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チャプター【8】
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「あ、いらっしゃいませ」
さとみは思わず声がうわずり、それでも驚きを隠し、笑顔をうかべて男に声をかけた。
それにしても、いつ店に入ってきたのだろうか。
すぐ隣にいたことさえまったくわからなかった。
「プレゼントですか?」
さとみはさり気なく訊いた。
「いえ、ちがいます」
「では、お届け物?」
「それもちがいます。実は、あなたに用があって来ました」
そこで男は、さとみに向き直った。
「池内さとみさん、ですね?」
そう訊いてきた男のことを、さとみはまったく知らなかった。
「あの、どちらさまでしょうか?」
とっさに身を硬くし、警戒心をあらわにした。
それを男はすぐに察して、
「失礼しました。わたしは都立江東病院の医師で、桐生と申します」
笑みをうかべた。
男は笑うと精悍さが失せて、その顔にはどこかあどけなさがあった。
さとみは、見知った病院の医師と聞いて警戒心を解いた。
だがすぐに、さとみの表情は一変して硬くなった。
「あの、母の容態が思わしくないんでしょうか」
さとみの母は肝臓を悪くし、一週間前に都立江東病院へ入院したばかりだった。
それだけに母のことが心配になった。
「いえ、そうではありませんよ。あなたのお母さんはなにも心配することはありません。じきに退院できるでしょう」
そう聞いてさとみは安堵し、ほっと胸をなで下ろした。
「でしたら、今日いらっしゃたのは、どういうご用件でしょうか」
「さきほども申しましたが、あなたに用があって来たのです。あなた自身に」
「私自身に?」
「はい」
「でも私は、診察を受けたこともありませんし、身体のどこにも悪いところはありませんけど」
「確かにそうです。ですが、これはあなたにとって、とても重大なことなのです」
「それはいったい、どういうことでしょうか」
重大という言葉に、さとみは不安になった。
男はさとみを見つめたままわずかに沈黙してから、
「わたしはあなたを、救済に来ました」
そう答えた。
こんどはさとみのほうが言葉もなく黙ってしまい、それでも、
「お話がよくわかりませんが、どういう意味でしょう」
なんとかそう訊き返した。
「他に意味などありません。わたしはあなたを救済に来た。それだけです」
「待ってください。私はあなたの患者でもないのに、とつぜん現れて『あなたを救済に来た』なんて、どう考えてもおかしくないですか? そんなことありえませんよ」
「あなたがおっしゃっていることはよくわかります。しかし、このままでは危険なのです」
「そんな、私に危険が迫っているって言うんですか」
「そうです。だから、すぐにでも対処しなければなりません。あなたの精神が崩壊する前に」
「精神が崩壊?……」
さとみは動揺した。
「いいですか、池内さん。とつぜんのことで動揺なさっているでしょうが、冷静に聞いてください。はっきり申し上げますが、あなたの精神はすでに異常を来たし始めていると言ってもいいんです」
「な、なんですか、いったい!」
思わずさとみは声を荒げていた。
「なにを根拠にそんなことを言っているんですか。私は、いたってふつうに生活をしているんです。自分のしてきたことにもきちんと責任がとれます。それなのに、私の精神が異常を来たし始めているだなんて、失礼にもほどがあります!」
「失礼なのは百も承知です。それに、根拠ならあります。わたしがこうしてあなたの前に現れたことこそが、その根拠です。それにもうひとつ。あなたはいま、いたってふつうに生活をしていると言いました。自分のしてきたことにもきちんと責任がとれるとも。それ自体が、あなたの精神が異常を来たしはじめている証拠なんですよ。なぜならあなたは、日常に依存してしまったのです。それは囚われてしまっているとも言えます。このままだとあなたは――」
「いいかげんにしてください!」
男が言うのを、さとみは制した。
「日常に依存してしまったとか、囚われてしまっているだとか、意味がわからないわ。あなた、ほんとうに病院の先生なんですか? いったい何者なの?」
「ですから、わたしはあなたの救済人です」
男は、さとみを真っ直ぐに見つめた。
さとみは思わず声がうわずり、それでも驚きを隠し、笑顔をうかべて男に声をかけた。
それにしても、いつ店に入ってきたのだろうか。
すぐ隣にいたことさえまったくわからなかった。
「プレゼントですか?」
さとみはさり気なく訊いた。
「いえ、ちがいます」
「では、お届け物?」
「それもちがいます。実は、あなたに用があって来ました」
そこで男は、さとみに向き直った。
「池内さとみさん、ですね?」
そう訊いてきた男のことを、さとみはまったく知らなかった。
「あの、どちらさまでしょうか?」
とっさに身を硬くし、警戒心をあらわにした。
それを男はすぐに察して、
「失礼しました。わたしは都立江東病院の医師で、桐生と申します」
笑みをうかべた。
男は笑うと精悍さが失せて、その顔にはどこかあどけなさがあった。
さとみは、見知った病院の医師と聞いて警戒心を解いた。
だがすぐに、さとみの表情は一変して硬くなった。
「あの、母の容態が思わしくないんでしょうか」
さとみの母は肝臓を悪くし、一週間前に都立江東病院へ入院したばかりだった。
それだけに母のことが心配になった。
「いえ、そうではありませんよ。あなたのお母さんはなにも心配することはありません。じきに退院できるでしょう」
そう聞いてさとみは安堵し、ほっと胸をなで下ろした。
「でしたら、今日いらっしゃたのは、どういうご用件でしょうか」
「さきほども申しましたが、あなたに用があって来たのです。あなた自身に」
「私自身に?」
「はい」
「でも私は、診察を受けたこともありませんし、身体のどこにも悪いところはありませんけど」
「確かにそうです。ですが、これはあなたにとって、とても重大なことなのです」
「それはいったい、どういうことでしょうか」
重大という言葉に、さとみは不安になった。
男はさとみを見つめたままわずかに沈黙してから、
「わたしはあなたを、救済に来ました」
そう答えた。
こんどはさとみのほうが言葉もなく黙ってしまい、それでも、
「お話がよくわかりませんが、どういう意味でしょう」
なんとかそう訊き返した。
「他に意味などありません。わたしはあなたを救済に来た。それだけです」
「待ってください。私はあなたの患者でもないのに、とつぜん現れて『あなたを救済に来た』なんて、どう考えてもおかしくないですか? そんなことありえませんよ」
「あなたがおっしゃっていることはよくわかります。しかし、このままでは危険なのです」
「そんな、私に危険が迫っているって言うんですか」
「そうです。だから、すぐにでも対処しなければなりません。あなたの精神が崩壊する前に」
「精神が崩壊?……」
さとみは動揺した。
「いいですか、池内さん。とつぜんのことで動揺なさっているでしょうが、冷静に聞いてください。はっきり申し上げますが、あなたの精神はすでに異常を来たし始めていると言ってもいいんです」
「な、なんですか、いったい!」
思わずさとみは声を荒げていた。
「なにを根拠にそんなことを言っているんですか。私は、いたってふつうに生活をしているんです。自分のしてきたことにもきちんと責任がとれます。それなのに、私の精神が異常を来たし始めているだなんて、失礼にもほどがあります!」
「失礼なのは百も承知です。それに、根拠ならあります。わたしがこうしてあなたの前に現れたことこそが、その根拠です。それにもうひとつ。あなたはいま、いたってふつうに生活をしていると言いました。自分のしてきたことにもきちんと責任がとれるとも。それ自体が、あなたの精神が異常を来たしはじめている証拠なんですよ。なぜならあなたは、日常に依存してしまったのです。それは囚われてしまっているとも言えます。このままだとあなたは――」
「いいかげんにしてください!」
男が言うのを、さとみは制した。
「日常に依存してしまったとか、囚われてしまっているだとか、意味がわからないわ。あなた、ほんとうに病院の先生なんですか? いったい何者なの?」
「ですから、わたしはあなたの救済人です」
男は、さとみを真っ直ぐに見つめた。
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