柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 7】

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 大原家の次女であり、吾輩にとって台風的存在の真紀が姿を現した。

(ゲッ、真紀だ。やばい、眼を合わさないようにしよう……)

 吾輩は瞬時に眼をそらす。
 吾輩が人間であるなら、ここは口笛でも吹いて、真紀の気をそらせたいところだが、そうもいかない。
 アニメの犬のようにはいかないのだ。
 そしらぬ顔でやり過ごすしかない。
 
 だが、

 どうやら真紀の視線は、吾輩にロック・オンしてしまったらしい。
 真紀が縁側から降りてくる。

(おお、神よ……)

 吾輩は天を仰ぎたい気分だった。
 真紀はサンダルを履くと、「パタパタ」と音を立ててやってきた。

「ゴンタ、あそぼ」

 この「あそぼ」が地獄の始まりなのである。
 真紀は吾輩の前にしゃがむと、ジッと見つめてきた。
 吾輩は眼を合わさないようにする。

(今日は、なにをする気だ……)

 なにをされるのかと思うと、鼓動が激しくなる。
 と、真紀の両手が伸びてきた。

(あがッ、あががが……)

 真紀は、吾輩の口を無理やり上下に押し開いた。

(なな、なんということをする娘だ……)

 吾輩はたまらず嫌々をするが、真紀はそれを許さない。

(うぐぐぐッ、小娘め……)

 とはいえ、彼女はまだ子供なのだ。
 手荒なことはできない。
 真紀もそれを知ってか知らずか、吾輩の口をさらに上下へ開こうとする。

(ひゃ、ひゃめてふれ……)

 吾輩は真紀の小さな手を傷つけないように、なんとか逃れる。
 危うく顎(あご)が外れるところだった。
 そう思ったのもつかの間、次の攻撃が仕掛けられてくる。

(なんだ、おい、やめろ。そこはダメ、こそばゆい……)

 真紀は吾輩の弱点であるわき腹をくすぐりはじめた。

(うひょ、だから、ちょっと、そこはダメだっての。わ、わき腹を、おい、くすぐるな。真紀、こら、やめ、やめて、お願い。おねが、うひょ、うひょひょひょひょ……)

 と、ふいに攻撃の手が止み、そして新たな攻撃が仕掛けられてきた。

(なな、今度はなんだ……)

 真紀の腕が吾輩の首に回される。

(うッ、ぐ、ぐるじい……)

 なんと真紀は、スリーパー・ホールドを仕掛けてきた。それもチョーク・スリーパーである。

(うごッ、息が、で、できない……)

 あまりの苦しさに、吾輩は死に物狂いでタップする。

「どうだ、ゴンタ。ギブアップか」

(だ、だから、タップしてるだろっての。うぐッ……ううッ、意識が薄れていく。身体の力が抜けていく。ああ……)

 と、突然、眼の前に一面の花畑が広がった。
 その花畑の中には、吾輩と同じ柴犬の姿があった。
 それは、幼い日に忘れ去ってしまった、断片的に残る母の姿だった。

(かあさん……)

 吾輩は母を呼んだ。
 だが、母はそれに応えてくれない。

(かあさん、ボクだよ。わからないの?……)

 紗がかかった母の顔は、微笑みを浮かべている。

(おかあさーん!)

 そう呼びかけた、そのとき、母の声が返ってきた。

「真紀! なにしてるの! そんなことしたら、ゴン太が死んじゃうじゃないの!」

 と思ったらそれは母ではなく、ママの声だった。
 ママは裸足のまま慌てて縁側から降りてきて、真紀の腕を吾輩から引き離した。
 それでやっと、首が解放された。

(ハァ、ハァ、ハァ、死ぬかと思った……)

 ママが助けにきてくれなかったら、吾輩は死んでいたかもしれない。
 いや、確実に死んでいただろう。
 人間の子供というのは、どうしてこうも加減というものを知らないのだろうか。
 これでは、命が幾つあっても足りはしない。
 息を荒げながら、吾輩は真紀を横目で見やった。
 真紀には悪びれた様子もない。
 それどころか、さらにシッポを掴もうとしてくる。

(おいおい、やめろって!)

 吾輩はそれを逃れる。

「こら、真紀! いいかげんにしなさい。ゴン太が可哀相でしょう。もう、お姉ちゃんと遊んでなさい」

 ママが真紀の身体を抑えて窘める。
 吾輩はすぐさま、ママの背に身を隠した。

「だって、マキはゴンタとあそびたいんだもん」
「だったら、もっとやさしくしてあげないと」
『あ、ママさん、ダメ。真紀がやさしくなんてありえないから。吾輩は殺されてしまう』

 吾輩はママを見上げて訴える。

「とにかく、お姉ちゃんに遊んでもらいなさい」

 どうやら、吾輩の思いが通じたようだ。

「でも、おねえちゃん、マンガばかりよんでてあそんでくれないもん。マキつまんない」

 真紀は不満を言いながら、頬を膨らませた。

「じゃあ、わかったわ。おとなしくするんだったら、冷蔵庫のプリンを食べてもいいわよ」
「ほんと!」

 プリンと聴いたとたん、真紀の顔がパッと明るくなった。
 プリンなるものは、よほど美味いものであるに違いない。

「でも、お姉ちゃんには内緒よ」
「うん。やった!」

 すぐさま真紀は縁側へと走っていった。
 ばかめ。
 いとも簡単に、食い物につられたか。
 まるで、吾輩のようではないか。
 だが助かった。
 台風が、ようやく去っていってくれたのだった。
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