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チャプター【39】

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「このままでは、感染は瞬く間に広がっていきます。いまは、考えている猶予などありません。一刻を争うときなんです!」

 久坂は声を荒げた。
 その場が一瞬に静まり返った。
 沈黙が落ちる。
 と、その静けさの中で、何かが低く振動する響きが聴こえてきた。

「すみません。これには出ないといけませんので、失礼して」

 男がそう言い、ジャケットの内ポケットからカード・フォンを取り出した。低い振動は、そのカード・フォンのバイブレータだった。
 男は着信に出た。
 しばらく、着信の相手に受け答えをすると、男は交信を切り、

「首相官邸からです。首相は、あなたの提案を全面的に支持するそうです」

 そう言った。
 どうやら、この会議室での様子は、そのまま首相官邸に映像で流されていたようだった。
 まさか、首相から支持を得るとは思わなかったが、久坂の駆け引きは成功したのだった。
 そうして、蘭と娘は、OMEGAの監視下ではあったが、久坂の自宅に移り住むこととなったのである。
 久坂は、早急に自宅の地下にラボを作らせ、その1年後にバイオニック・ナノマシン、「ナノ・ム」を完成させた。
 その完成によって、蘭はS・M・Tを除隊することになっていたはずだが、実際にはそうならなかった。
 蘭は、S・M・Tにはなくてはならない存在となっていたのだ。
 そしてさらに1年が過ぎて、久坂と蘭が出会ってから2年が経ったのである。
 その間、蘭の娘、菜々はすくすくと育った。
 菜々という名をつけたのは、久坂だった。
 蘭が久坂に、名付け親になってほしいと申し入れ、それを久坂が承諾したのだ。
 その菜々は、本来ならば2歳でなければならない。
 だが、肉体的年齢は、6歳になっていた。蘭の胎内で感染した菜々は、進行は停止しているものの、すでに感染してしまった影響で、通常の3倍の速さで成長しているのであった。
 その成長の速度を、通常の状態にもどせないものか。
 久坂はそう考えている。
 だが、

「博士。私はあんたを信用している。だが、この子は、成長が早いとはいえ、まだ幼い。だから、私のほうから頼むまで、待ってくれないか」

 蘭にそう言われ、久坂は、彼女の意思を尊重して待つことにした。
 実は、そのときにはすでに、久坂は、蘭と菜々をつないでいた臍帯血内の白血球をもとに、ふたつの抗血清を開発していたのである。
 ひとつは、N抗血清。
 これは、臍帯血内の白血球を培養液で増殖させた、ナチュラルな抗血清で、感染の進行を停止させる効果がある。
 現在、蘭が投与しているものがこれだった。
 もうひとつは、B抗血清。
 これは、N抗血清と同様に、臍帯血内の白血球を培養液で増殖させ、それに医療用に開発したナノ・マシンを組み合わせたものだ。
 このB抗血清は、上書きされてしまった感染者の遺伝子を、本来の遺伝子にもどすという効果を発揮した。
 現に、ステージ1の感染者は完全に回復しているし、ステージ2の感染者も少しずつではあるが回復の兆しが見えている。
 だが、ステージ3に入ってしまった感染者となると、未知の細胞体の抵抗力が強くなり、B抗血清の効果はまだほとんど現れてないというのが現状だった。

「どうすればいい。どうすれば、ステージ3の未知なる細胞体、いや、地球外生命体を殲滅させることができるんだ……」

 久坂は、パソコンの画像を見つめながら立ち上がるとラボを出た。
 1階へと上がり、玄関を出る。
 庭へ入って、ポケットから煙草を出して咥えると、火を点けた。
 喫いこんだ煙を、夜空に向かって吐き出す。
 久坂は、満ちた蒼い月を見つめた。

「月よりの感染者、アルファ。どこに隠れている。おまえたちが存在する限り、感染者は増えつづけていくばかりだ……」

 そう呟いた久坂の眼には、険しい光があった。
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