幸福の庭

はつしお衣善

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 空が朱色に染まる、ある日の夕暮れ。電車や車、人々が忙しなく行きかう中に、ふたりの母子が歩いていた。
 母親の手にある買い物袋を見るに、夕食の買出しに行っていたのだろう。母親は先に歩き、女の子はよたよたと不機嫌そうにあとを追いかけていた。
「ママー、待ってよー」
 あらあら、女の子がぐずり出しちゃった。何があったかは知らないけれど、子どもが泣き出すのはどこの家庭でも見られる日常だ。
「ほら、なっちゃん。早く帰らないと、日が暮れちゃうわよ」
「やだ! ママの馬鹿!」
 女の子は心にもないことを叫んだ。本当はママが大好きなのに。
「馬鹿って……」
 母親の表情が曇る。子どもの癇癪には慣れているはずなのだが、今日はいつもと違うらしい。女の子は、そんな微細な変化に気づかず、わんわんと泣いている。
「私が、どれだけ苦労してると思ってるの……。あんたを育てるために……」
 母親は足早に女の子の元へ歩く。
 この女性は、とある財閥のトップの妾。そして、女の子はその子ども。妾ならではの心労があるのだろう。暮らしに不自由はないが、心はいつも不自由だ。新たな生命を宿した時、その子どもは果たして、誰からも望まれた誕生だったのだろうか……。
 ちょっと特殊だけど、きっとどこにでもある人々の暮らしのひとつだ。
 母親は女の子の前に立つと、平手を上げた。
 叩いたら、女の子はもっと泣き喚くだろう。一時の感情で力の加減を忘れて叩いたら、ひょっとしたら恐怖心が芽生え、一生癒えない心の傷となるかもしれない。
 手を振り下ろす。しかし、その手は女の子を叩くことなく、小さな手を握った。人の弱さを、母の強さで守ったのだ。
「……わがまま言わないで。さ、帰りましょ」
「……うん」
 そのまま手を引いて、一緒に歩き出す。女の子はまだ不機嫌そうだ。
「あ、ほら。見て見て、なっちゃん。一番星」
 母親が指をさして言うと、女の子は私のほうを見上げた。私の背後には金星が浮かんでいる。地球のお隣さんだ。
「いちばんぼし?」
「そう。たぶん、あれは金星ね。宵の明星、明けの明星って言ってね。暗くて怖い夜を一番最初に出て、一番最後まで見守ってくれる、お星様よ」
「きんせい? みょーじょー?」
 女の子には難しくて、まだわからないようだ。でも、未知への好奇心が、彼女の不機嫌な気持ちを忘れさせたみたい。
「えーっとね。金星は英語で言うと、ヴィーナス。女神様のことよ」
「女神様? 女神様が、あたしたちを守ってくれるの?」
「そうよ」
 うーん。その名前はいろいろ思い出しちゃうから、ちょっと苦手だなぁ。
「そっかぁ。そうなんだ……」
 そうつぶやくと女の子は空を見上げ精一杯、背伸びをした。
「女神様ぁー。いつも見守ってくれて、ありがとー」
 花が咲いたように、女の子は笑顔で手を振った。さっきまであんなに不機嫌だったのに。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、子どもは大変だな。母親は機嫌を直した我が子に、そして愛する我が子を叩かなかったことにほっとし、ふたりは仲良く家路についた。夕日に照らされて伸びたふたつ分の影は、しっかりとひとつに繋がっている。
 と――まぁ、こんな風に一人ひとり、いろんなことを抱えて生きている。このふたりは、まだ幸せなほうなのかもしれない。それでも未来はわからない。幸せも不幸も、突然やってきては過ぎ去ってしまうのだから。
 ――――この世界が幸福に終わるのか、不幸に終わるのか、それとも終わりのない世界なのか、無知な私には何もわからない。それでも、あの子に頼まれたように、この青く美しい世界をこの空から見守ろう。いつか、私たちの夢が叶う、その時まで。
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