28 / 85
色あせた遠い過去
しおりを挟む
隔離病室の未感染者は、二十四時間体制のテレビカメラで状態を確認されている。けれど、その映像を確認するのは担当の医師だけだ。
プライバシーを考えて、病室の窓ガラスは偏光して視界を遮るようになっていた。
普通の病室で言えばカーテンみたいな物だ。感染の疑いがある人でも、あるいは患者でも、着替えをしたり、人目を忘れてのびのびとしたい時はある。レヴィーンは年頃の女の子なんだからなおさらの事だ。
面会する人やスタッフは、音声で来訪を告げ、それから患者が判断して、窓ガラスの偏光を解除するようになっていた。もちろん面会を断ることも出来る。体調が悪かったり、不愉快な相手だったりしたら、べつに無理をして神経をすり減らす必要はない。
レヴィーンが隔離されている病室の窓は、液晶の偏光で、濃い紫色に光を閉ざしていた。
病室の前に立てば、センサが反応して、自動的に音声がつながる仕組みになっている。樹が視線を上げると、窓の上のランプは、通話状態であることを示していた。
一瞬、なにを言っていいのか分からなくて、逃げ出しそうになったけれど、このまま居なくなったら子供の悪戯のようなので、樹はなんとか踏みとどまって、ありきたりな言葉を口にした。
「レヴィーン……体はどう? どこも悪くない?」
返事が届くまで、ずいぶんかかった。戻ってきたのは、無理に作ったような明るい声だった。レヴィーンは偏光を解除してくれなかった。
「ぜんぜん元気よイツキ」
「よかった……」
「あの、ごめんね……わたし、寝起きでひどい顔してるから、ちょっと、今は見られたくないかな……ブラインドしたままで」
「うん、大丈夫だ」
レヴィーンを訪ねるのは、もう数え切れないくらいだけれど、いつもなにかの理由で、顔を見せてはもらえなかった。
避けられているのかな、とは思ったけれど、一日に数度、病室を訪れるのは、樹の日課になった。
そっけなかったけれど、レヴィーンも、べつに嫌がってはいない。たぶん、そうだと思う。そうだといいんだけれど。
「レヴィーンがいないから、みんな困ってるよ。特に食事とか」
笑う声が聞こえた。体が元気なのは本当らしい。
「イツキはカップメンだ。体壊しちゃうね」
「レヴィーン、あの……」
「もう行った方がいいよ、イツキ。イツキは忙しいんだから。あたしなんか、そんなに気にしなくても」
「……じゃあ、もう行くよ」
「もう、無理しないでね、イツキ」
いつも、話を終わりにするのはレヴィーンだった。
しつこくしたくはないので、イツキは窓ガラスの前から下がった。通話のランプが消えたので、レヴィーンはもう居なくなったと思っている。
でも、部屋の前からいなくなる事は出来なくて、イツキは壁にもたれて紫色の窓ガラスを見つめた。このガラスの向こう側にレヴィーンがいると思うと、どうしてかは分からないけれど、胸がつかえる感じがした。
いったい、なにをやっているんだ、ぼくは。
レヴィーンは、まだ少女と表現してもぜんぜんおかしくない年齢だったし、ここはレヴィーンの職場で、樹の職場でもある。
なにやってんだ、ぼくは。
そもそも樹は、自分のことを恋愛とか、仲間意識とか、そういう人間らしい感情とはまったく無縁の人間だと思っていた。このキャンプにやってきた理由だって……とても人に話せるような物ではなかった。
オリゾンは利潤の為には手段を択ばない、世間の言うとおりで、それは樹に言わせても、的外れとは思えない評価だった。
もちろん、レヴィーンに打ち明けられるはずなど、なかった。
いったいどこで間違えたのだろう、と日下部樹は思う。特別であろうとしたことなどなかった。ただ、気が狂ってしまいそうなほどの退屈から逃げ出したかっただけだ。
樹は、自分自身の目的を持たない人間だった。叶えたい夢もないし、譲れないような欲望も、理想も知らない。
今にして思えば、犬でも飼えばよかったのかもしれない。ペットはその日の命をつなぐ理由を与えてくれる。彼らはちゃんと毎日餌を与えてないと、生きていけない生き物だから。
実際に息をする理由を与えてくれたのは、ペットじゃなくてオリゾンだった。
オリゾンは、「理由」を与えてくれた。オリゾンが提示する「課題」は、樹にとってはゲームだった。自分にやれるかどうか、それを試すだけで、驚く速さで月日は過ぎて行った。
樹は、なにがいけなかったのだろう、と記憶の中を探った。最初の間違いは、たぶん大学四年生の秋だ。
まだ、それほど昔というわけではないのだけれど、その記憶は、もう色あせた遠い過去の出来事のようだった。
プライバシーを考えて、病室の窓ガラスは偏光して視界を遮るようになっていた。
普通の病室で言えばカーテンみたいな物だ。感染の疑いがある人でも、あるいは患者でも、着替えをしたり、人目を忘れてのびのびとしたい時はある。レヴィーンは年頃の女の子なんだからなおさらの事だ。
面会する人やスタッフは、音声で来訪を告げ、それから患者が判断して、窓ガラスの偏光を解除するようになっていた。もちろん面会を断ることも出来る。体調が悪かったり、不愉快な相手だったりしたら、べつに無理をして神経をすり減らす必要はない。
レヴィーンが隔離されている病室の窓は、液晶の偏光で、濃い紫色に光を閉ざしていた。
病室の前に立てば、センサが反応して、自動的に音声がつながる仕組みになっている。樹が視線を上げると、窓の上のランプは、通話状態であることを示していた。
一瞬、なにを言っていいのか分からなくて、逃げ出しそうになったけれど、このまま居なくなったら子供の悪戯のようなので、樹はなんとか踏みとどまって、ありきたりな言葉を口にした。
「レヴィーン……体はどう? どこも悪くない?」
返事が届くまで、ずいぶんかかった。戻ってきたのは、無理に作ったような明るい声だった。レヴィーンは偏光を解除してくれなかった。
「ぜんぜん元気よイツキ」
「よかった……」
「あの、ごめんね……わたし、寝起きでひどい顔してるから、ちょっと、今は見られたくないかな……ブラインドしたままで」
「うん、大丈夫だ」
レヴィーンを訪ねるのは、もう数え切れないくらいだけれど、いつもなにかの理由で、顔を見せてはもらえなかった。
避けられているのかな、とは思ったけれど、一日に数度、病室を訪れるのは、樹の日課になった。
そっけなかったけれど、レヴィーンも、べつに嫌がってはいない。たぶん、そうだと思う。そうだといいんだけれど。
「レヴィーンがいないから、みんな困ってるよ。特に食事とか」
笑う声が聞こえた。体が元気なのは本当らしい。
「イツキはカップメンだ。体壊しちゃうね」
「レヴィーン、あの……」
「もう行った方がいいよ、イツキ。イツキは忙しいんだから。あたしなんか、そんなに気にしなくても」
「……じゃあ、もう行くよ」
「もう、無理しないでね、イツキ」
いつも、話を終わりにするのはレヴィーンだった。
しつこくしたくはないので、イツキは窓ガラスの前から下がった。通話のランプが消えたので、レヴィーンはもう居なくなったと思っている。
でも、部屋の前からいなくなる事は出来なくて、イツキは壁にもたれて紫色の窓ガラスを見つめた。このガラスの向こう側にレヴィーンがいると思うと、どうしてかは分からないけれど、胸がつかえる感じがした。
いったい、なにをやっているんだ、ぼくは。
レヴィーンは、まだ少女と表現してもぜんぜんおかしくない年齢だったし、ここはレヴィーンの職場で、樹の職場でもある。
なにやってんだ、ぼくは。
そもそも樹は、自分のことを恋愛とか、仲間意識とか、そういう人間らしい感情とはまったく無縁の人間だと思っていた。このキャンプにやってきた理由だって……とても人に話せるような物ではなかった。
オリゾンは利潤の為には手段を択ばない、世間の言うとおりで、それは樹に言わせても、的外れとは思えない評価だった。
もちろん、レヴィーンに打ち明けられるはずなど、なかった。
いったいどこで間違えたのだろう、と日下部樹は思う。特別であろうとしたことなどなかった。ただ、気が狂ってしまいそうなほどの退屈から逃げ出したかっただけだ。
樹は、自分自身の目的を持たない人間だった。叶えたい夢もないし、譲れないような欲望も、理想も知らない。
今にして思えば、犬でも飼えばよかったのかもしれない。ペットはその日の命をつなぐ理由を与えてくれる。彼らはちゃんと毎日餌を与えてないと、生きていけない生き物だから。
実際に息をする理由を与えてくれたのは、ペットじゃなくてオリゾンだった。
オリゾンは、「理由」を与えてくれた。オリゾンが提示する「課題」は、樹にとってはゲームだった。自分にやれるかどうか、それを試すだけで、驚く速さで月日は過ぎて行った。
樹は、なにがいけなかったのだろう、と記憶の中を探った。最初の間違いは、たぶん大学四年生の秋だ。
まだ、それほど昔というわけではないのだけれど、その記憶は、もう色あせた遠い過去の出来事のようだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる