13 / 14
12
エピローグ
しおりを挟む
空が朱色に染まる、ある日の夕暮れ。電車や車、人々が忙しなく行きかう中に、ふたりの母子が歩いていた。
母親の手にある買い物袋を見るに、夕食の買出しに行っていたのだろう。母親は先に歩き、女の子はよたよたと不機嫌そうにあとを追いかけていた。
「ママー、待ってよー」
あらあら、女の子がぐずり出しちゃった。何があったかは知らないけれど、子どもが泣き出すのはどこの家庭でも見られる日常だ。
「ほら、なっちゃん。早く帰らないと、日が暮れちゃうわよ」
「やだ! ママの馬鹿!」
女の子は心にもないことを叫んだ。本当はママが大好きなのに。
「馬鹿って……」
母親の表情が曇る。子どもの癇癪には慣れているはずなのだが、今日はいつもと違うらしい。女の子は、そんな微細な変化に気づかず、わんわんと泣いている。
「私が、どれだけ苦労してると思ってるの……。あんたを育てるために……」
母親は足早に女の子の元へ歩く。
この女性は、とある財閥のトップの妾。そして、女の子はその子ども。妾ならではの心労があるのだろう。暮らしに不自由はないが、心はいつも不自由だ。新たな生命を宿した時、その子どもは果たして、誰からも望まれた誕生だったのだろうか……。
ちょっと特殊だけど、きっとどこにでもある人々の暮らしのひとつだ。
母親は女の子の前に立つと、平手を上げた。
叩いたら、女の子はもっと泣き喚くだろう。一時の感情で力の加減を忘れて叩いたら、ひょっとしたら恐怖心が芽生え、一生癒えない心の傷となるかもしれない。
手を振り下ろす。しかし、その手は女の子を叩くことなく、小さな手を握った。人の弱さを、母の強さで守ったのだ。
「……わがまま言わないで。さ、帰りましょ」
「……うん」
そのまま手を引いて、一緒に歩き出す。女の子はまだ不機嫌そうだ。
「あ、ほら。見て見て、なっちゃん。一番星」
母親が指をさして言うと、女の子は私のほうを見上げた。私の背後には金星が浮かんでいる。地球のお隣さんだ。
「いちばんぼし?」
「そう。たぶん、あれは金星ね。宵の明星、明けの明星って言ってね。暗くて怖い夜を一番最初に出て、一番最後まで見守ってくれる、お星様よ」
「きんせい? みょーじょー?」
女の子には難しくて、まだわからないようだ。でも、未知への好奇心が、彼女の不機嫌な気持ちを忘れさせたみたい。
「えーっとね。金星は英語で言うと、ヴィーナス。女神様のことよ」
「女神様? 女神様が、あたしたちを守ってくれるの?」
「そうよ」
うーん。その名前はいろいろ思い出しちゃうから、ちょっと苦手だなぁ。
「そっかぁ。そうなんだ……」
そうつぶやくと女の子は空を見上げ精一杯、背伸びをした。
「女神様ぁー。いつも見守ってくれて、ありがとー」
花が咲いたように、女の子は笑顔で手を振った。さっきまであんなに不機嫌だったのに。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、子どもは大変だな。母親は機嫌を直した我が子に、そして愛する我が子を叩かなかったことにほっとし、ふたりは仲良く家路についた。夕日に照らされて伸びたふたつ分の影は、しっかりとひとつに繋がっている。
と――まぁ、こんな風に一人ひとり、いろんなことを抱えて生きている。このふたりは、まだ幸せなほうなのかもしれない。それでも未来はわからない。幸せも不幸も、突然やってきては過ぎ去ってしまうのだから。
――――この世界が幸福に終わるのか、不幸に終わるのか、それとも終わりのない世界なのか、無知な私には何もわからない。それでも、あの子に頼まれたように、この青く美しい世界をこの空から見守ろう。いつか、私たちの夢が叶う、その時まで。
母親の手にある買い物袋を見るに、夕食の買出しに行っていたのだろう。母親は先に歩き、女の子はよたよたと不機嫌そうにあとを追いかけていた。
「ママー、待ってよー」
あらあら、女の子がぐずり出しちゃった。何があったかは知らないけれど、子どもが泣き出すのはどこの家庭でも見られる日常だ。
「ほら、なっちゃん。早く帰らないと、日が暮れちゃうわよ」
「やだ! ママの馬鹿!」
女の子は心にもないことを叫んだ。本当はママが大好きなのに。
「馬鹿って……」
母親の表情が曇る。子どもの癇癪には慣れているはずなのだが、今日はいつもと違うらしい。女の子は、そんな微細な変化に気づかず、わんわんと泣いている。
「私が、どれだけ苦労してると思ってるの……。あんたを育てるために……」
母親は足早に女の子の元へ歩く。
この女性は、とある財閥のトップの妾。そして、女の子はその子ども。妾ならではの心労があるのだろう。暮らしに不自由はないが、心はいつも不自由だ。新たな生命を宿した時、その子どもは果たして、誰からも望まれた誕生だったのだろうか……。
ちょっと特殊だけど、きっとどこにでもある人々の暮らしのひとつだ。
母親は女の子の前に立つと、平手を上げた。
叩いたら、女の子はもっと泣き喚くだろう。一時の感情で力の加減を忘れて叩いたら、ひょっとしたら恐怖心が芽生え、一生癒えない心の傷となるかもしれない。
手を振り下ろす。しかし、その手は女の子を叩くことなく、小さな手を握った。人の弱さを、母の強さで守ったのだ。
「……わがまま言わないで。さ、帰りましょ」
「……うん」
そのまま手を引いて、一緒に歩き出す。女の子はまだ不機嫌そうだ。
「あ、ほら。見て見て、なっちゃん。一番星」
母親が指をさして言うと、女の子は私のほうを見上げた。私の背後には金星が浮かんでいる。地球のお隣さんだ。
「いちばんぼし?」
「そう。たぶん、あれは金星ね。宵の明星、明けの明星って言ってね。暗くて怖い夜を一番最初に出て、一番最後まで見守ってくれる、お星様よ」
「きんせい? みょーじょー?」
女の子には難しくて、まだわからないようだ。でも、未知への好奇心が、彼女の不機嫌な気持ちを忘れさせたみたい。
「えーっとね。金星は英語で言うと、ヴィーナス。女神様のことよ」
「女神様? 女神様が、あたしたちを守ってくれるの?」
「そうよ」
うーん。その名前はいろいろ思い出しちゃうから、ちょっと苦手だなぁ。
「そっかぁ。そうなんだ……」
そうつぶやくと女の子は空を見上げ精一杯、背伸びをした。
「女神様ぁー。いつも見守ってくれて、ありがとー」
花が咲いたように、女の子は笑顔で手を振った。さっきまであんなに不機嫌だったのに。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、子どもは大変だな。母親は機嫌を直した我が子に、そして愛する我が子を叩かなかったことにほっとし、ふたりは仲良く家路についた。夕日に照らされて伸びたふたつ分の影は、しっかりとひとつに繋がっている。
と――まぁ、こんな風に一人ひとり、いろんなことを抱えて生きている。このふたりは、まだ幸せなほうなのかもしれない。それでも未来はわからない。幸せも不幸も、突然やってきては過ぎ去ってしまうのだから。
――――この世界が幸福に終わるのか、不幸に終わるのか、それとも終わりのない世界なのか、無知な私には何もわからない。それでも、あの子に頼まれたように、この青く美しい世界をこの空から見守ろう。いつか、私たちの夢が叶う、その時まで。
0
あなたにおすすめの小説
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる