幸福の庭

はつしお衣善

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幸福の世界

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 リッカ村の中を私はひた走った。村は祭りの賑わいで活気づいている。淡く灯された燈篭と、炊ける焚き木の炎の光。人々は貴重な酒に酔い、豪華絢爛の食事に舌鼓を打ち、頬をほころばせていた。
 人々の顔は幸せに満ち溢れている。誰もあの異常な日食には疑いを持っていないようだ。村人の笑顔を横目に、私は他人の家に忍び込んで食料をかき集めていた。
 人々は祭りに出かけていて、ほとんどが留守だ。見つかることはない。見つかったとしても、咎めるものはいないだろう。村人にとって、私は女神様なのだから。
 いくつもの大きな袋に食料を詰め込み、私はリディとエルフリーデの家にこもった。家の前にも、例によってたくさんの食料が置いてあった。私は庭先に『近寄らないで』と、看板を立てることにした。例え両親であろうと、もう誰にも合いたくなかった。
 部屋の隅に縮こまって、私は目蓋を閉じた。――生きなければならない。そのために集めた食料だ。なんとしてでも、誰よりも長く。最後のその時まで生きて、考えるのだ。どうすればいいのか、私は何を望むのか。私に託された希望の正体はなんなのか――。
 ――でも、生き延びたところで、いったいどうなるというのか。
 時間は、ゆっくりと流れ始めた。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 村人の歓声が弱まる。太陽はいつまで待っても出てこない。光を失った暗黒の世界。もう二度と明けることのない夜の中、人々は話し合っていた。
 月と太陽はどこへ行ったのだろうか。神様はこの世界から姿を消してしまったのだろうか――人々の疑問はやがて、これは天の恵みだと曲解される。事実はまたしても虚構へ歪められたのだ。
 長く続いた祭りも終わりを迎えていた。人々は、天使が与えたもうた世界を受け入れ、死を喜ぶ声に変わる。私は耳を塞ぎ、その声を遮断した。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 どれほどの時間が経っただろうか。村人の気配は、苦しそうに地面を這いずる音に変わっていた。食料が底を尽き、栄養失調に陥っているのだろう。そう長くはないな、と私は冷静に思ってしまった。
 私のこもった家の周りにも気配はするが、中に入ってくる様子はない。私の立てた看板を忠実に守っているのか、それとも女神様の家には恐れ多くて入れないのか。おそらく後者だな、と私は思った。この暗闇の中では、看板の文字も読めないだろう。
 私がかき集めた食料はまだある。だが、誰にも渡すわけにはいかない。村人への罪悪感は募るが、私は――私はなんとしてでも生きるのだ。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 どれほどの時間が経っただろうか。気温は著しく下がり、私は寒さと飢えに震えていた。残された食料はわずか。それもすべて腐っている。私は酷く臭う野菜をかじって飢えを凌いだ。食事をする以外は、漫然と宙を眺めていた。なんのために生きてきたのか、また、何のためにまだ生きているのか、そんなことを考えていた。
 こんなことをしていても意味はない。私には完全な世界を創る自信もなければ、不完全な世界を創ってしまった責任も取れない。だったら早く死んだほうがいい。そうすれば、不幸は完全に消滅し、この世界もすぐに崩壊するだろう。幸せな死ではないけれど、それでいいじゃない。だが、いくらそう思っても、どうしても自ら死ぬことはできなかった。死ぬ気力すらないのだろうか。
 時折、淡い光が見える。
 きっと、幻覚だ。だって、ユユもカナも、エルフリーデもリディも、みんな死んでしまったのだから、こんなところにいるはずがない。
「マリちゃんってば酷い顔してるよ。いつも以上に」
「こら、ユユ。マリアはいまがんばってるんだから邪魔しないの」
「でも、あんまり無理しないでね、マリアちゃん」
「ええ。マリアさん、私たちはいつまでも待っていますからね」
 マリア――マリア――マリア――――。私の名前を呼ぶ声が反響する。それはなんだか暖かくて、気持ちがいい。
 やがて、みんなの声が遠くなり、光が消える。
 ほら、やっぱり。あたりは闇の中。自分がどこにいるのか、手足はどこにあるのか、それすらもわからない。私は叫んだ。声の限り、意味のない言葉を叫んだ。しばらくすると、息が苦しくなって貪るように呼吸をする。辺りから反応はない。恐ろしいほどの静けさ、耳が痛くなるほどの無音だった。私はそれらを吹き飛ばすように、縮こまって再び叫び続けた。繰り返し、繰り返し私は叫んだ。無音の暗闇は、慟哭すら吸収する。
 まだ、私は自分を保てているのだろうか。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 ぼそぼそと、誰かの話し声が聞こえる。いつもの幻聴かと思ったが、たしかに存在する声だった。だが、生きた人間の声ではない。醜悪な妄執が絡みついた呪いのような言葉。捻じ曲がった願望の結末。表出した相対神の集合的思念だ。
 ――ねぇ、いつまでそうしてるつもりなの?
 私の耳元で囁く。粘りつくようなその声は、私の全身にまとわりついた。
 ――こんなことをしてても時間の無駄。早く、この世界を再生しようよ。ひとりぼっちになったあなたならとっても簡単なこと。ただ願うだけでいい。
 そんな簡単な話じゃない。無責任なこといわないで。
 ――じゃあ、どうしてまだ生きてるの? 死にたくないから? 幸せに死にたいから? それとも、あの髪の長いお姉さんに頼まれたから? どれにしたって一緒。再生させないと、みんなの死が無駄になっちゃうよ。
 無駄なんかじゃない。私たちは精一杯、生きてきたんだ。その死は、決して無駄じゃない。
 ――ダメな子。何もわかってないのね。ほら、足元を御覧なさい。
 私は足元を見た。そこには夥しい数の死体が山を築いている。山の頂上で、私は死体を踏みしだき、立っていたのだ。驚いてバランスを崩し、地面に手をつく。地面すら死体だ。私の親指は腐りかけた死体の眼球をいやな感触とともに貫き、手は血に塗れた。恐怖にすくんでいると、死体の一つひとつが目を見開き、私を恨みがましく見つめた。
「何、これ……いや、いやあああああ」
 ――ふふふ、わかってくれた? これが相対神。無駄になるのは、あなたたちの死だけじゃないの。私たちだって、がんばってきたと思わない? それもこれも、すべては人類の使命のため。ねぇ、今度はあれを見て。
 遠くの空を眺める。そこには暖かく優しい光が瞬いていた。暗闇の中にひとつだけ輝く、星粒のような小さな光だ。あまりにちっぽけで恐ろしく遠くにあるが、死体の頂にいる私にとっては、渇望する温もりだ。
 ――あれこそが、完全無欠の星。永遠なる世界よ。私たちはあそこを目指して、この死体をここまで築き上げてきたの。みんなそれぞれ、夢や希望があった。それを砂遊びで作った砂山のように崩すなんて、あんまりじゃない。だから、ね?
 そう囁き、私の目の前に黒く炭化した少女が浮かび上がった。落ち窪んだ瞳に、空洞の眼窩。彼女は私にまとわりつくように抱きしめた。
 ――だから、私たちと一緒になりましょう。
 途端に、足元の死体が溶け出す。死体の山は大きなうねりとなって私を飲み込んだ。もがこうにも、隻眼の少女が私にしがみついて離れない。
 ――一緒に行こう。あの星を目指そう。
「やめて、私はあなたたちとは一緒になれない!」
 濁流に飲まれる中、私はようやく魔術の制御の仕方を思い出して、精神干渉を解いた。すると、あたりは霧が晴れるようにひっそりとした木造家屋に戻っていた。私以外は誰もいない。すべては相対神が見せた映像だった。
 私はいつの間にか魔法衣に変身していたようだ。おそらく、この孤独の暗闇のさみしさから、無意識に話し相手を探して魔術を使ってしまったのだろう。その相手が、よりによって相対神の集合的思念だとは。自分の心の弱さを痛感する。
 私は急いで魔法衣を脱ぎ、二度と使えないように引き裂いた。思い出の品ではあるが、背に腹はかえられない。
 ――ダメな子、ダメな子、ほんとにダメな子。
 あたりから残響のように囁く。私が「うるさい」と一喝すると潮が引くように声を潜めた。ようやく静かになる。私はまた心細くなった。
 久しぶりに早鐘を打つ心臓の音を聞いた。認めたくはないが、怒りだろうと恐怖だろうと、何かしらの感情を発することができたのは、この闇黒の世界では貴重なことだったのかもしれない。正直に言って、失いかけていた感情を吐き出すのは心地がよかった。少しだけ、人間らしさを取り戻せたような気さえする。
 そこまで思考して、私は自分の考えを打ち消した。何が人間らしさだ。人間らしい感情は、ほかにも数え切れないほどあるじゃないか。怒りや恐怖で人間性を感じるなんて……。いよいよ、私はおかしくなってきたのかもしれない。
 私は山のような死体の眼光を思い浮かべながら、再びまどろんだ。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 食料はとっくに尽きてしまった。私は服のボタンを口に含んで、搾り出した唾液を飲み、空腹をごまかしていた。意識は絶え絶えで、時にどうして自分がこんなことをしているのかわからなくなることがある。
 部屋の中も外も極寒だ。太陽の恵みを失ったことで、地球は急速に冷えてしまった。私は意識と体温を保つために、囲炉裏に火をつけた。これが最後の火種だ。
 暖かな光が部屋を照らす。私は眩しくて目を細めた。
 部屋の隅に、見覚えのあるふたつのものを見つけた。聖者の卵で発見した鏡と、バテン・カイトスで発見した地球儀だ。その鏡には、反転した地球が映っている。この反転した地球は、まるである時を境に価値観が反転した私たちのようだ。それとも、生まれ出ようと必死にもがいている、新世界の姿だろうか。……時間はまだ、ゆっくり流れている。
 ………………。
 ………………。
 ………………。
 眠りは擬似的な死だ。私は幻覚とも夢とも取れない死の狭間でもがいていた。眠りについたと思ったらそれは幻覚で、目が覚めたと思ったら夢の中にいた。どうやら生きているが、生命として死んでいるようなものだ。
 ――――――遠くで馬車の音が聞こえてきた。その音で、失っていた意識を取り戻す。正確な時間はわからないが、世界が闇に包まれてから相当の時間が経っている。いまだに生きている人がいるとは到底思えない。
 これも幻覚なのだろう。どれが現実で、どれが夢で、どれが幻覚なのか。いまの私には判断できない。いや、この際どれでもいい気がする。どれにしたって、意味などないのだから。私は目蓋を閉じた。
 玄関の引き戸が開く音がする。誰かの足音が聞こえる。たしかに存在する人の気配。しかし、その意味を私の脳は理解しなかった。私の意識は遠くへ旅立つ。最後の時だ。ここが限界だった。
「――――!」
 誰かの声。優しい光が目蓋の向こう側でちらついている。
「しっかりして! お願い、目を開けて」
 抱き起こされる感覚が身体に伝わった。肩を掴まれる感触。頬を優しく撫でられる感触。暖かい人の感触。人を思いやる優しい言葉……。どれも、しっかりとした感覚だった。幻覚なんかじゃない。
 私は目蓋を開いた。提燈の明かりに照らされた部屋を久しぶりに目にする。私はまだ、生きていた。昔は当たり前だったそれが、とてつもなくうれしくて、自然と涙がこぼれる。ここは、私が生きた世界だ。みんなと生きてきた世界なんだ。
「よかった。うんうん、さみしかったよね、ひとりぼっちで。でも、もう大丈夫だよ」
 抱き起こしてくれた女の子が、私に笑顔を向ける。心からうれしそうだ。その子は同い年ぐらいの、かわいらしい少女だった。
「……あ、う」
 久しく声を出していないので、酷いしゃがれ声だった。
「慌てないで。はい、お水を飲んで。ゆっくりね」
 彼女から魔法瓶を受け取る。凍っていない水を飲むのは久しぶりだ。少し甘い水は、すぐに全身の渇きを潤してくれた。
「ふふ、一気に飲み干しちゃったね。でもよかった、生きている人がいて。もうこの世には私ひとりしかいないのかと思っちゃったよ」
 少女は安堵した面持ちで、私が生きていたことを喜んでくれた。
「それで、あなたのお名前は?」
 少女が私に問う。まるで最後の希望を賭けたような眼差しだ。この暗闇の中、ずっとひとりぼっちで彼女もさみしかったのだろう。
 私はすぐに返答しようと思ったのだが、どうにも喉の調子が悪い。私はたどたどしくも、なんとか言葉を搾り出した。
「わた、私の名前は、まり、あ」
「……え?」
「マ、リア。私の名前は、マリア」
 少女の表情が驚愕に変わる。
「う、そ。ほんとに? 本当に、マリアちゃんなの? じゃあ、ここはリッカ村だったんだね。いつの間にか目的地につけたんだ」
「あなたは、誰? 私を、知ってるの?」
「まさか本当に会えるなんて、思わなかった。私だよ。アイだよ」
 あ、い? アイちゃん?
「アイ、ちゃん? アイちゃん?」
「そうだよ。マリアちゃんを探してたんだ。ずっと、ずっと。空が暗くなっても、ずっと」
 私は彼女に抱きつき、張り裂けるようにアイちゃんの名前を呼び続けた。
「よかった……。もう会えないんだろうなって、諦めかけてたんだ。ほんと、よかった。ねぇ、ほかのみんなはどこ? ユユちゃんにカナちゃん、エルフリーデちゃんとリディちゃんは?」
「みんな、みんな死んじゃった。死んじゃったんだ。もう、私ひとりしか、いないの」
 長い闇の中で孤独に生き、忘れかけていた大切な友達、愛する人たちの死。それを思い出して、私は涙を流した。
「ああ、そうだったんだ。そっか。みんな天へ還ったんだね。それは――――」
 その言葉を口にする前に、私は彼女の口をふさいだ。
「やめて! それ以上、言わないで」
 聞きたくない。彼女の口から、みんなの死を喜ぶ言葉なんて、絶対に聞きたくない。彼女は私の反応を見て、狼狽していた。無理もない。彼女にとって、死は幸福の調べなのだから。それが新人類の価値観なのだ。
 気がつくと、私は彼女にすべてのことを洗いざらい話していた。ユユの死から、天使の出現。代弁者から聞かされた真実の歴史。人類に課せられた不条理な使命。そして、天使との戦いの果てに、私はひとりになってしまったこと。
 彼女は驚きながらも、私の話を真剣に聞いてくれた。
「そっか。そんなことがあったんだ。辛かったね、マリアちゃん」
 彼女は労うように私の頭を撫でた。
「信じて、くれるの? こんな、嘘みたいな話」
「当たり前じゃない。マリアちゃんが嘘つくわけないもんね」
 それは、優しい――とても優しい言葉だった。彼女は私を抱きしめ、そっと涙を拭ってくれた。その優しい愛に、私はまた涙を流すのだった。
 ああ、暖かい。世界は、こんなにも暖かいんだ。暗くなった世界に、一転して明るい光が差し込む。忘れかけていた感情が湧き出す。失いかけた希望が目を覚ます。こんな幸せな気持ちは、初めてだった。
 ――いま、唯一残された不幸は消滅し、世界は満たされた幸福に彩られた。その目に痛い極彩色は、瞬く間に枯れ果てるだろう。
「何、この音?」
 彼女が驚いて周囲を見回す。突如として、木が擦れ合うような甲高い音が鳴り響いてきたのだ。地鳴りのようなそれは、誰かの断末魔のようだ。
「これは世界の終わりの音。私が幸せになっちゃったから、幸せに胸がいっぱいだから、この世界が崩壊するんだよ」
「そう、なんだ。……なんだか、さみしいな。でも、ううん。これでよかったんだよね。マリアちゃんたちが望んだ幸せな最期。それを叶えることができたんだもんね」
 不幸が消滅し、禍福は相克する力を失う。それから間もなく、世界は幸福に滅亡するだろう。永劫に続いた世界は、ここで廻ることをやめるのだ。
 幸福に満たされ、溺れる世界。それは私の――私たちの望んだ結末だ。不幸に終わるよりずっといいと、そう思って私たちは歩みだしたのだ。きっと、それは間違いないことなのだと、そう信じて……。
 だけど、私は――――。
「マリアちゃん? これって……」
 鈍い痛みとともに、私の体内に光り輝く種が生まれる。弱々しくも儚いが、これが世界を繋ぐ混沌の種子だ。
「私、やるよ。たぶん、完全な世界っていうのはできないだろうけど、それでも……。いつか、そんな世界ができるまで、ずっと私がこの世界を廻し続けるよ。完全な世界が紡がれるまで、ずっと」
 この肉体を消滅させることなく、新世界を迎える。そして、その新世界が再び滅びそうになったら、また私が相対神となって、次の世界を作り上げる。それを延々と繰り返すのだ。相対神の集合思念に取り込まれることもなく、新世界にて辛い使命を課せられる選定者も生まれない。それが、私の答えだ。
「本当にそれでいいの? そうしたら、マリアちゃんはずっと辛いんじゃないの?」
 それは、この永久に続く世界に縛られるということだ。死すら許されない、無限の牢獄に私は自ら閉ざされようとしている。
「うん。でも、もう決めたことだから。それに、私はみんなを待たなきゃいけないの。みんなとまた巡り会える未来まで。だから、消滅するわけにはいかないよ」
 私にもう迷いはなかった。たしかに辛いけど、それでいい。それがいつか、私たちの希望に繋がるのなら、それでいいんだ。
「……そっか。そうだね。マリアちゃんがそう言うなら、私も賛成。きっとマリアちゃんならできるよ」
 彼女は私の頬を撫でた。
「ありがとう」
 私は彼女に心から感謝を伝えた。そして、もうひとつ彼女に伝えなければならない。最後に、これだけははっきりしておかなければならないのだ。
「……例え、あなたが本当のアイちゃんじゃなくても、感謝するよ」
 たぶん、彼女はいままでで一番驚いたことだろう。私は搾り出すように、涙を堪えて言葉を続けた。
「あなたは、四人目の天使なんでしょ? だって……だってアイちゃんは死んじゃったんだもん。こんな風に会える奇跡なんて、あるはずない。私たちは、会えるはずがないんだよ」
 月と太陽の天使はふたつでひとつの天使だ。天使の数は全部で四人。だとしたら、あとひとりいるはずだ。それが彼女である。
 彼女は、最後に残された不幸を幸福に変えるために、私の前に現れた天使なのだ。何も、天使は人間を殺すために生まれてくるわけではない。人間を幸せにするために生まれてくるのだ。私にとって、死は不幸なもの。だから私が愛する人となって、天使は幸せを運んできたのである。
「――――ああ、そうか。うん、そうだった。私は天使だったんだ」
 彼女は、自身の存在を初めて知ったようだった。肉体から、記憶まで、すべての形が愛する人となって顕現する。それが、最後の天使の正体だ。
「でも、それを知ってて、どうしてこの世界を終わらせないの? 天使の――この世界の目論見通りにされて、マリアちゃんはそれでいいの?」
「私は、幸福に終わる世界だったら、それでいいと思ってた。こんなに不幸なら、何も知らなければいいと思ってた。でも、幸福しかないからこそ、終わらせちゃいけないの。幸せの中にも、不幸はある。不幸の中にも、幸せはある。本当の幸せは、不幸なくしては得られないものなんだ。もし、世界が終わる時が来るとしたら、その時は――幸せと不幸、両方がないといけないと思ったの」
 それはつまり、禍福の調和が取れた、完全な世界――。
「だから――私はこの美しい世界を終わらせたくない」
 空間の輪郭がぶれる。感覚は曖昧に、景色は混沌に帰る。森羅万象、世界を構成するすべてのものが無へと帰す。砂嵐のような世界に変わる中、目の前にいる彼女だけが、かろうじて認識できた。
「そっか。さすがマリアちゃん。なんて、天使である私が言っても皮肉なだけかな」
「そんなことないよ。私にこのことを教えてくれたのは、アイちゃんの死だったの。だから、アイちゃんの姿で現れて、思い出させてくれたあなたには、感謝してる」
「うーん。そう言われると、なんだか気恥ずかしいな。まぁ、天使としての役割は果たせたし、私は先に行くね。――マリアちゃん、新しい世界をよろしく」
 明るい声でそう言うと、彼女は終焉の波に消えていなくなった。それとともに、地面に立っている感覚が消え、途方もなく広い空間に私は浮かび上がった。最後の星は消滅し、光と闇も失われた。いずれ、この空間も収縮し消えるだろう。
 この世界に残されたのは、とうとう私ひとり。でも、もうさみしくはない。
 体内に宿った光の種に、お腹の上から手をあてた。優しい温もりが伝わる。渾然と渦巻く種は、徐々にその光を強めていた。これは、私たちの希望そのものだ。そう思うと、なんだか愛おしくなる。
 ――星は消滅し、天地は始まりの海へ。失われた星は、その美しい輝きを取り戻して、再び空を巡るだろう。
 混沌は胎動する。始まりの一はふたつに分かつ。さぁ、産声を上げなさい。
First一番星 Star見つけた
 人々が見上げ、願いを込める、あの空へ――。
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