里子の恋愛

星 陽月

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【第38話】

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「とつぜん呼び出したりして、すまなかったね」

 宗太郎はそう詫びると、眼元に軽い笑みを浮かべた。

「いえ、今日は午後から営業に出る予定でしたから、大丈夫です」

 倉田も笑顔を浮かべていたが、心なしか緊張の色があった。
 ふたりは蕎麦屋で向かい合わせに坐っている。
 昼前に、宗太郎が倉田の会社に電話を入れたのだった。

「少し時間を作ってもらえないだろうか」

 とつぜんにそう言われ、倉田はすぐに答えることができず、わずかに沈黙していたが、

「だったら、お昼、一緒にどうですか」

 そう言い、西新宿にあるこの蕎麦屋を指定したのだった。
 ほどなくして、ふたりが注文したざる蕎麦が運ばれてきて、宗太郎は胸の前に手を合わせ、食べ始めた。
 倉田も箸を取り、宗太郎の顔を窺う。
 無表情に蕎麦を口に運ぶ、その宗太郎の沈黙に耐えられず、

「お話って何でしょうか」

 そう訊いた。
 それに宗太郎は箸を置く。

「里子のことなんだが……」

 語尾を濁す宗太郎に、

「結婚を白紙にもどしたことですね」

 倉田も箸を置き、言った。
 宗太郎は倉田の顔を見つめた。

「ほんとうです。すいません」

 倉田は頭を下げた。

「頭を上げてくれ、孝紀くん。悪いのは里子なんだ。式を延期したりして……」

 宗太郎は一度言葉をつめ、

「それに」

 とつづけた。

「父親の私が、こうしてのこのこ出てくるもんじゃなかった。ふたりの問題なのに」
「いえ、そんなことは――」

 そう言う倉田を、宗太郎が手で制し、

「いや、いいんだ。ただ……、母親がいないだけに、その分も何とか力になってやろう、悩みがあるなら聞いてやろうと思いながら、男親っていうのは不器用だよ。黙って見守ってやることしかできなくて……。だから、せめて孝紀くんに考え直してもらおうと……。頭を下げるくらいは父親として――」

 そこまで言うと首をふり、

「親馬鹿もここまでくると……」

 と苦笑した。

「ほんとにすいません」

 倉田はまた頭を下げた。

「やめてくれ、孝紀くん。そんなに謝られたら、私の言いたいことが言えなくなるじゃないか。とは言っても、君も半端な気持ちで、結婚をやめたわけじゃないだろうし、決意も堅いだろう。だから、考え直してくれとは言わない。ただ、ひとつだけ教えてくれないか――結婚ができなくなったのは、里子を嫌いになったからなんだろうか」

 宗太郎は真剣な眼差しを、倉田に向けた。

「いえ、里子さんのことは今でも好きです。結婚をやめた理由は、僕自身にあるんです。だから、里子さんが悪いわけじゃないんです」
「だが、その理由は教えられない、ということだね」

 そう言う宗太郎に、倉田は唇を横に引き、うなずいた。

「そうか……。なら、私も何も訊かないことにしよう」

 会話はそこで切れ、ふたりは無言のまま蕎麦を口に運んだ。
 店を出ると、宗太郎は倉田に握手を求めた。

「今日は話ができてよかった」

 それに倉田はうなずき、握手に応えた。

「じゃあ、私はこれで」

 宗太郎は倉田に背を向けた。
 離れていこうとするその背に、

「あの……」

 倉田が声をかけた。
 宗太郎がふり返る。
 だが、倉田は何かにつまずいたように顔をゆがめ、

「いえ……、何でもないんです。すみません」

 そう言うと、どこか寂しい笑みを浮かべ、じゃあ、と頭を下げ宗太郎から離れていった。
 雑踏の中に倉田の姿が交じり合っていくのを見つめながら、

 何を言おうとしたんだろうか……。

 宗太郎はそれが気になった。
 追いかけて訊いてみようかという衝動を覚え、だが、苦笑すると首をふり、その場をあとにした。
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