もう一度、君に逢いたい

星 陽月

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【第7話】

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(未来って、ペットだらけなんだ……)

 そんなことを思っていると、トオルの眼が彼女の姿を捉えた。

(あ、律子だ。ううん、違う違う。彼女はもう律子じゃないんだ……)

 気をつけないといけない。
 彼女もやはり、犬を連れていた。
 金色のきれいな毛並みをした大きな犬だ。
 ゴールデン・リトリバー。

 律子もあの犬を欲しがってたな……。
 結婚したら飼おうって……。

 彼女が近づいてくる。
 トオルの胸が高鳴る。

(なんて声をかけたらいいのさ……)

 鼓動が激しくなっていく。
 ゴールデン・リトリバーがぐいぐい彼女を引っ張って、距離がみるみるうちに狭まってくる。

 あッ!

 あまりの引きの強さに、彼女がリードを離してしまった。
 とたんにゴールデン・リトリバーが走り出して、トオルへとまっしぐらに向かってきた。
 
 え? なに?
 
 逃げ出そうかと思う間も与えられずに、トオルはゴールデン・リトルバーに圧しかかられていた。

「ちょっと、なんだよおまえ」

 ゴールデン・リトリバーは、最愛の人にするように、トオルの顔を舐めまわした。

「おい、くすぐったいよ」

 そこへ彼女がやってくる。

「ごめんなさい、うちのリックが。こら、リック、やめなさい」

 彼女がリードを拾って引くが、ゴールデン・リトリバーはトオルから離れようとしない。

「やめなさいってば、リック、こら」

 彼女は愛犬の首に腕を回し、トオルから引き離した。
 そこでようやく、トオルは解放された。

「もう、リックったら、ダメでしょ!」

 トオルは立ち上がり、身体についた枯葉を払った。

「ごめんねえ。ふだんのリックは人見知りするほうなんだけど、よほど君のことを気に入ったみたい」

 彼女は笑顔を浮かべてトオルに顔を向けると、あっ、という表情をした。

「もしかして君、あのときの……」
「こんにちは」

 トオルはぎこちなく挨拶をした。

「ね、そうよね。あのときの君でしょ?」
「……うん」
「君、私のことを知っているような感じがしたんだけど、っていうか私も、君とどこかで会ったような気がしてならないのよね」
(そうさ、僕たちは結婚するはずだった……)

 トオルは穢れのないまなこで、彼女を見つめた。

「そう、その眼。絶対に見覚えがあるのよ」

 彼女は、記憶の中から探りあてようと、トオルの顔をまじまじと見た。
 すると彼女は、何かに思いあたったという顔をした。

「わかった。君、トオルくんでしょ」

 トオルは一瞬、どきりとした。

 どうして、彼女は僕の名を知っているのだろうか。
 まさか、前世の記憶が甦ったとでもいうのか。
 そうでなければ、僕の名を知っているわけがない。

(僕のこと、思い出してくれたの?)

 トオルのボルテージは上がり、いますぐにでも彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
 だが、トオルのその思いに反して、

「絶対にそうよ。間違いない。小樽の裕三おじさんのところのトオルくんよ。そうでしょ?」

 彼女はそう言った。
 トオルは、あっという間にテンションが下がった。
 けれど、トオルという名に間違いはないのだ。
 トオルはこくりとうなずく。

「やっぱり! そうだと思ったのよ。そのくりっとした眼を憶えているもの。5年前におじさんのところに行ったきりだけど、私のこと、憶えていてくれたのね」
「うん……」

 君を忘れたことなどないよ。

「ずいぶん大きくなったわね。あのころ君はまだ3歳だったわ」

 ううん、違うよ。
 君が18歳だったころ、僕は20歳だった。
 そしてその年齢のときに、僕たちは出逢ったんだ。

「でも、どうしてこんなところにいるの? 昨日もオフィス街にいたでしょ」
「…………」

 トオルは答えにつまった。
 答えられるわけがない。

「あ、わかったァ。冬休みで、四谷のおじいちゃんのところに来たんでしょ? 小樽は雪が多いから、冬休みも早く始まって1ヶ月くらいあるのよね。小樽からひとりで来たの?」

「う、うん」

 話を合わせることにした。
 親戚の子だと思われていたほうが都合がいい。
 いまの自分をどう紹介していいのかもわからない。

「ひとりでなんて、偉いじゃない。それにしても、私があのお店にいるって、よくわかったわね。もしかして偶然? そして今日もまた、この公園で会うなんて。偶然にしてはできすぎって気がしないでもないけど……。ま、いっか」
 
 偶然というなら、いまのトオルと同じ年齢の、名までが同じ子供が彼女の親戚にいたということだろう。
 もしかすると、ザイールはそれを初めから知っていたのかもしれない。
 ふたりとリックは歩き出し、近くにあったベンチに坐った。

「でも、会えてうれしいわ。私の名前は憶えてる?」

 リードを指先で遊びながら、彼女は訊いた。

(忘れるわけがないよ。君は律子――だった……)

 それを口にするわけにはいかず、トオルは首をふる。

「そっか。名前までは、さすがに憶えてないか。私の名前はね、朝子。苗字はトオルくんと同じ沢尻よ」

 沢尻朝子。
 その名をトオルは胸に刻む。

「裕三おじさんは元気? ずいぶんとご無沙汰だけど」
「うん。パパは元気だよ」
「そう。四谷のおじいちゃんは? いまでもウクレレ弾いてる?」
「弾いてるよ」

 嘘を言っているのがつらい。けれど、いまは嘘をつくしかない。

「小さいころ、よく聴かされたなあ。おじいちゃんてね、ハワイで生れたのよ」
「ふーん」
「でもね、おじいちゃんのパパの事業がうまくいかなくなってしまって、それで12歳のときに日本へやってきたの」
「そうなんだ」

 彼女にはあのころとは違う両親と親族があり、まったく別の環境がある。
 だがそれは、生まれ変わった彼女には当然のことなのだが、トオルにはそれをうまく受け止めることができない。
 というよりは、できるだけその現実を知りたくないという思いが強かった。
 なぜなら、その現実を知ることは、彼女が律子ではないのだということを、思い知らされることに他ならないからだ。
 彼女に逢いたいがために未来へ来たのに、これではまるで、鞭を打ち据えられているようなものだった。
 トオルはうつむいて唇を噛んだ。

「トオルくん、どうしたの? 寒い?」

 朝子は心配そうに、トオルの顔を覗きこむ。

「熱でもあるんじゃない?」

 すっと額にあてられた朝子の手のひらは、とても冷たかった。

「大丈夫だよ。熱なんてないから」

 複雑な思いと気恥ずかしさがない交ぜになって、トオルは邪険に朝子の手を払った。
 朝子はそれを別段気にもとめず、

「そうね、熱はないみたい。でも寒いから、これを首に巻いて」

 自分のマフラーを、トオルの首に巻きつけた。

「どう? これなら暖かいでしょ?」

 トオルはうつむいたままうなずく。
 マフラーからは彼女の匂いがした。
 それは、律子の匂いだった。

「ありがとう。朝子さん」
「ヤダ、なによ。朝子さんだなんて。3歳のころは、『アサコォ、アサコォ』って呼んでたくせに」
「そんなの忘れちゃったよ」
「なんだ、忘れちゃったの? 可愛かったのに。だけど無理もないか。それだけ、おとなになったってことだもんね」
「だったら、なんて呼べばいい?」
「ふつうでいいのよ。おねえちゃんとか、朝子ねえちゃんって。朝子さんなんてて呼ばれると、ちょっと抵抗を感じちゃうから」
「それなら、朝子ねえちゃん」
「そうね、決まり。それにしても、今日はお日様が出てないから、やっぱり寒いわね。そうだ、トオルくん。これから私の部屋に来ない?」
「え?……」
「あ、そっか」

 朝子は、ふいに思いあたった。

「私ってバカね。いまごろ気づくなんて。トオルくん、私に会いに来たんでしょ? そうじゃなきゃ、ここで偶然に会うわけがないものね。私が部屋にいなかったから、ここへ探しにきたのよね」
「……うん」
「やっぱりそうよね。でも、会えてよかったわ。会えなかったら、ずっと寒い思いをさせちゃうところだったもの」

 朝子はすっとベンチを立ち、

「じゃあ、行こ」

 と、トオルと手をつないだ。
 冷たくやわらかい朝子の手が、トオルにはとても暖かかった。
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