柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 10】

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 ZZZ……。

(うッ……。ZZZ……。ううッ、く、苦しい。どういうことだ。い、息が、できない……)

 吾輩は身をよじり、そこで眼を醒ました。

(ハァ、ハァ、ハァ。苦しかった……)

 と、眼の前には、先ほどにつづいて、またもや真紀の姿がある。
 彼女は吾輩の鼻先を指でつまもうとしてきた。

『こら、よせ……』

 吾輩は顔をふってそれを逃れた。
 どうりで苦しいはずである。
 我輩が眠っているのをいいことに、真紀は鼻の穴を指先で塞いでいたのだ。
 それはいままで、真紀が幾度となく吾輩にしてきた行為のひとつだ。
 もうどうにかしてくれ。
 このままではほんとうに殺されてしまう。

「ゴンタ、おきた?」

 屈託のない顔で真紀が言った。

『当然だ。あのまま眠っていたら、確実に死んでるよ』

 この天使のような顔で、悪魔の所業を行うのだから恐ろしい。

「ゴンタ、さんぽいくよ」

 真紀が言う。

『いやいや、君が吾輩を散歩に連れていくのは、まだ無理だよ』

吾輩が眼で訴えると、そこへ奈美がリードを手にして玄関から出てきた。
なんだ、そうか。
散歩に連れていってくれるのは奈美なのだ。
真紀は一緒についてくるつもりなのだろう。

(ヤッホー! 散歩だ、散歩だ、うっれしいなー!)

 吾輩は、シッポを千切れんばかりにふって、奈美に近寄っていった。
 奈美は、吾輩の首輪の紐をリードにつけ替える。
 さあ、これで出発だ!
 門を出ると、吾輩は勢いよくアスファルトを蹴った。

「ちょっとゴン太。そんなに急がないでよ」
「ゴンタ、いそぐな」

 姉妹が言うのに耳を貸さず、吾輩はぐいぐいリードを引いた。

「もう、待って、ってばー!」

 吾輩に引きずられながら、奈美が慌てた声で言った。

(そんなことに、かまっていられるかっての!)

 吾輩の心は、もう一足先に河川敷の公園に着いているのだ。
 と、先を急ぐ吾輩に声がかかった。

「おい、ゴン太」

 吾輩は歩調を緩めて、声の主に眼を向けた。

「お、ベン!」
「お、ベン! じゃねえよ。そんなに急いでどこへ行くんだ。って訊くまでもないか」

 声をかけてきたのは、三軒隣りの鈴木家に飼われている、ビーグル犬のベンだった。

「ああ、河川敷に行くところさ」
「いいなァ、オレも河川敷に行きたいよ。オレの家、夜まで留守だから、散歩に行くのは深夜になりそうだよ。いい天気だっていうのにな」

 ベンは、切なそうな眼で空を仰ぎ見た。

「そうか、可愛そうだな。代わってやりたいのは山々だがそうもいかない。その代わり、吾輩がベンのぶんも駆け回ってきてやるよ。桜の花びらが舞っていて、今日は気持ちがいいぞォ」
「おまえ、いい性格してるな。留守番のオレに、それを言うか?」
「あ、いや、悪気があって言ったわけではないから、あしからず。それにしても、こんないい日和に留守番とは、残念だな」

 吾輩は優越感に浸った。

「じゃ、そういうことで」

 早々にその場をあとにする。

「おい、こら、ゴン太! おまえ、憶えてろよ!」

 と言われて憶えているほど、吾輩の記憶力はよくない。
 事実、路地を右に曲がったところですっかり忘れてしまっていた。
 吾輩はどんどん先へと進んだ。
 マーキングなど二の次である。
 息を切らし、河川敷に着いたときには、奈美も真紀も息がひーひーいっていた。

(ワーイ、ワーイ。着いた、着いたァ。ホホ、ホーイ!)

 荒川を渡る風が吹いている。
 桜の花びらが舞っている。
 しばらく土手の上を歩いていくと、公園が見えてくる。
 仲間の姿も見える。
 土手を下り、公園に向かう。

『あの、リードを外してくれないかな』

 公園に入ると、吾輩は首をふって奈美に合図した。

「ゴン太、みんなと遊びたいの? だったら外してあげるけど、公園の外へ行っちゃダメよ」
『言われなくたって、わかってるよ!』

 吾輩はなんどもうなずく。
 これで吾輩は自由だ。

「さ、行っていいよ」

 リードが外されたとたんに、吾輩は駆け出していた。
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