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図書室のエラトー
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窓から差し込む西日の黄金色の光に包まれる図書室は、今日も人気がない。
詩織《しおり》は一人溜息をついた。
(今日も借りに来る人、ほとんどいなかったな……)
読書好きの詩織は同じように本が好きな友達が欲しくて図書委員会に入ったのだが、周囲は「とりあえず楽そう」という理由で入っていたり、本を読まない訳ではないがライトノベルばかりで詩織の好むような文芸作品やハードなSFは読まない生徒がほとんどだったのだ。
おかげで好きな本について心行くまで語り合える友人にはまだ巡り会えていない。
(薔薇の名前とか、ドストエフスキー全集とか、いい本がたくさんあるのにもったいない……)
せっかくの良書も読む人がいなければ宝の持ち腐れである。
窓から差し込む夕陽で茜色に染まる図書室もそろそろ閉館時間。今日も貸し出されたのはいわゆるWEB系ライトノベルばかりで、後はレポートに必要な資料くらい。
(ライトノベルも好きなんだけど、たまには他の作品の話もしたいな)
少し残念に思いながらも閉館の準備に取り掛かる。
今日返却された本を台帳と照らし合わせてチェックして、戻す場所に合わせてそれぞれ箱に入れて分類して……
そうこうするうちに、窓の外は真っ暗になっていた。『閉館しました』の札を入り口にかけようと、ドアのノブに手をかけたその時。
勢いよくドアが開いてしこたま額をぶつけてしまった。
「あ、牟佐先輩、すみません。大丈夫ですか?」
慌てた様子の少年が可哀そうなほどおろおろと狼狽えながら謝罪してくる。
「あら宇佐美君、部活の帰り?」
少し赤くなった額をさすりながら詩織が問うと、少年は照れくさそうに目を伏せながらうなずいた。
額や頬に少しだけ泥がついたままになっているのは本人は気付いていないらしい。
無理もない。サッカー部のエースである彼は毎日早朝から暗くなるまで、授業以外の時間はほとんどが部活に費やされている。自分の身なりに気を遣っている余裕などないだろう。
「はい、大会が近いので練習が長引いてしまって……まだ返却できますか?」
「いいわよ、まだ閉めてなかったから。中に入って」
詩織が促すと、宇佐美はいそいそと図書室に入って来た。
スポーツバッグから取り出したのは、いかにも活発そうな彼の印象とは似つかわしくない古びた文庫本。
タイトルは『マルテの手記』。オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの唯一の長編小説だ。
散文詩を思わせる断片的な物語を多層的に積み重ねる事で、孤独や不安、生の在り方や死への恐怖と言った様々なモチーフが語られる。
一見無秩序に並べられた物語の断片たちは、統一した像を持たないが故にその合わない焦点の奥にままならぬ現実の姿を映すが、その真実の生と愛の物語を読み解くにはなかなかに根気と思索とを必要とする。
「はい、宇佐美 武くんからの返却を確かに受け付けました。……読んでみてどうだった?」
本を受け取って手早く返却手続きを済ませた詩織が、上目遣いに感想を聞く。眼鏡越しに澄んだ円い瞳と視線が絡んで、武はかぁっと頬に血液が上ってくるのを感じ、慌てて目をそらした。
「正直、一度読んだだけではわかりませんでした。でも、最後の話だけなんとなくいいなって」
「愛を拒んだ放蕩息子の帰還ね」
「うまく言えないんだけど、ズレてるって言うか、親にも友達とかにもすごい好かれてて評価されてるのはわかってても、なんか違うって言うか」
一言ひとこと一生懸命考えこみながら、たどたどしくも自分の想いを丁寧に言葉にする。そんな武に詩織は微笑みながら静かにうなずいて話を聞く。
「みんな本当の俺がどんな奴かなんてどうでも良くて、自分が見たい姿を俺に重ねてるだけって言うか。
誰も俺の事なんか見てなくて、そんな奴らに好きって気持ちを返してやることもできなくて、それがすごく嫌だったんですけど。
それでもいいんだな、そう感じてるのは俺だけじゃないんだなって思えたらすごい楽になりました」
「そっか。それはとても素敵な出会いだったね」
武の不器用ながらも率直な感想に、詩織は花の開くような微笑を浮かべた。
長い黒髪を校則通りの三つ編みにきっちりと結って、眼鏡をかけた化粧っ気のない彼女は決して華やかな美人ではないが、ふとした瞬間に見せる素のままの表情には何とも自然な愛らしさがある。
花にたとえるならば路傍に咲く雛菊や菫の美しさだ。
大きな丸い瞳を三日月の形に細めて嫣然と微笑む彼女に、武の口許もいつの間にか緩んでいた。
「はい。なんか賢くなったとか面白かったとかじゃないんだけど、ちょっとだけ肩の力が抜けた感じがします。
ちょっとしんどかったけど、最後まで読んでみて本当に良かった」
サッカー部のエースと言うイメージに反して、宇佐美は意外にも純文学を好んで借りて行く。彼が本の返却時に不器用ながらも感想を述べるたび、同志を見つけたような気になって詩織の心が明るく浮き立っているのは、彼女だけの大切な秘密だ。
「そう言ってくれて嬉しいな。今日も何か借りていく?」
「そうしたいですが、もう閉める時間じゃ?」
「まだ大丈夫よ。返却されたものの整理が終わってないから作業の間に次の本を探しておいてくれる?」
もう少しだけ一緒にいたくて、また返却しに来てほしくて。
詩織は閉館作業を少しだけ遅らせることにした。
「次は何を借りようかな?なんか読んでて『羊飼い』とか『天の父』とかいう言葉がいっぱい出てきて、慣れるまで何の事だかわからなかったけど、聖書の話なんですね」
「これが書かれた頃のヨーロッパはみんなキリスト教徒だったからね。誰でも聖書の話は知っているのが当たり前だったから、当たり前のように聖書の逸話が出てくるお話が多いのよね。社会の共通認識だったから。
今だとトラックに轢かれると異世界に転移したり、悪役令嬢は本当は悪い人じゃなかったりするようなものかしら」
「聖書の逸話が、って言われるとなんか身構えちゃうけど、そう考えると親近感が湧きますね。今度ちゃんと読んでみようかな?」
「当時の人々にとって身近で誰でも知っている『物語』が聖書だったのね、きっと。大まかな内容を知りたければ安彦良和の『JESUS』って漫画も読みやすくて良いわよ。
聖書そのままだととっつきにくくても、現代的な感覚で書かれている漫画ならわかりやすいから」
とりとめもない話をしながら、手早く返却された書籍を台帳と照合し終わると、さほど広くもない図書室のあちこちに戻していく。
「う~ん、なかなか届かないなぁ……きゃっ」
精いっぱい背伸びをして本を高い棚に戻そうとしていた詩織はバランスを崩して後ろにひっくり返りそうになってしまった。
わたわたと本を持ってない方の手を振り回してなんとか態勢を整えようとするが、うまくいかないまま慌てて駆けつけた武に受け止められた。
「ありがとう、助かったわ」
がっしりとした腕に支えられ、心臓がばくばくと言っているのは転びそうになったからか、それとも他の理由なのか。かぁっと自らの頬が熱くなるのには気付かぬふりをして、詩織は慌てて礼を言う。
「いえ、間に合って良かった」
にかっと笑う武も心拍が早いのは慌てて駆けつけたからだろうか。
二人とも早鐘のような鼓動を重ねながら、微かに頬を染めてしばし見つめあい……
ふと我に返って慌てて身を離した。
「これ、戻しておきますね」
詩織が持ったままの本をひょいと受け取ると、武はこともなげに元の本棚に戻した。さすがはサッカー部エース、女子の中でも小柄な詩織とは身長も腕の長さも全く違う。
「ありがとう、助かったわ」
「良かった。次に借りる本決まったので手続きお願いでいますか?」
差し出されたのは白い表紙に赤い線で抽象的なスニーカーの絵がそっけないタッチで描かれた文庫本。飾り気のない文字で『貧しき人々』とタイトルが書かれている。
ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作だ。
「あら、次はドストエフスキーなのね。わたしも大好きなのよ」
「そうなんですね。俺、読んだ事ないから楽しみです」
「うふふ、少し変わった小説だけど、短いしドストエフスキーの中ではとても読みやすい作品だからきっと面白いわよ」
何気ない日常が綴られた手紙のやりとりの中でさりげなく密やかに囁かれる、純粋な愛の言葉の数々を、彼はどのように受け止め、どのような表情で語るのだろうか?
その姿を思い浮かべると、詩織は自然に柔らかな笑みを浮かべていた。
詩織のどこか遠くを見つめるような、うっとりとした笑みを浮かべる姿を前に、武も気づかぬうちに穏やかな笑みを浮かべている。愛おしむような、温かな笑みはいつも貼り付けた人好きのする笑顔とは全く違った柔らかく自然なものだ。
自分が他の誰にも見せたことのない素のままの笑みをここでだけ浮かべている事にも気付かぬまま、武はある事実を詩織が見出すかどうか密かに期待していた。
「あら、これ前に借りたの私なのね。……というか、ここ数年で借りたの私と宇佐美君だけだわ」
そういえば先ほど返却されたリルケも、その前返却されたクンデラもそうだった。ジャンルや作者、作風はまちまちだけれども、どれもここ数年で読んだのは詩織と武の二人だけ。
もしかして、私しか触れていない本を選んでくれているのかも。
そんな想いを抱いたのはほんの一瞬。
まさか。だって学校中の女子の憧れの彼と地味で本だけが友達の自分ではとても釣り合わない。
「うふふ、私たちとても好みが合うのね。また感想聞かせてね」
嬉しそうに言う詩織に、武も微笑んで頷いた。
「はい、返却日は二週間後の二月十日よ」
「ありがとうございます。もう帰れそうですか?」
「ええ、後は鍵を締めるだけ」
「それじゃ送りますよ。俺のせいで遅くなって、すっかり暗くなっちゃったから」
武は何気なさを装って申し出ると、当たり前のように彼女の鞄を持つ。
受け取る時に手と手が一瞬だけ触れ合って、そういえばさっきはいい匂いがしたな、と脳裏をちらりとよぎった想いを慌てて打ち消した。
「先輩、いつも俺の感想聞いてくれてありがとうございます」
「宇佐美君こそ、いつも聞かせてくれてありがとう。私とっても楽しみにしているのよ」
二人とも、言葉に隠した想いが相手に届くのはいつの日になるのやら。
それでも、今はこの距離感が心地良い。
さあ、次はどんな物語との出会いを語ろうか。
詩織《しおり》は一人溜息をついた。
(今日も借りに来る人、ほとんどいなかったな……)
読書好きの詩織は同じように本が好きな友達が欲しくて図書委員会に入ったのだが、周囲は「とりあえず楽そう」という理由で入っていたり、本を読まない訳ではないがライトノベルばかりで詩織の好むような文芸作品やハードなSFは読まない生徒がほとんどだったのだ。
おかげで好きな本について心行くまで語り合える友人にはまだ巡り会えていない。
(薔薇の名前とか、ドストエフスキー全集とか、いい本がたくさんあるのにもったいない……)
せっかくの良書も読む人がいなければ宝の持ち腐れである。
窓から差し込む夕陽で茜色に染まる図書室もそろそろ閉館時間。今日も貸し出されたのはいわゆるWEB系ライトノベルばかりで、後はレポートに必要な資料くらい。
(ライトノベルも好きなんだけど、たまには他の作品の話もしたいな)
少し残念に思いながらも閉館の準備に取り掛かる。
今日返却された本を台帳と照らし合わせてチェックして、戻す場所に合わせてそれぞれ箱に入れて分類して……
そうこうするうちに、窓の外は真っ暗になっていた。『閉館しました』の札を入り口にかけようと、ドアのノブに手をかけたその時。
勢いよくドアが開いてしこたま額をぶつけてしまった。
「あ、牟佐先輩、すみません。大丈夫ですか?」
慌てた様子の少年が可哀そうなほどおろおろと狼狽えながら謝罪してくる。
「あら宇佐美君、部活の帰り?」
少し赤くなった額をさすりながら詩織が問うと、少年は照れくさそうに目を伏せながらうなずいた。
額や頬に少しだけ泥がついたままになっているのは本人は気付いていないらしい。
無理もない。サッカー部のエースである彼は毎日早朝から暗くなるまで、授業以外の時間はほとんどが部活に費やされている。自分の身なりに気を遣っている余裕などないだろう。
「はい、大会が近いので練習が長引いてしまって……まだ返却できますか?」
「いいわよ、まだ閉めてなかったから。中に入って」
詩織が促すと、宇佐美はいそいそと図書室に入って来た。
スポーツバッグから取り出したのは、いかにも活発そうな彼の印象とは似つかわしくない古びた文庫本。
タイトルは『マルテの手記』。オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの唯一の長編小説だ。
散文詩を思わせる断片的な物語を多層的に積み重ねる事で、孤独や不安、生の在り方や死への恐怖と言った様々なモチーフが語られる。
一見無秩序に並べられた物語の断片たちは、統一した像を持たないが故にその合わない焦点の奥にままならぬ現実の姿を映すが、その真実の生と愛の物語を読み解くにはなかなかに根気と思索とを必要とする。
「はい、宇佐美 武くんからの返却を確かに受け付けました。……読んでみてどうだった?」
本を受け取って手早く返却手続きを済ませた詩織が、上目遣いに感想を聞く。眼鏡越しに澄んだ円い瞳と視線が絡んで、武はかぁっと頬に血液が上ってくるのを感じ、慌てて目をそらした。
「正直、一度読んだだけではわかりませんでした。でも、最後の話だけなんとなくいいなって」
「愛を拒んだ放蕩息子の帰還ね」
「うまく言えないんだけど、ズレてるって言うか、親にも友達とかにもすごい好かれてて評価されてるのはわかってても、なんか違うって言うか」
一言ひとこと一生懸命考えこみながら、たどたどしくも自分の想いを丁寧に言葉にする。そんな武に詩織は微笑みながら静かにうなずいて話を聞く。
「みんな本当の俺がどんな奴かなんてどうでも良くて、自分が見たい姿を俺に重ねてるだけって言うか。
誰も俺の事なんか見てなくて、そんな奴らに好きって気持ちを返してやることもできなくて、それがすごく嫌だったんですけど。
それでもいいんだな、そう感じてるのは俺だけじゃないんだなって思えたらすごい楽になりました」
「そっか。それはとても素敵な出会いだったね」
武の不器用ながらも率直な感想に、詩織は花の開くような微笑を浮かべた。
長い黒髪を校則通りの三つ編みにきっちりと結って、眼鏡をかけた化粧っ気のない彼女は決して華やかな美人ではないが、ふとした瞬間に見せる素のままの表情には何とも自然な愛らしさがある。
花にたとえるならば路傍に咲く雛菊や菫の美しさだ。
大きな丸い瞳を三日月の形に細めて嫣然と微笑む彼女に、武の口許もいつの間にか緩んでいた。
「はい。なんか賢くなったとか面白かったとかじゃないんだけど、ちょっとだけ肩の力が抜けた感じがします。
ちょっとしんどかったけど、最後まで読んでみて本当に良かった」
サッカー部のエースと言うイメージに反して、宇佐美は意外にも純文学を好んで借りて行く。彼が本の返却時に不器用ながらも感想を述べるたび、同志を見つけたような気になって詩織の心が明るく浮き立っているのは、彼女だけの大切な秘密だ。
「そう言ってくれて嬉しいな。今日も何か借りていく?」
「そうしたいですが、もう閉める時間じゃ?」
「まだ大丈夫よ。返却されたものの整理が終わってないから作業の間に次の本を探しておいてくれる?」
もう少しだけ一緒にいたくて、また返却しに来てほしくて。
詩織は閉館作業を少しだけ遅らせることにした。
「次は何を借りようかな?なんか読んでて『羊飼い』とか『天の父』とかいう言葉がいっぱい出てきて、慣れるまで何の事だかわからなかったけど、聖書の話なんですね」
「これが書かれた頃のヨーロッパはみんなキリスト教徒だったからね。誰でも聖書の話は知っているのが当たり前だったから、当たり前のように聖書の逸話が出てくるお話が多いのよね。社会の共通認識だったから。
今だとトラックに轢かれると異世界に転移したり、悪役令嬢は本当は悪い人じゃなかったりするようなものかしら」
「聖書の逸話が、って言われるとなんか身構えちゃうけど、そう考えると親近感が湧きますね。今度ちゃんと読んでみようかな?」
「当時の人々にとって身近で誰でも知っている『物語』が聖書だったのね、きっと。大まかな内容を知りたければ安彦良和の『JESUS』って漫画も読みやすくて良いわよ。
聖書そのままだととっつきにくくても、現代的な感覚で書かれている漫画ならわかりやすいから」
とりとめもない話をしながら、手早く返却された書籍を台帳と照合し終わると、さほど広くもない図書室のあちこちに戻していく。
「う~ん、なかなか届かないなぁ……きゃっ」
精いっぱい背伸びをして本を高い棚に戻そうとしていた詩織はバランスを崩して後ろにひっくり返りそうになってしまった。
わたわたと本を持ってない方の手を振り回してなんとか態勢を整えようとするが、うまくいかないまま慌てて駆けつけた武に受け止められた。
「ありがとう、助かったわ」
がっしりとした腕に支えられ、心臓がばくばくと言っているのは転びそうになったからか、それとも他の理由なのか。かぁっと自らの頬が熱くなるのには気付かぬふりをして、詩織は慌てて礼を言う。
「いえ、間に合って良かった」
にかっと笑う武も心拍が早いのは慌てて駆けつけたからだろうか。
二人とも早鐘のような鼓動を重ねながら、微かに頬を染めてしばし見つめあい……
ふと我に返って慌てて身を離した。
「これ、戻しておきますね」
詩織が持ったままの本をひょいと受け取ると、武はこともなげに元の本棚に戻した。さすがはサッカー部エース、女子の中でも小柄な詩織とは身長も腕の長さも全く違う。
「ありがとう、助かったわ」
「良かった。次に借りる本決まったので手続きお願いでいますか?」
差し出されたのは白い表紙に赤い線で抽象的なスニーカーの絵がそっけないタッチで描かれた文庫本。飾り気のない文字で『貧しき人々』とタイトルが書かれている。
ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作だ。
「あら、次はドストエフスキーなのね。わたしも大好きなのよ」
「そうなんですね。俺、読んだ事ないから楽しみです」
「うふふ、少し変わった小説だけど、短いしドストエフスキーの中ではとても読みやすい作品だからきっと面白いわよ」
何気ない日常が綴られた手紙のやりとりの中でさりげなく密やかに囁かれる、純粋な愛の言葉の数々を、彼はどのように受け止め、どのような表情で語るのだろうか?
その姿を思い浮かべると、詩織は自然に柔らかな笑みを浮かべていた。
詩織のどこか遠くを見つめるような、うっとりとした笑みを浮かべる姿を前に、武も気づかぬうちに穏やかな笑みを浮かべている。愛おしむような、温かな笑みはいつも貼り付けた人好きのする笑顔とは全く違った柔らかく自然なものだ。
自分が他の誰にも見せたことのない素のままの笑みをここでだけ浮かべている事にも気付かぬまま、武はある事実を詩織が見出すかどうか密かに期待していた。
「あら、これ前に借りたの私なのね。……というか、ここ数年で借りたの私と宇佐美君だけだわ」
そういえば先ほど返却されたリルケも、その前返却されたクンデラもそうだった。ジャンルや作者、作風はまちまちだけれども、どれもここ数年で読んだのは詩織と武の二人だけ。
もしかして、私しか触れていない本を選んでくれているのかも。
そんな想いを抱いたのはほんの一瞬。
まさか。だって学校中の女子の憧れの彼と地味で本だけが友達の自分ではとても釣り合わない。
「うふふ、私たちとても好みが合うのね。また感想聞かせてね」
嬉しそうに言う詩織に、武も微笑んで頷いた。
「はい、返却日は二週間後の二月十日よ」
「ありがとうございます。もう帰れそうですか?」
「ええ、後は鍵を締めるだけ」
「それじゃ送りますよ。俺のせいで遅くなって、すっかり暗くなっちゃったから」
武は何気なさを装って申し出ると、当たり前のように彼女の鞄を持つ。
受け取る時に手と手が一瞬だけ触れ合って、そういえばさっきはいい匂いがしたな、と脳裏をちらりとよぎった想いを慌てて打ち消した。
「先輩、いつも俺の感想聞いてくれてありがとうございます」
「宇佐美君こそ、いつも聞かせてくれてありがとう。私とっても楽しみにしているのよ」
二人とも、言葉に隠した想いが相手に届くのはいつの日になるのやら。
それでも、今はこの距離感が心地良い。
さあ、次はどんな物語との出会いを語ろうか。
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みんなの感想(3件)
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