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【Episode 24】
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島田夫妻には大学生の息子がひとりいる。
昨年、大学へ入学するとともに家を出て、独り暮らしを始めた。
その理由は言うまでもない。
もし吾輩が、この島田家に飼われていたとしたら、きっと首輪の縄をかみ切って、どこへともなく飛び出していることだろう。
そんなわけで、吾輩はしみじみ思う。
大原家でよかった、と。
そんなことを思っていると、噂をすれば影である。
島田家のご主人が帰ってきた。
家の前まで来ると、ご主人は門を開けずに、なにやら口許でぶつぶつ言っている。
耳を傾けてみるが、何を言っているのかは聞き取れない。
いったい何を呟いているのか。
と、ご主人は門を開けて入っていき、チャイムを鳴らした。
だが、中からは何の返答もない。
ご主人はもう一度チャイムを押す。
そこで吾輩は、ご主人の様子がいつもと違うことに気づく。
いつもなら、チャイムなど押さずに、自分で鍵を開けて入っていくのだ。
それにどこかそわそわとしている。
吾輩は怪訝な面持ちで、ご主人の背を見つめる。
ご主人がまたチャイムを押そうとすると、中から鍵が開けられる音がした。
そのとたん、ご主人は片手をさっと背に回した。
その手には、バラの花束が握られていた。
(うむ?……)
吾輩は尚のこと訝しく思って、小首を傾げた。
ドアが開き、奥さんが顔を出す。
「ただいま」
なな、なんと、ご主人がそう言ったのだ。
いままで、そんなことを口にしたことなど聞いたためしがない。
それどころか声までもがやさしい。
信じられないことが起こったのである。
ここからはご主人の顔を見れないが、笑顔さえ浮かべているのかもしれない。
それを証拠に、奥さんは驚いた顔で夫を見つめている。
「ど、どうしたのよ……」
いつもと違う夫に、戸惑いを覚えているようだ。
ご主人は一瞬、躊躇しながらも背に隠し持っていたバラの花束を妻に差し出した。
奥さんは瞼を瞬かせて、バラの花束を見つめる。
「え? なんなの? これ……」
「今日は、おまえと俺の二十五年目の結婚記念日だ」
その言葉に、奥さんは眼を見開いて夫の顔を見た。
「そんなこと、憶えていたの?」
「あたり前じゃないか。忘れるわけがない」
「だって、ずっと結婚記念日なんて……」
「そうだな、いままでは。だが今日は違う。今日は25年という歳月を、ふたりで乗り越えてきた特別な日だ。それと――」
そこでご主人は、持っていた鞄を開けると何かを取り出した。
それはきれいに包装された小さな箱だった。
「これは、いままでの感謝の気持ちだ」
その箱を妻に差し出す。
「今日まで苦労をかけたが、こんな俺についてきてくれて、ありがとう」
「あなた……」
奥さんの眼に涙が滲む。
「ま、それほど高いものではないから、期待はしないでくれよ」
「そんな、期待だなんて……」
「それより、朝までここにこうしているつもりなのか?」
「もう、そんな、ムードを壊すようなこと言わないでよ」
涙の中で奥さんは笑みを浮かべ、夫を中へといざなった。
ドアが閉まる。
吾輩はしばらく、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。
とは言え、ほとんど口を開けているほうが多いのだが。
昨年、大学へ入学するとともに家を出て、独り暮らしを始めた。
その理由は言うまでもない。
もし吾輩が、この島田家に飼われていたとしたら、きっと首輪の縄をかみ切って、どこへともなく飛び出していることだろう。
そんなわけで、吾輩はしみじみ思う。
大原家でよかった、と。
そんなことを思っていると、噂をすれば影である。
島田家のご主人が帰ってきた。
家の前まで来ると、ご主人は門を開けずに、なにやら口許でぶつぶつ言っている。
耳を傾けてみるが、何を言っているのかは聞き取れない。
いったい何を呟いているのか。
と、ご主人は門を開けて入っていき、チャイムを鳴らした。
だが、中からは何の返答もない。
ご主人はもう一度チャイムを押す。
そこで吾輩は、ご主人の様子がいつもと違うことに気づく。
いつもなら、チャイムなど押さずに、自分で鍵を開けて入っていくのだ。
それにどこかそわそわとしている。
吾輩は怪訝な面持ちで、ご主人の背を見つめる。
ご主人がまたチャイムを押そうとすると、中から鍵が開けられる音がした。
そのとたん、ご主人は片手をさっと背に回した。
その手には、バラの花束が握られていた。
(うむ?……)
吾輩は尚のこと訝しく思って、小首を傾げた。
ドアが開き、奥さんが顔を出す。
「ただいま」
なな、なんと、ご主人がそう言ったのだ。
いままで、そんなことを口にしたことなど聞いたためしがない。
それどころか声までもがやさしい。
信じられないことが起こったのである。
ここからはご主人の顔を見れないが、笑顔さえ浮かべているのかもしれない。
それを証拠に、奥さんは驚いた顔で夫を見つめている。
「ど、どうしたのよ……」
いつもと違う夫に、戸惑いを覚えているようだ。
ご主人は一瞬、躊躇しながらも背に隠し持っていたバラの花束を妻に差し出した。
奥さんは瞼を瞬かせて、バラの花束を見つめる。
「え? なんなの? これ……」
「今日は、おまえと俺の二十五年目の結婚記念日だ」
その言葉に、奥さんは眼を見開いて夫の顔を見た。
「そんなこと、憶えていたの?」
「あたり前じゃないか。忘れるわけがない」
「だって、ずっと結婚記念日なんて……」
「そうだな、いままでは。だが今日は違う。今日は25年という歳月を、ふたりで乗り越えてきた特別な日だ。それと――」
そこでご主人は、持っていた鞄を開けると何かを取り出した。
それはきれいに包装された小さな箱だった。
「これは、いままでの感謝の気持ちだ」
その箱を妻に差し出す。
「今日まで苦労をかけたが、こんな俺についてきてくれて、ありがとう」
「あなた……」
奥さんの眼に涙が滲む。
「ま、それほど高いものではないから、期待はしないでくれよ」
「そんな、期待だなんて……」
「それより、朝までここにこうしているつもりなのか?」
「もう、そんな、ムードを壊すようなこと言わないでよ」
涙の中で奥さんは笑みを浮かべ、夫を中へといざなった。
ドアが閉まる。
吾輩はしばらく、ぽかんと開いた口が塞がらなかった。
とは言え、ほとんど口を開けているほうが多いのだが。
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