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チャプター【06】

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「くそッ!」

 女は瞼を閉じて、胸の前で合掌するように両手を合わせた。
 一度息を深く吸いこみ、細く静かに吐き出す。
 それを数度くり返すと、瞼を開いた。
 そのときにはもう、眼に、恍惚の色は浮かんでいなかった。
 その眼が、膝をついたまま絶命している大猿に向けられる。

「こんな醜い姿の、どこがいい……」

 口惜しむようにそう言うと、女は、血に濡れた手を拭うこともせずに、廊下に落ちた二丁の銃を拾った。
 太腿のホルスターには右手の銃だけを収め、左手の銃は握ったまま、大猿に喰われた男の死体に眼をやった。
 女は歩を進めると、その男の死体の横で足を止めた。
 仰向けの男の死体がある。
 スーツを身に着けているところをみると、やはり、灯りが洩れていたブースの主だったのだろう。
 男の顔はゆがみ、眼を見開いたまま死に絶えている。
 喰い破られた腹の奥には、どす黒い血が溜まっているのが見えた。
 臓物とはらわたのほとんどが損失し、廊下に流れ出した血の中に、その肉片が点在していた。
 女は、左手に握っている銃を、男の死体の頭部に向けた。
 トリガーに指をかけている。
 死体を撃とうというのか。
 しかし、死体に銃口を向けてはいるが、トリガーを絞ろうとはしない。
 女は、冷たい視線で死体を見下ろしている。
 動かない。
 わずかな時間が流れ、そのとき、引きつるようにゆがんだ男の死体の顔が、ぴくりと動いた。
 と思うと今度は、見開いている死体の眼が動き、女を睨んだ。
 次の瞬間、

「ごォああああッ!」

 男の死体が、裂けるほどに口を開き、歯を剥き出して女に襲いかった。
 女は、表情ひとつ変えずにトリガーを絞った。

  ダンッ!

 銃声が廊下に鳴り響いた。
 とたんに、男の死体の頭部が、脳をまき散らして粉砕した。

「へげ……」

 男の死体は、女に触れることも叶わずに倒れこんだ。
 眼球が、ぐりんと上を向く。
 身体が跳ねるようにビクビクと痙攣を起こし、だがそれは数秒のことで、すぐにその動きは止まった。
 男の死体は、もう動くことはなかった。
 女は、男の死体を見下ろしている。

「すまない……」

 そう言った。

「ゾンビニアに変異するとわかっていて、あんたを、このまま放置しておくわけにはいかなかった……」

 その眼には、それまでとは違って、どこか物悲しい翳りがあった。

「すまない……」

 女はもう一度そう言い、黙祷するように瞼を閉じた。
 静寂だけが、その場にあった。
 次に女が瞼を開いたときには、その眼に物悲しい翳りは消えていた。
 銃をホルスターに収めると、女は、ビルへと侵入したときに入ったオフィスへと向かった。
 オフィスへと入ると、侵入時に開けた強化ガラスの穴の前に立った。
 風が、突風のごとく吹きこんでいる。
 そのために、近くにあるデスクに置かれた書類等が、吹き飛ばされていた。
 女は風に眼を細めて進み、ガラスの穴の縁に手をかけると、何の躊躇も見せずにビルの外へと身を投じた。
 女の身体が、重力に逆らうことなく落ちていく。
 女の顔には、どんな表情も浮いていない。
 すると、とつぜん、女の身に着けているコートが横へと広がった。
 それによって、落ちていく速度にブレーキがかかり、女の身体は真下ではなく前方へと進みはじめた。
 横へ広がったコートが、翼の役割を成したのだ。
 女は、煌めく街並みの上空を、悠々と滑空していった。
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