柴犬ゴン太のひとりごと

星 陽月

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【Episode 57】

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『ルーシーはおまえを棄てたのさ――』

 そんな声が聴こえてきた。

『おまえだって、わかっているんだろう? なのに、どうして会いに行こうとする――』

 その声は、また聴こえた。

(違う。ルーシーは吾輩を棄てたわけじゃない。ふたりは引き離されたんだ……)

 声に、吾輩は答えた。

『同じことじゃないか。彼女は別れを告げなかった――』
(言ったさ。さよならって……)
『だがそれは、永遠の別れをおまえに告げたとは言えない。その理由を、おまえに話そうともしなかった――』
(辛かったんだよ。吾輩に理由を言うことが……)
『だからルーシーは、なにも言わずにおまえの前から去っていったと言うのか――』
(そうさ……)
(それは、おまえがそう思いたいだけなんじゃないのか?――)
(違う……)
『ならばなぜ、会いに行こうとする。おまえが言ったことが真実なら、会いに行けば彼女がもっと辛い思いをするということがわからないのか――』
(――――)

 吾輩は、答えられなかった。

『おまえはただ、認めたくないのさ。棄てられたということを。だからこそ、おまえは闇雲に走っている。どこをどう行けばいいのか、わからないにもかかわらずにな――』
(違う! 違う、違う! 断じて違うッ!)

 吾輩は首をふった。
 認めたくないのではない。
 そうではないのだ。
 棄てられたのだと思えればどれだけ楽だろうか。
 それならば、ヘコみまくって涙の中で眠りにつけばいい。
 そして、傷心の痛みに喉も通らないであろう三度の食事をペロリと平らげ、過ぎゆく時の流れに少しずつ癒されていけばいい。
 ならばきっと、ルーシーとすごしたわずかなひとときは、美しい想い出として耀くだろう。
 だが、違うのだ。
 ルーシーは、彼女は吾輩を愛してくれていたのだ。
 だから彼女は、「さよなら」の言葉に、想いのすべてをこめたのだ。

『おまえ、おめでたいやつだな――』

 声がまた、聴こえてきた。

『よほどのナルシストらしい――』
(うるさいッ! 彼女はほんとうに、ほんとうに吾輩を……)
『わかったわかった。おまえがそこまで言うなら、そうだとしよう。だがな、ルーシーのことを心から想うなら、会いに行こうなどと思うな。棄てられたのだと思え。彼女の幸せを遠くから願う。それが犬の中の犬というものだ――』
(うぐぐ……)
『泣くがいい、喚くがいい。気のすむまでな――』

 吾輩は、しおれてこうべを垂れる一輪挿しの花のように、うなだれた。
 そうなのである。
 彼女に会いにいったところで、どうなることでもない。
 それこそ、彼女を苦しませるだけだろう。
 彼女は吾輩を愛し、愛したがゆえに、何も告げずに去っていったのだ。
 もう、逢うことのできないいたたまらなさを胸に秘めて。
 だが、真実はわからない。
 声が言ったように、それこそ吾輩のナルシスト的な思いこみなのかもしれない。
 でも信じたい。
 ルーシーの愛があったのだと。
 ほんとうに吾輩を愛してくれていたのだと。
 ふと顔を上げると、辺りはすっかり夜が落ちて、吾輩は見知らぬ駐車場の前にいた。
 ここがいったいどこなのか、まったくわからない。
 まるで別世界に来てしまったかのようである。
 だが不思議なことに微塵も不安はなかった。
 あるのは、心にぽっかりと開いた穴だけである。
 夜空を見上げてみれば、そこには、心に開いた穴をすっぽりと埋めてしまいそうな丸い月が浮かんでいた。
 そのとき、吾輩の脳裡に大好きなメロディが流れ出した。
 徳永英明というアーティストの歌である。
 曲名はわからないが、パパがよく聴いていた曲だ。
 流れるメロディに、我輩は瞼を閉じた。
 曲が終わるとともに、涙が頬を伝い落ちた。
 見上げる月が、涙に滲む。
 満月に向かって吠えるのは、狼のころの名残りだが、いまはこの哀しみを月に向かって訴えよう。

 ウォォォーン! 
 オォォォォーン!

(ルーシー……)

 蒼く光る月に、ルーシーの微笑む顔が浮かぶ。

(どうか幸せになってくれ……)

 ウォ、オォォォォーン!

 と、そのとき、その吾輩に呼応するように、夜に包まれた家並みのあちらこちらから、犬たちの遠吠えが夜空にこだました。

(ルーシー……)

 君もどこかで、この月を見上げているのかな。
 もしそうなら、吾輩の名を呼んでおくれよ。
 月はきっと、君の声を届けてくれるはずだから。

(ルーシー……)

 またいつか、逢えるだろうか。
 ううん、逢えるよね。
 必ず。
 吾輩は、そう信じるよ。
 だから、それまで……、

(さよなら、ルーシー……)

 吾輩は眼を閉じて、彼女に別れを告げると、もと来た道をとぼとぼともどった。
 我が家に帰り着いたときには、灯りはすでに落とされていた。
 それも致しかたがないことだ。
 もうすっかり真夜中すぎである。
 家族は皆、眠りについているだろう。
 門が閉められているから中に入ることもできず、吾輩は仕方なくその場に身を伏せた。
 とたんに、疲れが身体を包みこむ。
 眼をつぶるとすぐに、吾輩は眠りに落ちていた。
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