振り向けば

糸坂 有

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十一

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 学は、望の絵が好きだった。
 時に激しく、時に優雅に、形を変え色を変え、人の心を惑わす空の絵は、望の心を覗いている気分になる。そこに描かれる透明感は、まるで望そのものだった。写真とは違う、望というフィルターを通すだけで、何気なく見ている空が、こんなにも愛おしく見えるのである。
「俺の絵なんかより、本物見てる方がよっぽどいいんじゃない?」
「そんなことないよ。望の絵、好きだし」
 学は、クロッキー帳から視線を上げ、目前に迫るようなガラス越しの雄大な空を眺めた。
 望はいつも空を見ている。空に焦がれ空に憧れ、いつだって手を伸ばしている。
 その目を、自分に向けてくれたらと、何度思ったことだろう。無理だと分かっていても、つい、つい、学はそんな風に思ってしまう。
 昼食に小さいパン一つという、高校生男子にあるまじきことを平然とやってのける望に、自分の弁当を分け与えつつ、クロッキー帳を閉じる。
 隣の望は、ぼんやりと空を見上げながら唐揚げをゆっくりと咀嚼している。無邪気な瞳には、真っ青な空しか映っていなかった。こうしていると、周りの喧騒がすっかり消えてなくなったような気がする。この世に二人しか存在しないような気がする――学は考えて、首を軽く振った。
 すると望は急に笑顔になって、やっと学を瞳に映した。
「そうだ!」
 胸の高鳴りを悟られないように、「何?」と平静を装う。
「今日、漫画持ってきたから、後で渡す」
「ああ、前言ってたやつな。ありがとう。でも、もう明日からテストだろ」
「学には関係ないだろ。まあ、テスト終わったら読んでよ。返すのはいつでもいいから」
 望は、昔から漫画やアニメが好きだった。家には、大きな本棚に漫画が山ほど詰め込まれていて、初めて見た時、学は胸がわくわくするのを抑えきれなかった。幼い頃の学の家には、漫画なんて一冊もなかったのである。
「望は、金があれば漫画って感じだよな。他に欲しいものはないの?」
「ないよ。そう言う学だって、あんまり物欲ないじゃん」
 指摘され、学は言葉を返せなかった。
 欲しいと思っても、あれもこれもいつかはただのゴミになると思うと、どうしても欲しいと思うものがなくなってしまったのである。自分自身の欲やこだわりに頑なでない方が、生きるのは楽だ。
 でも、唯一心底手に入れたいと思い、諦めきれていないものが、目の前にいる。
 心を惑わされ、一喜一憂し、そのことしか考えられなくなる。恋の恐ろしさは、計り知れない。
 どうしてこんなことになってしまったのか。なぜ、唯一が、三河望なのか。考えても何も分からなかった。理屈で説明できないことは、苦手だった。
 望が女なら良いのか。望が学を好きになれば良いのか。何も分からないし、そんな簡単な話でもないような気がして、学は呟いた。
「もっと広くて大きな人間になりたいよ」
「学は今のままで充分だろ」
 何の疑いもなく言う望に、学は笑うしかなかった。
「それはどうも」
 その後、学は望から漫画を借りて、綺麗にカバーを付けて鞄に仕舞っておいた。
 それが、陸の目に触れたのは、たまたまだった。
 鞄を開いて必要なものを取り出していると、陸は目聡くそれを見つけて引っ張り出した。
「お前と本って、妙に似合うよな」
 カバーを付けていたため、それを文庫本だと思ったらしい。持ち上げた時にその違和感に気付いて、陸はぺらぺらと本を開く。
「て、これ漫画かよ。てっきり、小難しい本でも読んでるんだと思った」
 感心と驚きが入り混じったような表情で、陸は漫画を捲る。知られても困ることではなかったので、学は「はい」と頷いた。
「何か変ですか?」
 陸の反応は、さほど珍しいものではなかった。規律正しく生活を送っている学は、何故かサブカルチャーとは縁のない人間だと思われやすいのだ。
 陸は、大きく首を左右に振った。
「意外だっただけだ。お前みたいな奴でも読むんだな。安心した」
「そうですか」
 薄い反応を返して、学は教材を揃えて椅子に背筋を伸ばして座った。
「もともとは、友人の影響なんですけど」
「友人?」
「はい。漫画やアニメが好きな人で。初めて読んだ漫画も、彼から借りたんです」
 普段はつんつんとしている望も、好きなものの話になれば表情豊かに話し始める。しかし、その笑顔を知っているのはごく一部。この学校では、きっと学だけだろう。
 笑った顔。澄ました顔。真剣な顔。空を見上げる顔。全てを自分だけのものに出来たら。
 決して手の届かない存在でありながら、彼にとって自分が一番近い存在であるという自負心が、いつだって学を惑わす。頼りにされていることが嬉しくて、隣にいられることが嬉しくて、離れられない。離れたくない。心が通じなくても良いと思えるほど、学は骨抜きにされてしまっているのだろう。
「仲良いんだな、そいつと」
「え」
 唇をつんと尖らした陸は、表情から少しだけ不機嫌が滲み出ていた。相変わらず地雷がよく分からない。学が何と答えたものか、と思案していると、陸はまた口を開いた。
「すごく優しい顔してるから」
 指摘され、学は背中に冷や汗をかいた。今、自分はいったいどんな顔をしていたのだろう。学は表情を引き締めた。
「ずっと前からの友人なので」
 教科書を開く。
「勉強始めますよ」
 陸は、テスト前日だからか、その他の理由があるのか、その日はずっと口数が少なかった。帰る時も、女性に注目されていることを気にもせず、終始何かを考えているようだった。大人しくて不気味だ。
 学は、ごとんごとんと電車に揺られ、流れゆく景色を眺めた。
 出会った時こそ、人間性を疑うばかりだった陸だが、真面目に勉強したり、進学することを決めたり、この短い間にずいぶんと色んな一面を見た気がする。
 陸の降りる駅が近づいてきて、学は言った。
「明日のテスト、頑張って下さい。一旦、今日で勉強会は終わりなので――」
「あのさ」
 学の言葉に食い気味に、陸は顔を上げた。その視線を追えば、天井から吊り下げられた広告があった。
「夏休み、連絡するから」
 テストが終われば夏休みが来る。多くの生徒たちにとって、待望の長期休暇だ。
 神妙な顔つきに、学は頷いた。
「はい」
「もしかして面倒?」
 学の表情を探るように、陸は顔を傾ける。学はそれが面白くて、「いえ」と言いながら笑いそうになるのを堪えた。
「当然のごとく連絡はあると思っていたので、わざわざ事前に言うのは意外だな、と。先輩って、急に連絡するじゃないですか」
「そ、それは」
 言いかけた時、車掌の声が電車内に響き渡る。陸の降りる駅には、どうやらあと数分で着きそうだった。
「とにかく、これからはちゃんとお前の都合も聞くから」
「変わりましたね、先輩」
「うっせ」
 ちゃんと連絡返せよ、と釘をさして降りて行った陸は、すっかりいつもの様子を取り戻していた。普段うるさい人が大人しいと不気味だ。いったい何をそんなに考えていたのか、気にはなったが、まあいいかと学は思考を切り替えた。
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