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ゲームの始まり
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樹は、中堅大学の普通の学生だった。成績も普通、人づきあいも普通だ。
極力、目立たないようにしていたこと以外、なに一つ特別な努力などしていなかった。
ネットで受けた予備試験が思いのほか好成績だったようで、「オリゾン」の採用官が面接をしてくれることになった。
「オリゾン」について、特別、知識があったわけではない。フランスの企業で、世界的な大手だという以外のことは知らなかった。
たまたま、予備試験の内容が樹の興味を惹いて、面白半分に、パソコンで回答をしただけだ。樹にとってはゲームをするのと変わりなかった。それが、おそらく良い成績だったのだろう。昔からテストは得意だった。
採用官が指定した会場は、ビジネスホテルの一室だった。待っていたのは、一見、男物かと思うような黒いスーツを身に着けた、赤毛の小柄な外国人女性だった。室内なのに、その女性はサングラスをかけていて、瞳の色はわからなかった。
その外国人女性は、部屋の真ん中に椅子を置いて、樹に座るよう勧めた。
ベッドの上に、スーツケースが投げてあった。
たぶん到着して間もなくで、それに長く逗留する気もないようだった。
尋問するように、そのビジネススーツの女性は、背後に立って、それから、冷たい声で言った。
「あなたには適性があるわ、日下部樹――」
その女性は、完璧な日本語を発した。何枚かの紙を繰る音がした。テストの結果か、それとも身元を調べたレポートでも見ていたのかもしれない。
「――両親は離婚、あなたはそのどちらとも距離を置いているようね。兄弟はなく、親しい友人もいない。目立つ女性関係もなく、成績優秀者でもなく、スポーツも嗜む程度、趣味はなく、いかなるコミュニティにも属していない……まるで擬態ね。あなたはいったい何を恐れているの?」
「……べつになにも。調べたのですか」
「素性を確認するのは当たり前のことだわ。コミュニティでは目立たない存在を演じていながら、ネットでのテスト結果は、恐ろしく優秀ね、もしかして隠す必要がなかったから?」
「ありがとうございます。でも、ぼくがやったのは、ただの知能テストで……べつに仕事の適性を図るようなテストでは……」
ネットでのテストは、物事に隠された法則性を探すような、ありきたりのMENSAテストみたいな代物だった。
図形、記号的な設問とは別に、言語的な問題も用意してあって、設題は、回答者の偏向、例えば政治的信条とか、同性愛に対する見解や、暴力への嫌悪感、そういった人間的感情で罠をかけるような意地の悪い物が多かった。
「そのありきたりなテストに全問正解したのは世界で三人だけ、そのうち一人は連続殺人事件の服役囚。世間で言う、いわゆるサイコパスね。もう一人は精神病院から出ることのできない『無能力者』よ。その人間は自分で下着を替えることすら出来ないの。大人しくなるのは、パソコンのモニターに向かっている時だけ」
「……採用の試験だと、お伺いしていたのですが」
その女性は、樹の質問になどに頓着しなかった。
「エレベーターを降りてから、この部屋に入るまでにすれ違ったのは何人?」
「三人です」
「性別は? 彼らの職業はわかった?」
「一人は女性で……掃除婦のようでしたけど、たぶん警察官。一人は男性でホテルの職員です。もう一人も男性で……あなたの部下ですか? 普通の男性は、通路ですれ違いざまに、親し気に話しかけてきたりはしません。男性には警戒距離という物がありますから」
「どうして警察官だと思ったの?」
「だって、腰に銃を身に着けていましたから」
背後で衣擦れの音がした。面接官は服を脱いでいるようだった。樹は身の危険を感じた。今、この状況で服を脱ぐ理由は、あまり多くは思いつかない。とつぜん発情したのかもしれないし、例えば一つの理由として、返り血を浴びても着替えなくて済むように、ということだって考えられる。
どちらも就職の面接とは関係のない事柄だ。
「大学を卒業する必要はないわ。給与は同等以上の査定を約束する。ただし、二週間後には研修に入ってもらう」
「急ですね……断ることは出来るのですか?」
全身の血液が、皮膚感覚が、危険を知らせていた。
樹はもう、タイミングを計っていた。なにが起こってるのかさっぱり分からなかったけれど、たぶん、ぼんやり座っていたら死ぬ。
「もちろんよ。ただし、今すぐに決めてもらう」
樹は、かかとで地面をけり、椅子と一緒に、背中側へ倒れこんだ。考えている暇は無かった。
意外なことだけれど、その女性は、服を脱ぐという行為で予想するナイフではなく、拳銃を構えていた。まるで樹がそうすることを理解していたかのように三歩下がり、仰向けに倒れた樹は、暗い銃口を覗いた。
面接官は、下着だけの姿だった。サングラスを外して床に落とした。瞳は底が知れない藍色だった。
「やはり、適性は明らかだわ、日下部樹」
「なんなんだ、いったい……」
わけが分からなかった。オリゾンは普通の会社とは違うのか? この女はいったいなんなんだ。
「起きなさい、日下部樹。これが最初の報酬よ」
面接官は、そう言いながら下着から足首を抜いた。自分の姿が男性にとってどのように映るか、とてもよく理解しているようで、彼女は自信たっぷりの笑みを作った。それが、ゲームの始まりだった。
極力、目立たないようにしていたこと以外、なに一つ特別な努力などしていなかった。
ネットで受けた予備試験が思いのほか好成績だったようで、「オリゾン」の採用官が面接をしてくれることになった。
「オリゾン」について、特別、知識があったわけではない。フランスの企業で、世界的な大手だという以外のことは知らなかった。
たまたま、予備試験の内容が樹の興味を惹いて、面白半分に、パソコンで回答をしただけだ。樹にとってはゲームをするのと変わりなかった。それが、おそらく良い成績だったのだろう。昔からテストは得意だった。
採用官が指定した会場は、ビジネスホテルの一室だった。待っていたのは、一見、男物かと思うような黒いスーツを身に着けた、赤毛の小柄な外国人女性だった。室内なのに、その女性はサングラスをかけていて、瞳の色はわからなかった。
その外国人女性は、部屋の真ん中に椅子を置いて、樹に座るよう勧めた。
ベッドの上に、スーツケースが投げてあった。
たぶん到着して間もなくで、それに長く逗留する気もないようだった。
尋問するように、そのビジネススーツの女性は、背後に立って、それから、冷たい声で言った。
「あなたには適性があるわ、日下部樹――」
その女性は、完璧な日本語を発した。何枚かの紙を繰る音がした。テストの結果か、それとも身元を調べたレポートでも見ていたのかもしれない。
「――両親は離婚、あなたはそのどちらとも距離を置いているようね。兄弟はなく、親しい友人もいない。目立つ女性関係もなく、成績優秀者でもなく、スポーツも嗜む程度、趣味はなく、いかなるコミュニティにも属していない……まるで擬態ね。あなたはいったい何を恐れているの?」
「……べつになにも。調べたのですか」
「素性を確認するのは当たり前のことだわ。コミュニティでは目立たない存在を演じていながら、ネットでのテスト結果は、恐ろしく優秀ね、もしかして隠す必要がなかったから?」
「ありがとうございます。でも、ぼくがやったのは、ただの知能テストで……べつに仕事の適性を図るようなテストでは……」
ネットでのテストは、物事に隠された法則性を探すような、ありきたりのMENSAテストみたいな代物だった。
図形、記号的な設問とは別に、言語的な問題も用意してあって、設題は、回答者の偏向、例えば政治的信条とか、同性愛に対する見解や、暴力への嫌悪感、そういった人間的感情で罠をかけるような意地の悪い物が多かった。
「そのありきたりなテストに全問正解したのは世界で三人だけ、そのうち一人は連続殺人事件の服役囚。世間で言う、いわゆるサイコパスね。もう一人は精神病院から出ることのできない『無能力者』よ。その人間は自分で下着を替えることすら出来ないの。大人しくなるのは、パソコンのモニターに向かっている時だけ」
「……採用の試験だと、お伺いしていたのですが」
その女性は、樹の質問になどに頓着しなかった。
「エレベーターを降りてから、この部屋に入るまでにすれ違ったのは何人?」
「三人です」
「性別は? 彼らの職業はわかった?」
「一人は女性で……掃除婦のようでしたけど、たぶん警察官。一人は男性でホテルの職員です。もう一人も男性で……あなたの部下ですか? 普通の男性は、通路ですれ違いざまに、親し気に話しかけてきたりはしません。男性には警戒距離という物がありますから」
「どうして警察官だと思ったの?」
「だって、腰に銃を身に着けていましたから」
背後で衣擦れの音がした。面接官は服を脱いでいるようだった。樹は身の危険を感じた。今、この状況で服を脱ぐ理由は、あまり多くは思いつかない。とつぜん発情したのかもしれないし、例えば一つの理由として、返り血を浴びても着替えなくて済むように、ということだって考えられる。
どちらも就職の面接とは関係のない事柄だ。
「大学を卒業する必要はないわ。給与は同等以上の査定を約束する。ただし、二週間後には研修に入ってもらう」
「急ですね……断ることは出来るのですか?」
全身の血液が、皮膚感覚が、危険を知らせていた。
樹はもう、タイミングを計っていた。なにが起こってるのかさっぱり分からなかったけれど、たぶん、ぼんやり座っていたら死ぬ。
「もちろんよ。ただし、今すぐに決めてもらう」
樹は、かかとで地面をけり、椅子と一緒に、背中側へ倒れこんだ。考えている暇は無かった。
意外なことだけれど、その女性は、服を脱ぐという行為で予想するナイフではなく、拳銃を構えていた。まるで樹がそうすることを理解していたかのように三歩下がり、仰向けに倒れた樹は、暗い銃口を覗いた。
面接官は、下着だけの姿だった。サングラスを外して床に落とした。瞳は底が知れない藍色だった。
「やはり、適性は明らかだわ、日下部樹」
「なんなんだ、いったい……」
わけが分からなかった。オリゾンは普通の会社とは違うのか? この女はいったいなんなんだ。
「起きなさい、日下部樹。これが最初の報酬よ」
面接官は、そう言いながら下着から足首を抜いた。自分の姿が男性にとってどのように映るか、とてもよく理解しているようで、彼女は自信たっぷりの笑みを作った。それが、ゲームの始まりだった。
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