥かに超えた力を持っているのだ。私たちがいなくても、ひとりで戦える。そして天使をすべて倒したら、どうか残りの時間を幸せに生きて。
「ふざけないで! 誰がそんな案に乗るもんか」
精神と肉声で、カナは叫んだ。と、同時に彼女の身体に魔力がたぎる。
(カナさん、待ってください。それ以上の魔術の使用は危険です)
リディが必死に呼びとめる。
「はん。危険なんて、天使と戦うと決めた時からわかってるよ」
(あなたの場合、命に関わるのです。死をもってすれば、カナさんなら私たちを助けられるかもしれません。ですが、残された私たちには天使を倒す術はありません。だから、あなたが生き残るべきなのです)
「リディのお墨付きだ。絶対、助ける。ついでに、その憎たらしい蛇野郎も倒してやるよ。あいつにそっくりでムカついてたんだ」
(ダメ! カナ、お願いだから言うことを聞いて)
私とリディは、言葉の限りカナを説得した。
「ねぇ、ふたりとも。算数の問題。三人が死んでひとりが生き残るのと、ひとりが死んで三人が生き残るの、どっちが多く生き残るでしょう?」
(人の命は数ではありません! 心の問題です!)
「さすがリディ。正解。そう、心の問題なんだ。どっちがより多く生存できるか、とか、誰が生き残れば合理的か、じゃない。これは私の心が決めたことだ。だから、あんたたちを絶対に死なせはしない」
(カナさん……)
カナが天使を睨みつける。彼女の覚悟は本物だ。私たちには、もう彼女をとめることはできなかった。
「マリア、エルフリーデと私の回線を切って。その子まで巻き込んじゃう」
カナの死は、精神の繋がったエルフリーデにまで影響を及ぼす。私は逡巡の末、言われた通りふたりの精神回線を切った。その時、黒い泥の激流の最中、エルフリーデが涙を流したように見えた。
「リディ、三人がどこにいるかわからないから、目印として長柄の武器を体外まで突き出してくれない?」
(……わかりました。タイミングはカナさんに任せます)
「ふたりとも、ありがとう。おっと、エルフリーデもね」
こんな時にカナはわざと冗談をこぼした。その心境は、私には痛いほど流れてきている。
――天使が空高く舞い上がる。役目を終えたのか、危険を察したのか、この場を離れようとしていた。
「どこ行くつもり? 逃がしはしないよ。私の友達を返してもらおうか」
万華鏡の魔力炉は焦げつき、得られる効果は激減している。だが、使えないことはない。この万華鏡は、少ない魔力で膨大な魔力を得られることが、何よりのメリットだ。いまのくすんだ鏡では満足に光を反射できない。倍率が下がった状態だ。
しかし、倍率は一以下ではない。わずかながらではあるが、万華鏡は機能しているのだ。だとすれば、簡単なことだ。少ない魔力では利益が小さいならば、大量の魔力であれば利益は大きい。本来、流れている魔力量を増やせばいいのだ。
岩清水のようにしか流れない無色の力。これでは、いかに過不足なく魔力に変換しようと足りない。ならば魔力路を決壊させ、洪水を起こす。魔力路の修復は不可能。壊れた蛇口は延々と力を流し続け、魔力炉と魔力伝導体は焼き切れるだろう。一度限りの大技だ。こんな芸当、とても真似はできない。命を賭すことではなく、魔術のセンスが、だ。形而上の存在である魔力路を決壊させるなど、やろうと思ってできることではないのだ。カナの異常さは魔力炉だけではなかった。もし、生まれた時代と環境が違えば、カナは稀代の魔術師となったであろう。あるいは、世界滅亡の回避も……。
決壊する魔力路。膨大な無色の力。あふれ出る魔力の奔流。
燃える、たぎる、迸る――。
そのあまりの光に、すすけた魔力炉は再び輝きを取り戻した。美しく返り咲く、万華鏡の花びら。だが、魔力路と魔力炉は崩壊しかけている。精神体である形而上器官の崩壊は、そのまま肉体の崩壊へ繋がる。カナの身体もまた、限界に近づいていた。
ごう、と炎を纏う魔法衣。魔力絶縁体である肉体にまで無理やり魔力を流し、発火している。魔方陣は展開しているが、ルーンの印章は展開していない。すべての魔力を身体に留め、まずは仲間を救出するのだ。
「リディ、どこにいる!」
(こちらに!)
カナが叫ぶと、リディは氷の槍を精製し、天使の体外へ穿つ。
「見つけた」
そうつぶやくと、カナは自身の熱で発生した上昇気流を利用して高く跳躍した。四肢から炎が噴射し、速度と方向を調整する。瞬く間に彼女は私たちの元へたどりついた。
「ちょっと熱いけど、我慢してね」
――――胴体を一蹴。高温の足から繰り出された蹴りは、天使の身体を蒸発させながら両断した。体外へ排出された私たちは地面へ落下する。
「悪いけど、着地は任せた。いまみんなを触っちゃうと、火傷じゃすまないからね」
恥ずかしそうに、カナは頬を掻いた。
「ま、待って。もう充分よ。魔力を抑えて、治療しよう」
窒息しかけていた私たちはむさぼるように、必死に呼吸しながらカナを呼びとめた。だが、彼女は悲しげに首を振った。意識は朦朧とし、うまく空を飛べない。できることなら、彼女を力ずくにでも引きとめたかった。
「無理だよ。だって、もう、足が崩れちゃってるもん」
足だけではない。身体の内部の重要な器官も、すでに崩壊している。カナの意識は、ほとんど気力で保っているようなものだ。
「いやだ! カナ、待って。待ってよ」
子どものように私は泣きじゃくった。アイちゃんに続いてカナまでも……。もう誰も、大切な人を失いたくない。
「ごめんね。私のわがままで迷惑かけちゃって。あーあ。これじゃあ、ユユに偉そうなこと言えないなぁ」
捕獲した獲物を失った天使がみたび標的を変える。カナに向かって、その大きな口を開けた。彼女は抵抗することもなく、龍に嚥下される。体内がどんなに黒く濁っていようが、彼女の炎の光は私たちまで届いていた。
(マリア、リディ、エルフリーデ――――)
カナの崩壊は脳にまで及んでいるが、最期の思考が私たちに伝わる。そのほとんどはノイズのようで、読み取れたのはわずかだ。
(私、怖いよ。死ぬのが、怖い)
それは生命の原初的な想い。生まれた時から有する恐怖だった。
――瞬間、圧縮された魔力が放出した。急速に膨張する光。大空を占めつくす炎。黒龍の天使はもがきながら消滅する。あれはまさしく猛り燃える恒星――太陽そのものだ。カナの命の炎は天使をすべて飲み込み、赤い夕焼けの空を真っ白に染めた。
私たちは地上へ落とされ、力なく横臥した。節々は痛むが、命に別状はない。エルフリーデも意識を取り戻し、空を仰いでいる。
煌々と照りつける、カナの太陽。炎は彼女の魂で、光は彼女の心。
私たちは、いつまでもカナを見つめていた。太陽が沈み、光が消えるその時まで。いつまでも、ずっと。
洗濯仕事は、今日はない。きっと明日も明後日も、ずっとこれからないだろう。長年続けていた習慣をやめてしまうと、心も身体も調子が悪くなってしまう。いまの私たちには無心になれることが必要なのかもしれない。
「ただいま」
カナが帰ってきた。彼女の仕事、農業を勤めることが難しい旨を伝えるため、農協の寄合に顔を出してきたのだ。女神様と崇められてしまったため、そんなことする必要もないのだろうが、直接口頭で述べることで彼女なりのけじめをつけたかったらしい。
「おかえり。農協の人たちはなんだって?」
「女神様に我々の仕事をさせるなんて、滅相もありませんって。いやになっちゃうよ、まったくさ。ちょっと前まで、カナちゃん、カナちゃんって対等にしゃべってたのに、いきなり担がれちゃうんだもん」
カナは無理して冗談っぽく答えた。精神干渉するまでもなく予想はできる。おそらく、寄合所は女神が来たことで大混乱となったのだろう。
「あとこれ」
カナは米と野菜を差し出す。
「玄関前にまだたくさんあったよ」
早朝に村人たちが持ってきたのだろう。私たちへの貢ぎ物だ。こんなものがほしくて、あんな扱いをしてほしくて、私たちは戦ったのではない。ただ、みんなに生きていてほしかっただけなのだ。
私たちはわずかに言葉を交わしただけで、すぐに沈黙に戻った。昨日、天使を倒したあとから、私たちは黙ったままだった。みんな考えることが山積みなのだ。私たちが戦う意義や、これからのこと。もう、この村にはいられないかもしれない……そんな予感がよぎる。しかし、私たちはこの村で生まれ、この村で死にたいのだ。
そんなことを食事も摂らずに考えていると、時刻は午後を回っていた。みんな疲れた表情で俯き、それでも考えごとを続けていた。
すると、エルフリーデが物音を立てないよう、おもむろに立ち上がり、部屋から出て行く。みんな一瞬だけ彼女に目をやったが、関心はすぐに自分の心に向いた。
しばらく時間が経っても、エルフリーデは姿を見せない。心配になって部屋を出ると、彼女は調理場でかまどに火を入れ、火吹竹で火を熾していた。調理場には味噌汁とご飯の香りが漂い、野菜の煮つけができていた。みんながお腹を空かせているだろうと、食事の準備をひとりでしていたらしい。
「エルフリーデ、言ってくれれば私たちも手伝ったのに」
私がエルフリーデに声をかけると、彼女はすすのついた顔で笑った。
「ううん、いいの。あたしは考えるのが下手だから、どんなに考えてもいいことなんて思いつかないの。だから、せめてご飯ぐらい作って、みんなに力をつけてもらいたいんだ。あたしが作った料理をみんながおいしいって言って食べてくれるのが、あたしはうれしいから」
精神的に磨耗し、不安に駆られる中、エルフリーデだけがみんなのことを考えていた。
「あんた、夢がまだないとか言ってたけど、いい料理人になれるよ」
カナがエルフリーデの頬のすすを拭った。カナの言う通りだ。エルフリーデは誰よりも友達を想い、誰よりも暖かい。年下だから能力的に劣るのは仕方ない、と思わせない澄んだ心の持ち主なのだ。
「そうだね。ありがとう、エルフリーデ。食事にしようか」
私たちは手際よく配膳し、円卓を囲んだ。暖かい食事を摂っていると、自然と会話が弾み、笑みがこぼれた。それはささやかなものだったが、心は自然と安らいだ。何が起ころうと私たちの関係は変わらない――幾度となくそう思わせてくれる。周りが変わっても、世界の見え方が変わっても、私たちは私たちのままだ。
「みんな、話があるんだ」
明るく会話をする中、私は声を落として口火を切った。みんなは私の様子に居住まいを正し、箸を休めた。和やかな雰囲気を壊すようで気が引けるが、いずれ言わなければならないことだ。
「私たちは、もうこの村にはいられない。だから、この村を出ようと思うの。確証はないけど、ここらを徘徊してた天使は倒したから、しばらくは大丈夫だと思う」
「村を出て、どこへ行くおつもりですか?」
私の唐突の案に、リディは言いあぐねているふたりに代わって質問した。
「ライラ村――アイちゃんがいる村に行きたい。自分勝手だけど、やっぱりアイちゃんが心配なの。それに、最後に届いた手紙に気になることが書いてあって」
手紙にはライラ村の隣村に、天使が現れたことが書いてあった。おそらく、私たちが倒した天使とは別物だ。アイちゃんの周辺に天使がうろついているということになる。この手紙が届いたのはけっこう前のことだが、続報はない。私が返信をしていないから、彼女も手紙を送ってこないのだと願っているが、どちらにせよ一刻の猶予もない。早く彼女の元へ行かなければならない。
「必ずライラ村に天使は現れる」
「待つばかりじゃなくて、こっちから攻め込むってわけね」
カナが好戦的に答えた。
「そういうこと」
みんな、私に賛同してくれているようだ。顔色は明るい。
「ねぇ。もうひとつ提案なんだけど……」
私は続けて話をした。この戦いが終わった先の、私たちの未来の話だ。
「天使を全部倒したら、どこか静かなところに家を建てて、みんなで暮らそう。カナが畑を耕して、エルフリーデが食事を作って、私が衣服を編んで、リディが私たちの体調を管理するの。たぶん、そんなに豊かに暮らせないだろし、世界が崩壊するまでの僅かな時間かもしれないけど、最後に、そんな生活も悪くないんじゃないかなって思って」
みんなは静かにうなずいた。それは私たちが夢見る、幸福の終焉だ。最期のその時まで、ずっと一緒にいたい。のんびりと、安らかに……。そこは生まれ育ったリッカ村でもなければ、大好きな両親や村の人もいない。だけど、それでいい。さみしいけど、それでいいんだ。村人たちは、私たちがいなくなっても変わらず牧歌的に生活するだろう。そこに私たちは、もう入れない。だから、私たちは苦楽を共にした、心休まる大好きな友達と平穏に暮らすのだ。そのまほろばのような桃源郷を、私たちはたしかに共有した。もちろん、そこにはアイちゃんも、そしてユユの魂も一緒だ。
「そうですね。それは……とてもすばらしいです」
リディが悲しく微笑んだ。私が彼女の影差す表情の真意を読み取れずにいると、玄関の戸を叩く音が聞こえてきた。
「もしもし。どなたか」
村人だろうか。あの信心深い瞳を思い出す。できれば、もう村人には会いたくない。カナが誰何すると、彼は旅の吟遊詩人だと答えた。
「吟遊詩人? 吟遊詩人が私たちになんの用ですか?」
「久方ぶりにふる里へ帰ってきたところ、心底驚く奇跡を目の当たりにしたものでして。是非ともお会いしたく、不躾ながら訪ねました。先日の戦い、お見事にございます」
物見遊山に旅を続ける吟遊詩人のことだ。詩のネタにでもすべく、ここへやってきたのだろう。
「申し訳ありませんが、帰っていただけますか。私たちは――え?」
いま彼はなんと言っただろうか。先日の、戦い……?
私は思わず玄関を開けていた。そこには着古したマントを羽織った青年が立っている。
「なんと。遠目にはわかりませんでしたが、年端も行かぬ可憐な少女たちではありませんか。よく戦う決心がついたものです」
「戦いって、どうして? あなたはいったい何者なの?」
新人類は戦いの概念を持ち合わせていないはずだ。それなのに彼は私たちの昨日の行いを戦いだと道破した。それに加えて、彼の口調こそ丁寧ではあるが、私たちを崇拝する意思は感じられない。
「僕は……僕たち吟遊詩人は旧人類の末裔なのです」
言葉にできない衝撃が走る。絶滅したと思っていた旧人類は生き残っていたのだ。
「そう言われてみれば、吟遊詩人さんたちは何かと、旧文明のことをよくお話になられていましたね」
と、リディは言った。たしかにそうだ。満天の星空も、その星の物語も、科学と魔術も、すべて吟遊詩人から伝えられた話だ。それらは聖者の卵で育てられた新人類では知りえない知識であるはずだ。
「よろしければ、中でゆっくり話を窺がいたいのですが」
「いえ、ここでけっこうでございます。行かねばならないところがありますので」
リディの申し出を青年は丁重に断った。
「僕たちは科学文明に惜敗した、魔術文明の子孫なのです」
青年は訥々と話し始めた。熾烈な戦争のあと、わずかに生き残った魔術師の先祖は、生まれてきた新人類を見届けた。その時、無抵抗な新人類を根絶やしにすることも考えたそうだが、とてもそんなことはできなかったのである。何も、無垢な新人類を殺めることが倫理に反するからではない。ほとんどの魔術師の第一義は崩壊する世界の救済である。そんな彼らが、倫理などという枠にはとらわれるはずがないのだ。
では、なぜ新人類を見逃したのか。それは新人類を殺してしまえば、幸福逓増に拍車をかけるからだという。天使の代替になってしまう、と言えばわかりやすいだろう。
「そこで僕たちの先祖はこう考えたそうです。少しでも世界の終焉を先延ばしにするために、残された我々――不幸観測者で常に不幸を感じ続けよう、と」
それは、なんと残酷な結論だろう。すべてを忘れて、幸せに生きることもできたに違いない。それでも、少しでも禍福のバランスを保つために、自ら不幸の沼へと足を踏み入れたのだ。生まれてくる子どもに幸せのなんたるかを教えず、不幸を植えつけることで負の連鎖を続けてきた。親を恨み、新人類を憎み、目に映るすべてのものを不幸だと受け入れる。それでも感情を表に出さずに彼らは耐え忍んできた。
彼らが不幸を感じ続けていてくれたから、私たちは幸せに暮らせてきたのだ。私たちの幸福は、彼ら――魔術師たちの不幸の上で成り立っていた。
「僕たちには魔術がほとんど伝わっていません。新人類に牙を剥かないためです。せいぜい、連絡を取り合うための小さな使い魔を使役する程度です。ですが、いよいよ連絡を取り合える仲間がいなくなりました。どうやら、僕が最後のひとりのようです。その現実に、毎日のように悲観しました。いつも、目に見えない何かを恨んでいました。苦しみ、嘆き、それでも発散するために狂うこともできずにいました」
狂ってしまえばどんなに楽だっただろうと、彼は言葉を漏らした。
以前、別の吟遊詩人がリッカ村を訪れた時、私たちは嬉々として彼らに群がった。吟遊詩人の話は、子どもの私たちだけでなく、大人たちもみんな好きだった。だが、彼らからしたら、私たちは諸悪の根源とも言える存在だ。この世のすべての不幸を背負った彼らは、そんな私たちを前に何を思ったのだろう。
ひょっとしたら、あの言葉のわからなかった歌は、私たち新人類を憎む詩だったのかもしれない。そして鏡に映った彼の姿からは、どのような心が映し出されていたのだろう。私は、どうしてもあの時の彼の表情を思い出せなかった。
「ですが、先日の戦いを見て、肩の荷が下りたような気持ちになりました。先祖が予言した通りです。終焉の間際に生み出される相対神。あなたたちが、相対神となるべく選定された方たちなのでしょう? あなたたちはすべての真実を知り、不幸を感じることができるのでしょう?」
青年は私たちに詰め寄った。私たちは狼狽するばかりで、答えることができなかった。
価値観の反転以降、不幸観測者になってしまったことは事実だが、相対神になるつもりはない。魔術文明は世界の滅亡を回避するために、気の遠くなるような膨大な時間を消費してきた。いまもそうだ。自らを犠牲にして、世界を存続させている。それなのに、私たちは身勝手にもこの世界を終わらせようとしているのだ。そんな残酷なことを彼に告げてしまってもいいものだろうか。
「わかっています。いいのです。天使を倒したことの意味ぐらい、僕にもわかります。運命に反しようというのでしょう。ですが、それは僕にとってはどうでもいいことなのです。こんな世界、消滅させるのならばそうすればいい。醜い世界などに未練はありません。肝要なのは、不幸観測者が僕以外にもいるということなのですから。お聞かせください。あなたたちは、いま不幸を感じられますか?」
私たちは控え目にうなずいた。
「――ああ、なんとすばらしい日だ。ありがとうございます。今日はそれを確認したくて、ここへ訪れたのです。これで旧人類としての役目は終えました。安心してふる里――クジラの腹へ帰り、死ぬことができます」
一方的にそう言うと、青年は踵を返して有無を言わさず歩き出した。想像を絶するほど、辛かったに違いない。彼はいままで、この世界の不幸をひとりで支えていたと思っていたのだ。その責任と、死ぬことすら許されない絶望は計り知れない。だが、先日の私たちを見て、彼の呪いとも言える束縛は解き放たれたのだ。
「待って、何も死ぬことはないわ。いままで不幸な目にばかりあっていたのなら、いまからでも幸せに――」
私が呼びとめると、彼は一瞬だけ恐ろしい表情をして振り向いた。浅はかな言葉だったのかもしれない。
これまでの彼の人生がどのようなものだったのかはわからない。だけど、少なくともこの先――未来は希望に輝いていなくてはならないと思ったのだ。私たちが自らにそう願っているように、彼にも。だが、新人類である私たちが同情を寄せるなど、皮肉であり、おこがましい。
吟遊詩人の形相に驚いてたじろぐと、彼は再び顔を背けた。
「死なせてください。そして、僕の代わりに不幸を観測してください。それが、旧人類が新人類にできる、せめてもの復讐なのですから」
青年は今度こそ振り返らずに歩き出した。
「なんと不思議なことか。幸福の徒は死を望み、不幸の徒もまた、死を望む。禍福の究極的な望みが、同じ死とは」
青年は吟遊詩人然と、歌うように姿を消した。もう誰も、呼びとめるものはいない。あとに残ったのは、不幸という呪いだった。
◆
草木は静かに呼吸をする。虫は陽気に音色を奏でる。泉には優しくさざ波が立つ。闇夜は妖しく息を潜める。月の光は優しく照らし、水面を瞬かせていた。今宵は満月。その明るい光は、心の中も照らすだろう。
毎日のように洗濯に来ていたころが、昨日のことのように思い出される。何かと、非現実的なことが立て続けに起きて、つい忘失してしまうが、ここへ来ると幸せだったあのころが、たしかにあった現実のものとして想起できる。もし、マリアが言ったように、桃源郷を作るのならば、この場所ほど適したところはほかにないかもしれない。ただ、あれを除けば、の話だが……。
リディは祠の前へ移動した。ほかのみんなが寝静まったのを見計らって、ひとりで泉の祠へやってきたのである。目的はもちろん、代弁者との会話だ。
「いらっしゃいますか?」
『わざわざここへ来る必要はない。地続きであれば、私はどこでも発生できる』
リディが声をかけると、間髪を置かずに大蛇が姿を現した。初めて会った時と同じように、祠に絡みついている。
「できれば、みなさんには聞かれたくないのでここへきました。少しばかり、お話をしたいのですが、よろしいですか?」
代弁者は返事をせず、舌先を出して先を促した。
「では早速質問です。天使は幸福過多が生み出した拮抗律の化身、ということでしたね。だとしたら、天使をすべて消滅させた場合、幸福過多を補うために、また新たな天使が生まれるのではないですか?」
『天使の総数は決まっている。増減はしない』
「間違いないのですね? それならば、天使をすべて消滅させた時の幸福過多は誰が補うのですか?」
『人間の手で天使をすべて消滅させることは不可能だ』
「……私たちの戦いに、意味はないと?」
『そうだ。仮に天使を消滅させることができたとしても、それは人類の幸福へそのまま還元される。死してなお、人々に恵みをもたらすのが天使だ』
「どういうことですか?」
『そのままの意味だ』
リディは値踏みするように代弁者を見据えた。しかし、代弁者は口を噤んだままで、それ以上の情報は引き出せそうになかった。
「……納得はできませんが、わかりました。では、もうひとつよろしいですか?」
好きにしろとばかりに、再び舌を出す。
「私たち四人が選ばれた理由はない、と言っていましたね。それはわかりました。では、なぜ四人なのですか?」
相対神となり〝First Star〟を発動するのはたったひとり。だとすれば、最初からひとりだけ選んでいたほうが話は早い。複数人選定されれば迷いは複雑化し、それだけ世界の消滅のリスクも高まる。現に、リディたちは自然的な死を選び、世界の消滅を選択した。完全なる世界を作ることが人類に課せられた使命ならば、有無を言わさずひとりに託せばいい。
『よくぞ気づいた、聡明なるものよ』
相変わらず表情はまったく変わっていないが、リディには代弁者が皮肉めいた笑いを浮かべたように思えた。
『むろん、複数人選定したのには意味がある。幸福に浴し、不幸を知らぬものに調和の取れた世界は生み出せるはずもない。その場しのぎに世界を廻すことは時間の浪費だ。ゆえに複数人を選定し、時間を与えた。怒気、苦悩、悲嘆――与えられた時間で芽生える感情は多岐に渡る。それが複数人であればなお更だ。迷いはより複雑化し、不幸はより根の深いものになる。不幸を体感することは、必ずや新世界への糧となるだろう』
みんなで話し合い、結論を出したことを思い出す。しかし、それすらも代弁者の――あるいはこの運命の手のひらの上のことだったのだ。
「やはり、そういうことですか。そうだとすれば、私たちに与えられたこの魔術の知識。これは天使と戦うために使うものではないのですね。私たちに魔術の知識を与えた本当の目的は――あなたは、なんて残酷なことをさせるのですか!」
リディは思わず語気を荒げた。その目的が指し示す未来の姿が、彼女に怒りと、そして恐怖を植えつける。
『そこまで理解しているか。そうだ。〝First Star〟は他の選定者の死をもって結実する。生き残った最後のひとりに託されるのだ。諸君に与えられた魔術は〝First Star〟の使用者を決するため、選定者同士で戦い合う武器だ』
戦うために磨き上げた魔術の力。これを向けるべきは天使ではなく、すぐ隣にいる友人なのだと、代弁者は道破した。たったひとりだけに託される〝First Star〟を勝ち取るために、愛する友人をこの手で殺さなければならないのだ。そうすることで、新世界の完全性はいっそう高まるのだから、と。
「……私は、みなさんの望みを叶えるために、天使と戦います。これまでしてきたように、これからも。それが私の望みであり、生きる道です」
だが、もし天使を倒せなかったら、その時は――。
『それは果たして、貴殿が望む道か? 他人を尊重する理念をとやかく言うつもりはないが、それは自身の意志を蔑ろにしてまで押し通す理念ではあるまい。自己犠牲は英雄的ではあるが、決して人道的ではない』
「あなたが道徳を説きますか」
『そうではない。私は、貴殿が新世界の相対神を担うに適した素質を持っていると分析したまでだ』
代弁者は、あくまでも機械的に、無感情に言葉を吐いた。
「ふふ、蛇さん。その禁断の果実は受け取れませんね」
リディは蠱惑的に笑い、背を向けた。
「それに、私に素質がある、ですか。ただ、知識を人より多少、持っているだけの私が。本当に何も知らないのですね、あなたは」
リディはみんなが眠る家へ歩き出した。振り返ることはない。代弁者は彼女の後姿を見つめるばかりで何も言わなかった。
「――さようなら、無知全能の相対神さん」
『私は万物の霊長へ使命を伝えるもの。それ以外の何者でもない』
◆
翌日、私たちは空を泳ぐように移動していた。夕日はあらゆるものを赤く染め上げ、影を長く伸ばしている。眼下に広がる草原、初めて見る大海、大空は西と東で赤色と藍色で二分にしていた。上空からの広大な景色は、旧人類にとっては当たり前のものでも、私たちには目を見開くほどの彩りを与えてくれる。上空の風は心地よく、俯瞰した光景は大地の広大さを教えてくれた。
早朝、私たちは村人が起きる前にライラ村に向けて出立した。生まれ育った故郷を出る時、私たちは示し合わせたかのように同時に村を振り返った。私たち四人の心の中に共通して存在している原風景。もしかすると、二度と戻れないかもしれない――私たちは村の風景を心に刻み込んだ。
険しい山を越え、日陰のない広大な平地を歩き通し、密林を抜けなければライラ村へたどりつけない。人間の足では厳しい道のりだ。しかし、馬を使って数日かかる道のりを、私たちは半日で踏破した。強化の魔術で甚大な瞬発力と持久力を得た私たちにとっては、泉へ洗濯に向かう道のりとなんら変わらなかった。それに加えて、エルフリーデの飛行能力もある。これのおかげで回り道をしなければならないような山や谷、幅広い川などは軽く乗り越えられる。もちろん、この移動では先日の天使との戦いのようにエルフリーデの意識を奪って飛行する必要はない。彼女の意思で、私たちは飛んでいるのだ。
日が傾き始めたころ、私たちは大海原を目の当たりにした。内陸で暮らしてきたので、いままで海を見たことがない。始めて見た海はあまりに壮大で神秘的に映った。あの海に向かって、アイちゃんは毎日歌を歌っていたのだろう。
「……あった。あそこ」
なだらかな海岸線へ目を凝らしていると、数艘の船が停泊している港と、小さな漁村が見えてきた。周囲にほかの村は見当たらなかった。あそこがライラ村だ。エルフリーデに指示して、村のはずれに着地する。いきなり空から村の中に降り立っては、天使だなんだとリッカ村の二の舞になってしまうからだ。
ライラ村まで歩いて近づくと、すぐに様子がおかしいことに気がついた。夕飯時だというのに、村に活気がなく、薄ら寒いほど静かなのだ。
「まさか……」
いやな予感は拭えない。私はなりふり構っていられず、強化魔術を使って駆け出した。
ライラ村の看板が見えてきた。ここから見ても村は閑散としている。不思議なことに、馬や鶏といった家畜はいるのだが、人間の姿がまったく見当たらない。みんなどこへ消えてしまったのだろうか。
「どうして誰もいないんだろう……。まさか、もう天使が……」
カナが弱気な声を漏らす。
「そんなはずない! だって、血のあとも死体もないんだから。きっとどこかにいるよ」
私は焦っていた。いつか必ず会えると信じていた人と、会えないかもしれない。その可能性は、いやでも濃度を増してくる。
「ほかの場所を探してみよう。この時間だったら、浜辺で貝を捕ってるか、岬で歌の練習をしてるはずよ」
いままでのアイちゃんの手紙の内容を思い出しながら、私は彼女がいそうな場所を挙げた。村人が誰もいないのに、アイちゃんだけが残っているなんてことあるわけがない。頭ではわかっていても、私は行動せずにいられなかった。
だが、浜辺に彼女の影は伸びていない。岬に彼女の歌声は聞こえない。それでも私は空を飛び、村の周囲を見下ろして彼女の姿を探した。
どこにいるの、アイちゃん。私、我慢できずに会いに来ちゃったよ。どこか遠くで、一緒に暮らそう――。
私はいつまでも空を飛び続けた。あの子はみんなと同じ親友だ。顔も、声も、触れ合ったこともないけれど、文通を通して芽生えたこの気持ちは本物なのだ。一目見れば、すぐにアイちゃんだとわかる。
だから、お願い。姿を見せて――。
(エルフリーデ、今度はあっちに飛ばして)
私は精神干渉でエルフリーデに指示した。ほかの三人は地上で探索している。
(マリアちゃん、もう下ろすね……)
エルフリーデの通信とともに身体が降下を始める。縮小された風景が拡大する。
(待って! まだ全部探してないの。お願い、もう少し探させて)
地面にゆっくり下ろされて、私は膝をついた。みんな悲しそうに目を伏せ、どう声をかけていいかわからないでいる。
「ううん。アイちゃんはもういないんだと思う。これ……。いまさっき、これが落ちてるのを見つけたの」
エルフリーデは後ろめたそうに何かを差し出した。見慣れた便箋。しわくちゃで、ところどころ泥で汚れているが、見間違えるはずがない。これは、アイちゃんの手紙だ。私は彼女から奪い取るように手紙を受け取った。
アイの手紙Ⅳ
お返事も待たずにお手紙を出してごめんね。でも、今回はどうしてもお手紙をしたためようと思います。
マリアちゃんのお手紙届かなかったよ。珍しいね。どうしたのかな? リッカ村に天使様がおいでになられたって聞いたけど、天に導いてくださったわけではないんだよね? 連絡係の人からマリアちゃんはいたけど、手紙を受け取らなかったって聞いたよ。いろいろ忙しくてお手紙を書く暇がないのかな。それなら仕方ないね。優しいマリアちゃんのことだから、手紙を出せなくて気に病んでるかもしれないけど、どうか気にしないで。
本当はゆっくりマリアちゃんのお手紙が来るのを待とうと思ってたんだけど、すごいことが目前に迫ってて、こうして駆け足で筆を走らせてるんだ。このお手紙が最後になるかもしれないから、いてもたってもいられないの。
いま、天使様が私の村においでになられたんだ。
空一面を天使様が覆ってるの。天使様ってこんなに大きなお姿をしてるんだね。なんだか優しく包み込まれてるみたい。こんな光栄なことってないよね。
村の人たちは大興奮で、みんな外に出て天使様にお祈りしてる。私だって興奮が収まらないよ。マリアちゃんもこんな気分だったのかな?
ああ、どうしよう。いつまでも部屋にいないで、そろそろ天使様にお会いしないと失礼だよね。私だけ置いてけぼりにされちゃうかも。
このお手紙と最後に直接マリアちゃんに渡すつもりだったお手紙は、いちおう連絡係のおじさんに渡すつもりだけど、おじさんも天に導かれるかもしれないから、マリアちゃんに届けられるかはわからない。ううん、たぶん届かないと思う。
あの天使様は隣村の人たち全員を導いてくださったんだから、きっとこの村も……。
でも、もし、奇跡的にこのお手紙がマリアちゃんに届いたのなら、私の冥福を祈ってくれるとうれしいな。
いままで、本当にお手紙ありがとう。
同年代の友達がいない私にとって、あなたはかけがえのない存在でした。ひとりで洗濯してる時はあなたのことを考え、ひとりで赤ちゃんのお世話をしてる時はあなたを想い、風が吹けばあなたの声を思い描き、木々が揺らげばあなたの姿を重ね、楽しいことがあればあなたと分かち合い、うれしいことがあればあなたに幸あれと祈りました。
私は、あなたと出会えたことが何より幸せでした。大好きだよ。
親愛なるマリア様へ アイより
その手紙は恋文のようであり、遺書のような、暖かくも枯れた内容だった。私の中で冷たい風が吹雪く。この手紙を書いた時、アイちゃんは幸せだったに違いない。きっと、私の幸福を祈って夭逝したのだ。それならば、私も手紙にあったように、アイちゃんの冥福を祈るべきだ。それが私にできる、最後の……。いや――。
「違う! こんなの、やっぱり間違ってるよ! 私は、あなたに会いたかった。ずっと、一緒にいたかった――」
彼女は今際の際で天使に抱擁され、幸福だったかもしれない。それはおそらく事実であり、不幸であるより間違いなくいいことだ。でもそれは、故人だけの感情である。アイちゃんの死は、彼女自身にとっては満足かもしれないが、私にはとてもじゃないが受け入れられない。死は故人だけで完結しない。故人の死を残された人々が嘆き、偲び、尊ぶことで人の死は完成される。ひとりの死は、決してひとりのものではない。
だからこそ、私は悔しい。アイちゃんはきっと、自身の死を私が喜んでくれると思っていただろう。だが、それはできない。私にはできないんだ。私と彼女の気持ちが、初めて通じ合わなかったのだ。
この手紙が書かれたのはいつのことだろう。もっと早く来ていれば、アイちゃんに会えたのかもしれない。彼女を守れたかもしれない。
以前の価値観を持っていたら、私はなんの疑問も持たずに彼女の死を喜んで受け入れていたのだろう。彼女は死ぬ時、幸福に満たされ、私もまた彼女の死に幸福を感じる。それぞれの主観で見れば、誰もが幸せで、不幸などどこにもない。幸福の死だ。このありようは一見すばらしいものに思える。
しかし、死ぬこととは今生の別れなのだ。もう、二度と会えないのだ。もう二度と、気持ちを分かり合えることはできない。愛する人と、ともにいたいと思う気持ちに、限りはないはずだ。それなのに、愛する人の死を悲しむこともできないなんて、これほどの不幸がどこにあるだろうか。
やはり、死が幸福なものだなんて間違っている。アイちゃんは死にたくないと願うべきで、私は彼女に死なないでと祈るべきだ。それが人間の自然な感情の流れである。人類の幸福を求める本能。それがいつしか捻じ曲がり、歪な幸福観をもってその流れを断ち切った。その結果が、この幸福に満ちた世界だ。だが、この世界にはひとつの幸福が欠如している。それは、不幸を不幸として嘆くことができる幸福だ。
私はアイちゃんの手紙を握り締めて泣きはらした。声は枯れ、涙も枯れるまで彼女の死を悼んだ。この気持ちが彼女への手向けになるのだろうか。それすらもわからず、私はとめどない感情を吐き出していた。
「そうだ……手紙。最後の手紙はどこ?」
文中にあったアイちゃんの最後の手紙。それがどこかにあるはずだ。それを読んだところで、彼女が生き返るわけでも、私の心が晴れるわけでもない。だけど、探さないわけにもいかない。アイちゃんの言葉は、あますことなく私の心にとどめておきたいのだ。それが、彼女の死を受け入れられない私の、せめてもの供養だと思った。
「みんな、もう一通手紙があるはずなの。お願い、もう一度探すのを手伝って」
私は鬼気迫る思いでみんなに懇願した。だが、みんな一様に苦虫を噛み潰したような表情をして面を伏せている。
「マリア、このあたりは私たちが隅々まで探したよ。草むらの奥も、瓦礫の下も。家の中も全部だ」
カナは少し言葉を切った。
「抽斗にあんたの手紙がいっぱい入った家があった。アイちゃんの家だろうね。でも、そこにもなかった。風に流されたんだろう。ここにはもう、最後の手紙はないんだ」
「でも……でも、どこかに必ずあるはず。消えてなくなるはずないもの。だから探そう。探させて、お願いだから」
「砂漠で一粒の砂金を探すようなものです」と、リディは言った。「残念ですが、私たちに手紙を探す時間の余裕はありません。一刻も早く、リッカ村へ戻らなければ」
「そんな……そんなぁ……」
私は悲しみと虚脱感から膝を折った。アイちゃんの最後の言葉がなければ、私たちの文通にピリオドを打つことはできない。胸に押し寄せる彼女とのやりとり。その一つひとつが私の手のひらからこぼれていくのを感じた。掴もうにも掴めない。心は、空白に埋め尽くされつつあった。
私はしばらくその場から動けなかった。みんなは頬を濡らしながらも黙ったままで、私を見守っている。早く立ち直らなくては。でも、身体に思うように力が入らない。自分がこれからどうすればいいのか、わからない。
――すると。
「……みんな、あれ」
みんなが涙を流していると、空を仰いだカナが天を指さした。彼女に促されて、みんな空を見上げる。
夕焼けに染まる、赤い空。そこには、水がめを肩に担いだ巨人が浮かんでいた。巨人は上半身裸の男の姿をしており、腰布をまとっている。皮膚の色は光沢を持った黄土色で、まるで銅像のようだ。
巨人の天使が水がめを傾ける。中から黒く濁った液体が勢いよく流れ出した。あの水がめのどこにそんな容量があるのか、黒い泥は滝のように延々と流れ続けている。
あんな生物、この世に存在するはずもない。間違いなく天使だ。あいつが、アイちゃんを殺したに違いない。あいつが――。
心の空白は、怒りと憎しみに塗り潰された。
私たちは宝石に魔力をそそぎ、魔法衣に変身する。
「エルフリーデ、私たちに翼をちょうだい」
エルフリーデがうなずくや否や、私は半ば強制的に彼女の意識を奪った。眠りについた彼女を抱きかかえる。あいつを一秒でも早くこの世から消滅させなければ、私がどうにかなってしまいそうだ。
黒い泥が土石流のように地を張って私たちに襲いかかる。建物や動物にぶつかっても一切傷つけず、まるで意志を持った生物のように流動していた。泥の中に数え切れないほどの人骨が目に入る。この泥は、地に足つけていなければ生きられない人類だけを殺す生物だ。私たちは空を飛んでそれを回避する。
この夥しい数の人骨の中に、アイちゃんが……。これではもう、探し出して弔うこともできないではないか。
天使のいる高さまで空を飛ぶ。天使の表情はなく、私たちを冷たく見つめていた。
「妙ですね」リディが眉を顰める。「ここらには私たち以外、人はいません」
「それがどうかしたの?」と、カナは質問した。
「私たちが攻撃を仕掛ける前に、あの天使は先制しました。明らかに私たちを狙っているのです。不幸観測者である、私たちを」
どういうことか、理解しかねているカナにリディは説明を続けた。
「つまり、幸福を感じる人が、人類そのものの数が少なくなってきているのです。人類の減少は、そのまま幸福の減少に繋がります。おそらく、幸福の全体量が減りすぎたのでしょう。だから、不幸観測者である私たちの存在を消すことで、幸福の量を相対的に増やそうと私たちを狙っているのです」
新人類の死による幸福感は、あくまで一時的なものだ。死んでしまえば幸福も不幸も感じられない。新人類が死ねば死ぬほど、私たちが生き残れば生き残るほど、禍福の比率は逆転する。だから天使は不幸を取り除くために、新人類から私たち不幸観測者へ標的の優先順位を変えたのだ。
「望むところよ。私たちは、すべての天使を倒すんだから。あっちから来てくれるなら願ってもないわ」
私は天使目がけて突進した。顔面を強烈に殴打したものの、やはり効果は薄い。私の力では、渾身を込めてもびくともしない。それでも、私は攻撃するのをやめるつもりはなかった。倒すためではなく、怒りをぶつけるために。
「リディ、私に武器を」
「あまり無茶はしないでください」
青龍刀を私に投げ渡し、リディは天使の背後へ回り込んで挟み撃ちにした。縦横無尽に飛び回り、岩石を叩き切る勢いで一刀ずつ確実に天使に与えた。だが、鋼のような天使には傷ひとつつかない。やはり、私とリディの攻撃では動きをとめるのが精一杯だ。
「カナ! 大魔術の準備を!」
「それが、ここら一帯あの黒い泥が埋め尽くしてて……。あんまり遠いと避けられるかもしれない」
いつの間にか眼下の村は泥に沈み、大地は黒一色に染められていた。いまだに天使は水がめから黒い泥を吐き出し続けている。カナの魔術を使うには足場が必要だ。空中では踏ん張りが効かない。
周囲を見渡す。すると、運のいいことに黒い泥に浸かっていない丘を見つけた。泥の海から突き出した小高い丘と、天使の距離は三里弱。カナの魔術が音速の三倍以上だとしても、着弾まで約十秒もかかってしまう。……いや、十秒ぐらい、とめてみせる。
「ぎりぎりまで引きとめる。危険だけど、カナ、お願い」
了解すると、カナは丘を目指して飛んでいった。容易ではないが、息がぴったり合う私たちなら、きっとできるはずだ。
「リディ、もっと武器を精製してて。カナの準備ができ次第、死に物狂いでこいつをとめよう」
「わかりました」
あたりに冷気が漂う。空中に展開される無数の武器。その数は私の分も考慮して、以前の倍近くある。リディも状況を察して、相応の覚悟と決意を用意している。
背中にいるエルフリーデをしっかりと背負い直し、私は両手に得物を掴んだ。勝負はカナの魔術が発動してからだ。まだこちらからは仕掛ける必要はない。それでも私は自分を抑えきれずに攻撃を始めた。
ウォーハンマーとメイス。金属のように硬い相手には、刃物で切り裂くより鈍器で破壊したほうが理に適っている。私は怒りに任せて、人間の身長以上に大きい天使の顔面を叩いた。何度も何度も、力の限り。
自分の非力さが恨めしい。天使の顔面には傷ひとつつけることもできず、動きを封じることしかできない。天使はただ私を見つめ、黒い泥を吐き出している。できれば、この手でこいつを倒したい。
いつしか私は攻撃しながら涙を流していた。アイちゃんは、あの黒い泥を被って痛かっただろうか。苦しかっただろうか。それでも、幸せだったのだろうか。意識も情もない、こんな生物に殺されて……。
(いつでもいける。合図を!)
カナからの通信が入る。込み上げた激情がおさまる。いまは感情に流されてはいけない。目の前の敵を倒すんだ。
「リディ!」
(カナ、撃って!)
同時に、私はふたりに呼びかけた。私とリディは天使へ武器を突き立てる。不動の天使。出現した位置から少しも移動していない。もう動きたくても動かせない。これからの十秒が、勝敗を分かつ。なんとしてでも、こいつを……。
――――そう言えば、こいつはなんで攻撃してこないの?
水がめから、黒い泥の流出がとまる。同時に、天使の身体が溶け出し、硬い表情も醜く崩れ、黒い海に吸い込まれるように落ちていく。
(カナ、待――――)
振り返ると遠くで閃光が煌いた。間に合わなかった。カナの大魔術が発動したのだ。
天使に向き直ると、すでに全身は溶け落ち、向こう側が見えていた。対面にいたリディと目が合う。彼女もまた、動揺を隠せないでいた。
呆然と地面を見下ろす。溶けた天使は黒い泥に落ち、吸収されて姿が見えなくなった。
いったい、何が起きたの? 天使は、どこ……?
「マリアさん!」
私が混乱に陥っていると、リディが私を引っ張って移動させた。するとすぐに、私たちがいたところにカナの炎の魔術が通り過ぎた。この世の物質であれば、どんなものでも消滅させる浄化の光。だが、獲物を失った炎は虚しく空を切り、天へ走る。
(天使の姿が見えなくなったけど、どうなった? こっちからじゃ、よくわからなかったんだ)
カナから呼びかけられるも、どう説明すればいいかわからなかった。私が黙って俯いていると、代わりにリディが答える。
「私たちにも、よくわかりません。天使が溶けて消えてしまったとしか……」
黒い大地が波打つ。目を凝らすと、私たちの真下の泥がせり上がっていた。まるで、意志を持った生物のようだ。
(溶けた? 炎で溶けたわけじゃないの?)
「ええ。カナさんの炎が当たる前のことでした」
黒い泥は植物のように天を目指し、伸び始めていた。誘われたのだ、私たちは。あの巨人の銅像はさながら誘蛾灯で、私たちは光にいざなわれた小さな虫。天使の本体は、大地に広がるあの黒い泥だ。
「リディ……逃げなきゃ」
「――え?」
「早く!」
今度は私がリディを引っ張った。だが、いくらなんでも気づくのが遅すぎた。大地が黒に染まった時点で、私たちは天使の手のひらの上にいたのだから。
せり上がった泥が一気に噴出する。大樹の塔以上に太い水柱がそびえる。先端は蛇のように大口を開け、私たちを飲み込んだ。黒い激流にもまれ、方向感覚を失う。なおも黒い泥は噴出を続け、大地に広がったそれを一滴残らずすくい上げた。
上昇する一本の水柱。絡まった紐のように天空を覆いつくし、飛翔する。その姿は天使と同等に天を象徴する幻獣。神格が最も高い幻想生物。大空を舞う龍だ。黒い龍こそが、この天使の本来の姿だった。
私とリディとエルフリーデは、天使の体内に飲み込まれてしまった。呼吸はもちろんできず、この黒い泥も強化された耐久力と自然治癒を上回って身体を溶かしている。急いで脱出しないと、長くは持たない。
天使の体内は常に激流が渦巻いていた。この巨大な天使にとっては血流程度なのだろうが、私たちからすると大洪水の渦中だ。前後不覚に陥り、自分たちがどこにいるのかもわからない。幸いだったのは、エルフリーデをしっかり背負っていて、リディの腕も放していないことだ。
(マリア、リディ。何が起こってるの? 無事なの? 返事して!)
薄れかけた意識の中、カナのかすかな通信が私の意識を呼び戻した。
(なんとか、生きてるよ。天使に飲み込まれたみたい)
(よかった。それで、何か手はある?)
薄目を開けて周囲を見渡す。衣服と人骨が激しく行きかい、黒く濁った体内では自分がどこにいるのかわからない。黒い泥が溶かしているのは人体のみ。魔法衣には影響が及んでいないので、魔術を使う分には問題なさそうだ。だが、私の精神干渉はもちろんのこと、エルフリーデの大気の魔術も体内には気体がないため、効果は見込めない。
(リディの魔術で、この泥を凍らせることはできない?)
(私が操れるのは自分で生み出した水のみです。超低温の氷を精製して泥を凍らせようにも、この激流と巨体の中では流されてしまいます)
(長刀で胴体を切断は?)
(先ほど試しましたが、皮膚まで液体でできているようで、突き通しても意味がありませんでした)
私たちの魔術では脱出できそうにもない。だとすれば、このまま天使を倒す方向へ発想を変えれば……いや、ダメだ。私たち三人では天使を破壊できない。頼みのカナも魔術を発動したばかりで、再使用するには時間がかかる。カナの回復を待っていたら、私たちもこの骸のようになってしまうだろう。
酸欠状態では考えがまとまらない。もっと、違う方法はないだろうか。こいつだけは、絶対倒すんだ。たくさんの人の命と、アイちゃんの仇。例え死んでも、この天使だけは引導を渡してやる。例え、私が死んでも。
――そうだ。いや、でもこれは……。
ひとつの考えが頭をよぎる。しかし、それは私ひとりの問題ではない。
(そうしましょう。きっと、エルフリーデもわかってくれます)
私の諦観の念が伝わったのか、リディは私の考えを察し、優しく語りかけた。リディの覚悟はすでに決まっている。エルフリーデも、こんな酷いことを考えた私を許してくれるだろうか。
(何か思いついたみたいだね。私にできること、ある?)
何も知らないカナが話しかける。彼女にも、謝らなければならない。
(ごめん、カナ。ひとりで逃げて。悔しいけど、私たちはここでお別れだよ)
(はあ? 何言ってんの?)
(カナの魔術じゃないとダメなの。私たちでは、天使を倒せない。だから、逃げて回復して、そしてこいつを倒して。私たちの思いも乗せて。お願い)
おそらく、逃げる必要もない。この天使は私たち三人を消滅させて標的を再び変えるだろう。なぜなら、人類が少なくなったとは言え、不幸観測者を根絶やしにするには時期尚早のはずなのだ。カナひとりを残すことで、不幸の芽は摘まれ、幸福が相対的に増加することになる。当然、いずれ時が来れば、天使は再び生き残った彼女を狙うはずである。しかし、その時には彼女も充分に回復しているだろう。そこで天使を討ってくれれば、私たちの無念も晴らせるのだ。
(カナ……ごめんね。ひとりぼっちにさせて)
きっと、カナなら天使をすべて倒してくれる。彼女は私の想像を遥かに超えた力を持っているのだ。私たちがいなくても、ひとりで戦える。そして天使をすべて倒したら、どうか残りの時間を幸せに生きて。
「ふざけないで! 誰がそんな案に乗るもんか」
精神と肉声で、カナは叫んだ。と、同時に彼女の身体に魔力がたぎる。
(カナさん、待ってください。それ以上の魔術の使用は危険です)
リディが必死に呼びとめる。
「はん。危険なんて、天使と戦うと決めた時からわかってるよ」
(あなたの場合、命に関わるのです。死をもってすれば、カナさんなら私たちを助けられるかもしれません。ですが、残された私たちには天使を倒す術はありません。だから、あなたが生き残るべきなのです)
「リディのお墨付きだ。絶対、助ける。ついでに、その憎たらしい蛇野郎も倒してやるよ。あいつにそっくりでムカついてたんだ」
(ダメ! カナ、お願いだから言うことを聞いて)
私とリディは、言葉の限りカナを説得した。
「ねぇ、ふたりとも。算数の問題。三人が死んでひとりが生き残るのと、ひとりが死んで三人が生き残るの、どっちが多く生き残るでしょう?」
(人の命は数ではありません! 心の問題です!)
「さすがリディ。正解。そう、心の問題なんだ。どっちがより多く生存できるか、とか、誰が生き残れば合理的か、じゃない。これは私の心が決めたことだ。だから、あんたたちを絶対に死なせはしない」
(カナさん……)
カナが天使を睨みつける。彼女の覚悟は本物だ。私たちには、もう彼女をとめることはできなかった。
「マリア、エルフリーデと私の回線を切って。その子まで巻き込んじゃう」
カナの死は、精神の繋がったエルフリーデにまで影響を及ぼす。私は逡巡の末、言われた通りふたりの精神回線を切った。その時、黒い泥の激流の最中、エルフリーデが涙を流したように見えた。
「リディ、三人がどこにいるかわからないから、目印として長柄の武器を体外まで突き出してくれない?」
(……わかりました。タイミングはカナさんに任せます)
「ふたりとも、ありがとう。おっと、エルフリーデもね」
こんな時にカナはわざと冗談をこぼした。その心境は、私には痛いほど流れてきている。
――天使が空高く舞い上がる。役目を終えたのか、危険を察したのか、この場を離れようとしていた。
「どこ行くつもり? 逃がしはしないよ。私の友達を返してもらおうか」
万華鏡の魔力炉は焦げつき、得られる効果は激減している。だが、使えないことはない。この万華鏡は、少ない魔力で膨大な魔力を得られることが、何よりのメリットだ。いまのくすんだ鏡では満足に光を反射できない。倍率が下がった状態だ。
しかし、倍率は一以下ではない。わずかながらではあるが、万華鏡は機能しているのだ。だとすれば、簡単なことだ。少ない魔力では利益が小さいならば、大量の魔力であれば利益は大きい。本来、流れている魔力量を増やせばいいのだ。
岩清水のようにしか流れない無色の力。これでは、いかに過不足なく魔力に変換しようと足りない。ならば魔力路を決壊させ、洪水を起こす。魔力路の修復は不可能。壊れた蛇口は延々と力を流し続け、魔力炉と魔力伝導体は焼き切れるだろう。一度限りの大技だ。こんな芸当、とても真似はできない。命を賭すことではなく、魔術のセンスが、だ。形而上の存在である魔力路を決壊させるなど、やろうと思ってできることではないのだ。カナの異常さは魔力炉だけではなかった。もし、生まれた時代と環境が違えば、カナは稀代の魔術師となったであろう。あるいは、世界滅亡の回避も……。
決壊する魔力路。膨大な無色の力。あふれ出る魔力の奔流。
燃える、たぎる、迸る――。
そのあまりの光に、すすけた魔力炉は再び輝きを取り戻した。美しく返り咲く、万華鏡の花びら。だが、魔力路と魔力炉は崩壊しかけている。精神体である形而上器官の崩壊は、そのまま肉体の崩壊へ繋がる。カナの身体もまた、限界に近づいていた。
ごう、と炎を纏う魔法衣。魔力絶縁体である肉体にまで無理やり魔力を流し、発火している。魔方陣は展開しているが、ルーンの印章は展開していない。すべての魔力を身体に留め、まずは仲間を救出するのだ。
「リディ、どこにいる!」
(こちらに!)
カナが叫ぶと、リディは氷の槍を精製し、天使の体外へ穿つ。
「見つけた」
そうつぶやくと、カナは自身の熱で発生した上昇気流を利用して高く跳躍した。四肢から炎が噴射し、速度と方向を調整する。瞬く間に彼女は私たちの元へたどりついた。
「ちょっと熱いけど、我慢してね」
――――胴体を一蹴。高温の足から繰り出された蹴りは、天使の身体を蒸発させながら両断した。体外へ排出された私たちは地面へ落下する。
「悪いけど、着地は任せた。いまみんなを触っちゃうと、火傷じゃすまないからね」
恥ずかしそうに、カナは頬を掻いた。
「ま、待って。もう充分よ。魔力を抑えて、治療しよう」
窒息しかけていた私たちはむさぼるように、必死に呼吸しながらカナを呼びとめた。だが、彼女は悲しげに首を振った。意識は朦朧とし、うまく空を飛べない。できることなら、彼女を力ずくにでも引きとめたかった。
「無理だよ。だって、もう、足が崩れちゃってるもん」
足だけではない。身体の内部の重要な器官も、すでに崩壊している。カナの意識は、ほとんど気力で保っているようなものだ。
「いやだ! カナ、待って。待ってよ」
子どものように私は泣きじゃくった。アイちゃんに続いてカナまでも……。もう誰も、大切な人を失いたくない。
「ごめんね。私のわがままで迷惑かけちゃって。あーあ。これじゃあ、ユユに偉そうなこと言えないなぁ」
捕獲した獲物を失った天使がみたび標的を変える。カナに向かって、その大きな口を開けた。彼女は抵抗することもなく、龍に嚥下される。体内がどんなに黒く濁っていようが、彼女の炎の光は私たちまで届いていた。
(マリア、リディ、エルフリーデ――――)
カナの崩壊は脳にまで及んでいるが、最期の思考が私たちに伝わる。そのほとんどはノイズのようで、読み取れたのはわずかだ。
(私、怖いよ。死ぬのが、怖い)
それは生命の原初的な想い。生まれた時から有する恐怖だった。
――瞬間、圧縮された魔力が放出した。急速に膨張する光。大空を占めつくす炎。黒龍の天使はもがきながら消滅する。あれはまさしく猛り燃える恒星――太陽そのものだ。カナの命の炎は天使をすべて飲み込み、赤い夕焼けの空を真っ白に染めた。
私たちは地上へ落とされ、力なく横臥した。節々は痛むが、命に別状はない。エルフリーデも意識を取り戻し、空を仰いでいる。
煌々と照りつける、カナの太陽。炎は彼女の魂で、光は彼女の心。
私たちは、いつまでもカナを見つめていた。太陽が沈み、光が消えるその時まで。いつまでも、ずっと。
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