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第十二節

お前は早魚などではない。母はお前を「かすみ」と名付けた。美しく穏やかで万人に癒やしと糧をもたらしてくれる霞ヶ浦に因んでな。かすみ、我が妹よ

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承前

「頼めるのか…俺はほんとに霞ヶ浦に帰っていいのか」
「大殿様のご下命を、今度は玄蕃様が早魚にお命じ下さいませ。必ずや果たしてお見せします」
「が…しかし…でも」
 朦朧(もうろう)しつつも、思い切れない小一郎の体を無言のまま早魚は包みこんだ。
「大殿のご下命は…ご下命…は…播磨の赤…」
「播磨の赤…なんです…はっきりとおっしゃって」
「赤松殿に…」
 まさにその刹那、早魚の後ろに黒い影が梁から落ちてきた。黒い影は、早魚を後ろから羽交い締めにした。
「狐、大した化けっぷりだな。玄蕃をこれほどに籠絡するとは」
 黒い影は玄明、手にした苦無(くない)は早魚の喉笛に押し当てられていた。
「このまま抉(えぐ)ってもいいが、俺には女子供を殺る趣味は無ぇ。玄蕃から離れな、いいな、ゆっくりとな」
 早魚の手が小一郎の背中を離れ、早魚の体がゆっくりと後ろにさがる気配を見せた。
「狐、いい分別だ。逆にお前に尋ねたいことが山程あ…、ウッ」
 羽交い締めにしていた玄明の腕(かいな)を早魚の体がスルリと抜けた。抜け出る瞬(またたき)の間に早魚の肘が玄明の鳩尾(みぞおち)を撃った。
「やるな、狐。なら、こっちも本腰にしねぇとな」
「狐と呼ぶな」
「生意気な狐だ、本気で遊んでやる。名はなんと云う」
 早魚は名を云いかけたが、言い淀み、
「名などない」
 玄明と早魚は、狭い座敷の端と端で睨みあった。
「すまぬ、重蔵。とんだ不覚を…」
 小一郎が刀を抜き青眼に構えた。だが、その眼の焦点は定まっていなかった。
「この狐の男を誑かす術は一級品だ、気にするな。それより、外にまだ狐の仲間がいる。そっちをなんとかしてくれ」
「わかった、なんとかする」
 小一郎が、三和土に出る障子を開け放つと、丸腰の鷹丸が立っていた。
「お前、得物(えもの)は…」
 小一郎はふらつきながらも、いつでも抜き上げられるよう下段に構えた。
「俺の得物はこれよ」
 手首に巻かれたなめし革からごく短い刀身が突出している。
 鷹丸は膝を折り低く身を沈め、両手を鳥の翼の如く左右に大きく広げた。さながら、狩りをする猛禽が低空滑空する姿だった。
「そいつは、唐土(もろこし・中国)の拳法の一つ鷹爪拳(ようそうけん)だ。すばしっこいぞ。後ろを取られたら喉を切られる」
 小一郎は壁を背にする位置に身を移した。
「人の心配をしてる場合か。参るぞ」
 早魚は背面に手を廻し腰に挿した小太刀を抜いた。
「ほう、乱破にしてはめずらしいな。小太刀使いか、狐、武家の出か」
 もう余計な口はきかず、早魚はまっすぐ突いて来た。狭い屋内で振りかざすと、はずみで柱や梁に刃を食い込ませてしまう恐れがある。よく鍛錬してあると玄明は感心した。玄明が一の太刀を躱す。続いてニの太刀、三の太刀もギリギリで躱しながら早魚との間合いを詰めた。とうとう、二人の距離が半間(約90センチ)にもなろうとした。更なる一突きをと構えた早魚、玄明は懐から出した黒い粉の一握りを早魚の顔面に投げた。
「なんだこれは、卑怯な真似するな」
 目の周りを擦る早魚の手や顔面が真っ黒に染まった。
「安心しろ、ただの炭の粉だ、洗えば流れる」
 素早く早魚の背後に廻った玄明が早魚を後ろ手に縛った。早魚の罵声は猿轡(さるぐつわ)で封殺された。
「こっちは片付いたぞ、そっちはどうよ」
 まだ朦朧としている小一郎は鷹丸の攻めを受け流すのが精一杯だった。それでも鋭い鷹丸の拳と短刀を確実に見切って体を捩(よじ)っていた
「才賀丸、そこにいるんだろ。この女に訊きたいことがある。訊くだけ聞いたら解き放つ。もう手を引け」
「止めよ、鷹丸」
 才賀丸がゆっくりと座敷に身を入れる。
「玄明、よくわかったな」
「誑かし薬に鷹爪拳…、こんな異端の技を使う乱破は、お前の一党しかおらん」
「帰るぞ、鷹丸。…これは土産だ、貸とく。玄明、受け取れ」
 踵を返した才賀丸が、盲撃ちで手裏剣を放った。
 咄嗟の反応で、玄明が苦無で手裏剣を弾いた。
「頭(かしら)、早魚を見捨てるのか…、俺にはできん。おのれ玄明、死ねぇ」
 と、云うが早いか、縛られた早魚を飛び越えて、玄明と早魚の間に鷹丸が割って入った。飛び込む様に玄明の脳天に向かって得物を撃ち込んだ。
「乱破が頭に背くは許されんぞ、若造…いい度胸だ」
 鷹丸の懸命の一撃を、玄明は苦無一本で軽く払った。
 刀を杖にして立っていた小一郎が、
「鷹丸とやら、止めとけ。ふらふらの俺でもわかるぞ。お前と重蔵では力量が違い過ぎる。女は必ず解き放つ。約定だ」
「かならずや助けに来る。待ってろよ早魚。お前等、早魚に指一本でも触れてみろ。この世の果てまでも追い詰めて息を止めてやる。忘れんな」
「わかったよ。指一本触れやしないよ」
 無造作に転がっている早魚を座らせた玄明が、
「狐、こいつはお前に惚れているな。しかも馬鹿がつくほどよ」
「何を戯言を」
 と吼え、また鷹爪拳の構えを取った鷹丸に才賀丸が怒鳴った。
「退け鷹丸、命令だ」
「頭…」
「退けと云ったはずだ。わからんのか」
 才賀丸は後ろも見ずに、鷹丸は玄明を睨み据えたまま木賃宿を出て行った。

「さてと…話してくれ。誰に何を頼まれた。雇い主は誰だ」
 小一郎が尋ねた。まだ薬が効いているのか頭を左右に何度か振った。
「鍛えられた乱破にそのような真似をしても口など割らぬ」
「ならどうするのだ、重蔵」
「決まっている。お前がされたと同じよ」
 早魚の背から小太刀を奪った。小太刀の目釘を外し柄を抜いた。柄の中から油紙の包みが二つ出てきた。
「これが俺を腑抜けにした薬か…」
「小一郎、すまぬが椀で水を汲んできて貰えまいか。俺は薬の調合をする。この薬は少しでも分量を間違えると人を廃人にしてしまう。」
 小一郎はわかったと云い、井戸端に水を汲みに行った。
細心の注意を払っての調合を終えた玄明が、
「その若さでこれを自由自在に扱えるとは…狐、余程の修行であったろうの」
「狐はやめろ。お前などに処方ができるものか。いっそ早く殺せ」
 早魚は少しもがいたが、直ぐ大人しくなった。
「汲んできたぞ」 
 椀を受け取った玄明が少しづつ飲み、水量を調整した。先ほど混ぜた二種類の薬を椀の水に落とした。
「小一郎、狐を後ろ手に抑えてくれ。俺が狐の口を開き流し込む」
「重蔵、何もそこまでしなくともいいのではないか…」
「乱破の習性は乱破にしかわからぬよ。ここは俺の指図に従ってくれ。なに、大丈夫だ、死なないよう調合した。」
「……」 
小一郎が意を決して早魚の後ろに廻り、体を抑えた。
「さあ、いいな」
 玄明は早魚の顎のつけ根を強く押さえて口を開けようとしたその時、早魚は競り上がり頭頂で小一郎の顎を突き上げた。不本意だった小一郎の抑え込む力が弱かった。
「なめるな」
 そう叫んだ早魚が後ろ手のまま逃げようとした。その出足を玄明が足で払う。二人が折り重なって座敷に転がった。玄明が早魚を組み敷く形で停まった。
「大人しくし……うっ…」
 絶句した玄明の視線の先には、早魚の胸元からこぼれでた護り袋があった。
「お前、それをどこで…」
「何を云ってる。さぁ早く殺せ」
「そんなのはどうでもいい。答えろ…お前が首から下げている護り袋、どこで手に入れた。答えろ」
「物心ついた時にはもう首から下げていた。それがどうした」
 早魚の護り袋は、色も艶もとうに抜け落ち黒く煤けてしまっていたが、香取神宮神紋の五七乃桐の透かし染めが微かでも判別できた。生地は緞子(どんす)、織りは金襴(きんらん)。一見、ボロ布に見えるが、どこにでもあるような品ではなかった。
「これをよく見ろ」
 早魚を抑え込んでいるのも思慮の外、早魚の前にどっしりと座った玄明は、自分の胸元から護り袋を出して、早魚の面前で下げた。
 生地も織りも神紋も瓜二つに似た造りだった。いや、全く同じだった。
「お前の名前は、早魚なんかじゃないぞ。母はお前に「かすみ」と名付けた。美しく穏やかで万人に癒やしと糧をもたらしてくれる霞ヶ浦に因んでな。かすみ、我が妹よ」
 玄明はそう云ったきり、中空を睨むばかりであった。

次回ヘ続く

※この物語は史実をベースにしておりますが、筆者の創作も多分に盛り込まれております。読者諸兄には何卒ご了承くださいませ



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