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十七
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その次に陸と会ったのは、前から数えて一週間も経たない頃だった。けろっとした顔で挨拶する陸に安心しながら、「どうも」と頭を下げる。
ほんの少し、緊張していたことは否めない。どうか、陸の態度がいつもと同じでありますように。そんなことを念じていたのが、天に届いたのだろうか。
どちらにしろ、いつも通りの陸は、いつも通り女性の視線をこれでもかというほど浴びて立っていた。
その日やって来たのは、駅からほど近いショッピングモールだった。
――買いたいものがある。
そう連絡があったので、てっきり陸の買い物に付き合うだけだと思っていたら、着くなりこう宣言した。
「お前に似合う服を買うぞ」
「へ」
どういう風の吹き回しなのか。
服が欲しいとは一言も言っていないし、必要な分は揃っている。
周りを見れば、カジュアルな服装に身を包んだ若者が多いものの、学のように襟の付いたシャツを着たフォーマル風の若者も少なくはない。街を歩いていて浮くことはないし、そもそも学生の間は制服が主なのだから、これで問題はないはずだ。
ただ、学には思い当る点がないわけではない。学はいつだって同じ雰囲気の服ばかりで、目新しいことをしない。色も派手なものは着ないし、パターンが固定しているのだ。
さりげなく今を取り入れつつ、その場その場で色も形も違う複雑な服を着ているおしゃれ星人たちにとっては、世話を焼きたい対象となるのかもしれない。
「お前はもっとカジュアルな服を着た方がいい」
「今のままで充分なんですけど」
「着る服によって気持ちが変わったりすることない? お前、いっつも同じようなのしか着てねえじゃん」
服によって気持ちが変わる。
学は考えたこともなかった。色は落ち着いたモノトーン系、形もほとんどが襟付きボタン付き。ラフな服なんて、パジャマくらいしかない。
「先輩は、あるんですか?」
「あるよ。気持ちを上げるために派手な色着てみたりとか。逆に、今日はだるい気持ちだからだるい服、とか」
「へえ」
自分の中から、感心した声が漏れた。服について、これほど真剣に考えたのは人生で初めてだ。
「なるほど。確かに、そういう服を少しくらい持っていてもいいのかもしれませんね」
「な」
満足気な顔を見上げる。
「先輩、服好きなんですね」
「嫌いだったらモデルなんてしねえよ。てか、これくらい普通だろ。俺よりもっと詳しい奴なんて、星の数ほどいる」
「そういうものですか」
「お前が無頓着なんだよ」
連れて行かれて入った店には、街でよく見かけるおしゃれな外見の店員が何人もいた。入った途端、「いらっしゃいませ」と爽やかな笑みを向けられる。
学が入ったことのないようなカジュアルな店には、服だけでなく靴や小物が芸術品のように飾られていて、呆けて見上げる。その間に陸は、店員と顔見知りなのか知った風な口を聞き、あれこれと服を指差している。短時間でいくつか服を見繕ってくると、有無も言わせず試着室へ連れて行かれた。着せ替え人形の気分を味わっている間も、慣れないカタカナが飛び交う。見聞きしたことはあるが、日常生活で使ったことはない言葉だった。覚える気はなかったが、カタカナががんがんと頭にぶつかってきた。
「お客様、お似合いです」
表面上なのか、心からなのか判断がつかない笑顔を向けられて、学も微笑む。その言葉を真に受けたわけではなかったが、その中で陸に勧められたものを購入した。
「それ、今度着てこいよ」
「本当に似合ってるんでしょうか」
「そこら歩いてる男なんかより、よっぽど似合ってる。隠しきれない上品さって、やっぱあるんだな」
泥で薄汚れた服を着たとしても、学は凛としていそうだ。そんなことを言われたが、学は分からなくて「そうですか?」と曖昧な返事をした。
紙袋に大人しく収まる服。これを持ち帰ることを考えると、いつもの服たちは大層驚きそうだった。どう考えても馴染まない。けれど、少し良い気分な自分に気付いた。
フードコートで、いつもより遅めの昼食を取る。人で混雑していたが、ちょうど目の前で席を立とうとするカップルがいて、運良くすぐに席は取れた。
オムライスが食べたいと言う陸に合わせて、陸も同じオムライスを頼んだ。卵は、ふわとろ、と宣伝しているだけあってなかなかのふわふわ感はあったが、この程度なら学は自分でも作れると感じた。料理は得意だった。
今度、望に作ってやろう。考えながら食べ進める。
「先輩って、ハンバーグとかオムライスが好きなんですね」
「悪いのかよ」
「いえ、そんなことは」
いつもファミレスで注文するのも、妙に子供が好みそうなラインナップだったことを思い出して、微笑する。
「お前は、何が好きなの」
「何って」
「食べ物の好み」
大きな口で、豪快にオムライスを口に運ぶ陸を眺め、何が好きなんだろうと考える。
ハンバーグは好きだ。オムライスも好きだ。でも、それを好きだ、美味しいと思っていても、そればかり食べていると飽きるし、もう食べたくないと思ってしまうだろう。母が作ってくれるものは何でも美味しいし、店の食事だって美味しい。偏ることなく色んなものを食べて美味しいと感じることが出来れば、きっと何も問題はない。だから、学は答えを導き出せなかった。
「好みというほどのものは、ないかと」
陸は大した感慨もなくふうんと呟いた。
「寿司は?」
「好きです」
「ラーメン」
「好きです」
「オムライス」
「好きだし、美味しいです」
「お前、嫌いな食べ物ないだろ」
「ないです。そう教えられてきたので。さすがに虫とか、日本で暮らしてて食べ慣れないものは躊躇しますが」
「イナゴの佃煮とか、はちのこはいけるのか?」
「食べたことはないので、何とも。でも実際、昆虫っていいらしいですね」
「うわー、食いたくねえ……」
顔を顰めて、陸はオムライスを口へ運んだ。やっぱオムライスだわ、とむがむが言っている。
「じゃあ食べ物以外で好きなもの教えろ。何かするのが好きとか」
なぜ好きにこだわるのか分からなかったが、学は素直に考えてみる。好きなもの。好きなこと。好きな、人。
「料理は割とするかもしれません。昔から母から仕込まれてたんですけど、美味しいって言われると嬉しいんで。いろいろ考えて工夫したり」
「そうなの? じゃあ今度俺にも作って」
「機会があれば」
ごちそうさまでしたと手を合わせれば、陸も同じようにして席を立つ。
「お前、今日塾なんだっけか」
「そうです。六時から」
「じゃあ早めに解散だな」
時計を見れば、まだ二時にもなっていない。まだ猶予はある。
フードコートを出ると、学の提案で二人は書店へ向かった。このショッピングモールに入っている書店はこの辺りでも大きい方で、歩いているだけでも楽しい。しかし、陸にとってはそうでもないようで、きょろきょろと見回る学の後をちょこまかと付いて回っていた。
「お前、塾ってさ、よく受験生でもないのに勉強してられるな。遊びたくねえの?」
「進学校なら一年から勉強してますよ。それに、遊んでるじゃないですか、今」
「言いつつ参考書を探すな。しかもそれ大学受験のやつじゃん」
「つい」
学は手に取った参考書を本棚に戻す。科目ごとにも様々な本があって、目が移る。
高二の夏ともなれば、受験を視野に入れなければならない。陸もそれを感じているようだが、塾に行くことは考えていないらしい。高校一年生の学がどうすべきか、悩みどころでもあった。
学は、小言を言われる前に参考書の棚を離れ、漫画の方へ移動した。もともと、参考書を探すために来たわけではない。漫画を眺めて、何が流行で何がアニメ化するのか、知りたかっただけだ。
「お前ってさ」
大きな棚を見上げていると、陸はひょいと一番高い棚に収められていた本を取った。あんな風に取ってもらうと、女子はときめいたりするのだろうか。
陸はじっと表紙を見つめ、裏に書いてあったあらすじを読んだところで、「あ」と声を上げた。
「この続き買ってなかったわ。買おっかな」
「あの、さっきの続きが気になるんですけど」
一向に続けそうにない陸を促すと、喉の奥で唸った。
「いや、さっき続き考えてたんだけど、上手く言葉になんねえからいい」
「日本語勉強して下さい」
「いいだろ。普通に会話できんだから」
ぶらぶらしている内に、時刻は三時。まだ早い時間だったが、陸は学のことを思ってか、「そろそろ帰るか」と言い出した。
素直に頷いて一階へ移動すれば、通りがかったソフトクリーム屋の前で立ち止まる。
「アイスだけ食って帰ろうぜ。甘いの好きか?」
看板を見上げれば、色とりどりのアイスが並んでいた。夏ならば、さぞ繁盛することだろうと思うのに、案外店内には人は少ない。たまたまなのか、いつもなのか。店の経営を心配していると、「嫌いなの?」と訊かれ、慌てて否定した。
「何味が好き?」
続けて質問が飛んできて、学は少し考えた後答える。
「バニラですかね」
「ちょい待ってろ」
陸は、返事をする間もなく店内へ入り、ほうと見惚れる女性の店員に注文していた。
待て、と言われたので、学は店内に入ることなく、隅の方で邪魔にならないように外で待つ。
「どうぞ」
ぶっきらぼうに渡されたそれは、コーンの上に美しく真っ白なアイスがくるくる盛られていた。片方の手には、同じ形でも茶色のアイスが盛られている。陸はチョコを選んだようだ。
幼い頃以来、もう何年も目の前で見ていない姿を目の前に、まるで芸術だなと感心する。
アイスを食べるとしたら、食べやすさ優先でいつもカップを選んでいた学も、たまにはこういうのもいいか、と礼を言いつつ受け取った。
「いくらでした?」
「金はいい」
陸は、財布をすっかり仕舞い込み、受け取る気はない様子だった。意図が分からないまま、このまま引き下がるわけにもいかず、でも、と食い下がると、教えてもらっているお礼だと言う。殊勝なこともあるものだ
だから一人で買いに行ったのか、と一人納得していると、陸はショッピングモールを出て行き、学もそれに続いた。
「涼しいところより暑いところで食いたい」
出たすぐ、ぽつぽつとに並んでいるベンチには、人は誰もいなかった。その中で、柱に隠れた一番端のベンチを選んで陸は座った。人目もない、落ち着ける場所だった。
学が隣に座ると、陸は大きな口でアイスに齧り付く。学はぺろりと一口舐めて冷たくて懐かしい味を堪能した。
蝉の声は聞こえない。この近くに木がないからだった。
さっきまで冷たいくらいだった体は、一気にむさくるしい暑さでべたつき始める。その中で食べるアイスは、確かに快感だった。
「お前、暑くねえの? 涼しそうな顔してる」
「ちゃんと暑いですけど」
疑いの目を向ける陸に、本当に暑いのだというように手を使ってうちわのように扇ぐ。
「暑いなら、もっとあちーって周りにアピールするもんじゃねえの」
「暑いって言ったところで、解決しませんし」
「つまんねえ奴」
陸は、あっという間にコーンに辿り着いて、さくさく音を立てている。学も早く食べないと、溶けてしまう――そう思って手元を見れば、反射的に声が上がった。
「あ」
危ないと思った途端、コーンを経由してとろりと手へアイスが伝っていく。
「溶けるのはや……」
うだるような暑さは、あっという間にアイスを溶かしていた。学は、夏の暑さを甘く見ていたようだ。
甘ったるく、形をなさなくなったアイスは、どうにも気持ち悪い。ティッシュを探っていると、手からぽとりと白い液体が落ちそうになる。しかし片手では、ティッシュを見つけたものの上手く引き出せない。陸に頼もうと横を向くと、その瞬間息が詰まった。
すぐ近くには整った陸の顔。学の手を見つめる鋭い目。生暖かい何かが、学の手をくすぐる。それは一瞬だった。
アイスは、下へ落ちることなく陸の舌に絡め取られた。
しまった。陸の表情は、如実に陸の感情を表していた。視線は定まらず、明らかに動揺している。おそらく陸は、反射的に、本能的に行動したのだろう。どう反応するのが正解か思案していると、陸は飛び跳ねるように学から距離を取り、やけに大きな声で、全てを振り払うかのごとく絞り出した。
「ば、バニラもうまいな」
「え?」
「俺がせっかく買ってやったんだから、落とすなよ! 全部食え!」
「す、すいません」
学は慌ててアイスに齧り付く。味なんて分からなかった。さっきまで甘かったのだから、きっと甘い。そう思うのに、味蕾がバグでも起こしたように、全く機能していない。
生暖かい感覚。ざらざらした感覚。唾液が手に残っている感覚。
触感が鋭敏になりすぎて、味覚が一時的に機能しなくなったのかもしれない。
早く手を洗って忘れたい反面、もう少しこの甘美な気持ちに触れていたくて、学は機械仕掛けのロボットみたいにアイスを口に運んだ。ただひたすら冷たかった。なのにじんわりと心の奥が熱い。一瞬、獲物を狩るような鋭い目をした陸の横顔を思い出すだけで、背中がぞくぞくした。
「あ、ありがとうございます、美味しかったです」
「そ、そうか」
会話がぎこちない。目を見れない。
「じゃあな」
「はい」
学はいつもより深々と頭を下げた、不自然さを気取られないためだったが、逆に不自然だったかもしれない。
途端、学は駅のトイレへ駆け込んだ。その場ではウエットティッシュで拭いておいたが、体の底から疼くような、舌が皮膚を這う甘い感覚は消えていない。
ざばざばと、水を目いっぱい使って手を洗った。一分二分と洗うたび、自分が潔癖になったような気持ちになる。思い出すだけで体が痺れた。
何だあれ。何だこれ。
考えるなと心が叫ぶのに、頭は勝手に回り出す。
花火の時。教室にいた時。
あの、やけに艶っぽい目。触れた肌。舌の触感。
きゅっと音を立てて、水を止めた。
鏡を見れば、いつもと寸分違わない自分が映っていて、一つ違うとすれば似合わないおしゃれな紙袋だけだった。手をアイロンがけされた紺色のハンカチで拭くと、乱暴に紙袋を持ち、トイレを出た。
夏休みは、少なくとも二週間に一回以上は陸と顔を合わせた。望と塾の関係者を除けば、最も頻繁に会っていたことになる。しかしそれはすでに一番とは言えない。
――暇な時があったら教えて。
文面から陸の気持ちは窺い知れなかったが、その短い文にありったけの気持ちが込められている気がして、「忙しいので」なんて素っ気ない返信をすることは出来なかった。
見立ててもらった服を着て行けば、何も知らない風に笑う。
「やっぱり、いけてんじゃん」
何もなかったように、何もなかったと言い聞かせるように。
ほんの少し、緊張していたことは否めない。どうか、陸の態度がいつもと同じでありますように。そんなことを念じていたのが、天に届いたのだろうか。
どちらにしろ、いつも通りの陸は、いつも通り女性の視線をこれでもかというほど浴びて立っていた。
その日やって来たのは、駅からほど近いショッピングモールだった。
――買いたいものがある。
そう連絡があったので、てっきり陸の買い物に付き合うだけだと思っていたら、着くなりこう宣言した。
「お前に似合う服を買うぞ」
「へ」
どういう風の吹き回しなのか。
服が欲しいとは一言も言っていないし、必要な分は揃っている。
周りを見れば、カジュアルな服装に身を包んだ若者が多いものの、学のように襟の付いたシャツを着たフォーマル風の若者も少なくはない。街を歩いていて浮くことはないし、そもそも学生の間は制服が主なのだから、これで問題はないはずだ。
ただ、学には思い当る点がないわけではない。学はいつだって同じ雰囲気の服ばかりで、目新しいことをしない。色も派手なものは着ないし、パターンが固定しているのだ。
さりげなく今を取り入れつつ、その場その場で色も形も違う複雑な服を着ているおしゃれ星人たちにとっては、世話を焼きたい対象となるのかもしれない。
「お前はもっとカジュアルな服を着た方がいい」
「今のままで充分なんですけど」
「着る服によって気持ちが変わったりすることない? お前、いっつも同じようなのしか着てねえじゃん」
服によって気持ちが変わる。
学は考えたこともなかった。色は落ち着いたモノトーン系、形もほとんどが襟付きボタン付き。ラフな服なんて、パジャマくらいしかない。
「先輩は、あるんですか?」
「あるよ。気持ちを上げるために派手な色着てみたりとか。逆に、今日はだるい気持ちだからだるい服、とか」
「へえ」
自分の中から、感心した声が漏れた。服について、これほど真剣に考えたのは人生で初めてだ。
「なるほど。確かに、そういう服を少しくらい持っていてもいいのかもしれませんね」
「な」
満足気な顔を見上げる。
「先輩、服好きなんですね」
「嫌いだったらモデルなんてしねえよ。てか、これくらい普通だろ。俺よりもっと詳しい奴なんて、星の数ほどいる」
「そういうものですか」
「お前が無頓着なんだよ」
連れて行かれて入った店には、街でよく見かけるおしゃれな外見の店員が何人もいた。入った途端、「いらっしゃいませ」と爽やかな笑みを向けられる。
学が入ったことのないようなカジュアルな店には、服だけでなく靴や小物が芸術品のように飾られていて、呆けて見上げる。その間に陸は、店員と顔見知りなのか知った風な口を聞き、あれこれと服を指差している。短時間でいくつか服を見繕ってくると、有無も言わせず試着室へ連れて行かれた。着せ替え人形の気分を味わっている間も、慣れないカタカナが飛び交う。見聞きしたことはあるが、日常生活で使ったことはない言葉だった。覚える気はなかったが、カタカナががんがんと頭にぶつかってきた。
「お客様、お似合いです」
表面上なのか、心からなのか判断がつかない笑顔を向けられて、学も微笑む。その言葉を真に受けたわけではなかったが、その中で陸に勧められたものを購入した。
「それ、今度着てこいよ」
「本当に似合ってるんでしょうか」
「そこら歩いてる男なんかより、よっぽど似合ってる。隠しきれない上品さって、やっぱあるんだな」
泥で薄汚れた服を着たとしても、学は凛としていそうだ。そんなことを言われたが、学は分からなくて「そうですか?」と曖昧な返事をした。
紙袋に大人しく収まる服。これを持ち帰ることを考えると、いつもの服たちは大層驚きそうだった。どう考えても馴染まない。けれど、少し良い気分な自分に気付いた。
フードコートで、いつもより遅めの昼食を取る。人で混雑していたが、ちょうど目の前で席を立とうとするカップルがいて、運良くすぐに席は取れた。
オムライスが食べたいと言う陸に合わせて、陸も同じオムライスを頼んだ。卵は、ふわとろ、と宣伝しているだけあってなかなかのふわふわ感はあったが、この程度なら学は自分でも作れると感じた。料理は得意だった。
今度、望に作ってやろう。考えながら食べ進める。
「先輩って、ハンバーグとかオムライスが好きなんですね」
「悪いのかよ」
「いえ、そんなことは」
いつもファミレスで注文するのも、妙に子供が好みそうなラインナップだったことを思い出して、微笑する。
「お前は、何が好きなの」
「何って」
「食べ物の好み」
大きな口で、豪快にオムライスを口に運ぶ陸を眺め、何が好きなんだろうと考える。
ハンバーグは好きだ。オムライスも好きだ。でも、それを好きだ、美味しいと思っていても、そればかり食べていると飽きるし、もう食べたくないと思ってしまうだろう。母が作ってくれるものは何でも美味しいし、店の食事だって美味しい。偏ることなく色んなものを食べて美味しいと感じることが出来れば、きっと何も問題はない。だから、学は答えを導き出せなかった。
「好みというほどのものは、ないかと」
陸は大した感慨もなくふうんと呟いた。
「寿司は?」
「好きです」
「ラーメン」
「好きです」
「オムライス」
「好きだし、美味しいです」
「お前、嫌いな食べ物ないだろ」
「ないです。そう教えられてきたので。さすがに虫とか、日本で暮らしてて食べ慣れないものは躊躇しますが」
「イナゴの佃煮とか、はちのこはいけるのか?」
「食べたことはないので、何とも。でも実際、昆虫っていいらしいですね」
「うわー、食いたくねえ……」
顔を顰めて、陸はオムライスを口へ運んだ。やっぱオムライスだわ、とむがむが言っている。
「じゃあ食べ物以外で好きなもの教えろ。何かするのが好きとか」
なぜ好きにこだわるのか分からなかったが、学は素直に考えてみる。好きなもの。好きなこと。好きな、人。
「料理は割とするかもしれません。昔から母から仕込まれてたんですけど、美味しいって言われると嬉しいんで。いろいろ考えて工夫したり」
「そうなの? じゃあ今度俺にも作って」
「機会があれば」
ごちそうさまでしたと手を合わせれば、陸も同じようにして席を立つ。
「お前、今日塾なんだっけか」
「そうです。六時から」
「じゃあ早めに解散だな」
時計を見れば、まだ二時にもなっていない。まだ猶予はある。
フードコートを出ると、学の提案で二人は書店へ向かった。このショッピングモールに入っている書店はこの辺りでも大きい方で、歩いているだけでも楽しい。しかし、陸にとってはそうでもないようで、きょろきょろと見回る学の後をちょこまかと付いて回っていた。
「お前、塾ってさ、よく受験生でもないのに勉強してられるな。遊びたくねえの?」
「進学校なら一年から勉強してますよ。それに、遊んでるじゃないですか、今」
「言いつつ参考書を探すな。しかもそれ大学受験のやつじゃん」
「つい」
学は手に取った参考書を本棚に戻す。科目ごとにも様々な本があって、目が移る。
高二の夏ともなれば、受験を視野に入れなければならない。陸もそれを感じているようだが、塾に行くことは考えていないらしい。高校一年生の学がどうすべきか、悩みどころでもあった。
学は、小言を言われる前に参考書の棚を離れ、漫画の方へ移動した。もともと、参考書を探すために来たわけではない。漫画を眺めて、何が流行で何がアニメ化するのか、知りたかっただけだ。
「お前ってさ」
大きな棚を見上げていると、陸はひょいと一番高い棚に収められていた本を取った。あんな風に取ってもらうと、女子はときめいたりするのだろうか。
陸はじっと表紙を見つめ、裏に書いてあったあらすじを読んだところで、「あ」と声を上げた。
「この続き買ってなかったわ。買おっかな」
「あの、さっきの続きが気になるんですけど」
一向に続けそうにない陸を促すと、喉の奥で唸った。
「いや、さっき続き考えてたんだけど、上手く言葉になんねえからいい」
「日本語勉強して下さい」
「いいだろ。普通に会話できんだから」
ぶらぶらしている内に、時刻は三時。まだ早い時間だったが、陸は学のことを思ってか、「そろそろ帰るか」と言い出した。
素直に頷いて一階へ移動すれば、通りがかったソフトクリーム屋の前で立ち止まる。
「アイスだけ食って帰ろうぜ。甘いの好きか?」
看板を見上げれば、色とりどりのアイスが並んでいた。夏ならば、さぞ繁盛することだろうと思うのに、案外店内には人は少ない。たまたまなのか、いつもなのか。店の経営を心配していると、「嫌いなの?」と訊かれ、慌てて否定した。
「何味が好き?」
続けて質問が飛んできて、学は少し考えた後答える。
「バニラですかね」
「ちょい待ってろ」
陸は、返事をする間もなく店内へ入り、ほうと見惚れる女性の店員に注文していた。
待て、と言われたので、学は店内に入ることなく、隅の方で邪魔にならないように外で待つ。
「どうぞ」
ぶっきらぼうに渡されたそれは、コーンの上に美しく真っ白なアイスがくるくる盛られていた。片方の手には、同じ形でも茶色のアイスが盛られている。陸はチョコを選んだようだ。
幼い頃以来、もう何年も目の前で見ていない姿を目の前に、まるで芸術だなと感心する。
アイスを食べるとしたら、食べやすさ優先でいつもカップを選んでいた学も、たまにはこういうのもいいか、と礼を言いつつ受け取った。
「いくらでした?」
「金はいい」
陸は、財布をすっかり仕舞い込み、受け取る気はない様子だった。意図が分からないまま、このまま引き下がるわけにもいかず、でも、と食い下がると、教えてもらっているお礼だと言う。殊勝なこともあるものだ
だから一人で買いに行ったのか、と一人納得していると、陸はショッピングモールを出て行き、学もそれに続いた。
「涼しいところより暑いところで食いたい」
出たすぐ、ぽつぽつとに並んでいるベンチには、人は誰もいなかった。その中で、柱に隠れた一番端のベンチを選んで陸は座った。人目もない、落ち着ける場所だった。
学が隣に座ると、陸は大きな口でアイスに齧り付く。学はぺろりと一口舐めて冷たくて懐かしい味を堪能した。
蝉の声は聞こえない。この近くに木がないからだった。
さっきまで冷たいくらいだった体は、一気にむさくるしい暑さでべたつき始める。その中で食べるアイスは、確かに快感だった。
「お前、暑くねえの? 涼しそうな顔してる」
「ちゃんと暑いですけど」
疑いの目を向ける陸に、本当に暑いのだというように手を使ってうちわのように扇ぐ。
「暑いなら、もっとあちーって周りにアピールするもんじゃねえの」
「暑いって言ったところで、解決しませんし」
「つまんねえ奴」
陸は、あっという間にコーンに辿り着いて、さくさく音を立てている。学も早く食べないと、溶けてしまう――そう思って手元を見れば、反射的に声が上がった。
「あ」
危ないと思った途端、コーンを経由してとろりと手へアイスが伝っていく。
「溶けるのはや……」
うだるような暑さは、あっという間にアイスを溶かしていた。学は、夏の暑さを甘く見ていたようだ。
甘ったるく、形をなさなくなったアイスは、どうにも気持ち悪い。ティッシュを探っていると、手からぽとりと白い液体が落ちそうになる。しかし片手では、ティッシュを見つけたものの上手く引き出せない。陸に頼もうと横を向くと、その瞬間息が詰まった。
すぐ近くには整った陸の顔。学の手を見つめる鋭い目。生暖かい何かが、学の手をくすぐる。それは一瞬だった。
アイスは、下へ落ちることなく陸の舌に絡め取られた。
しまった。陸の表情は、如実に陸の感情を表していた。視線は定まらず、明らかに動揺している。おそらく陸は、反射的に、本能的に行動したのだろう。どう反応するのが正解か思案していると、陸は飛び跳ねるように学から距離を取り、やけに大きな声で、全てを振り払うかのごとく絞り出した。
「ば、バニラもうまいな」
「え?」
「俺がせっかく買ってやったんだから、落とすなよ! 全部食え!」
「す、すいません」
学は慌ててアイスに齧り付く。味なんて分からなかった。さっきまで甘かったのだから、きっと甘い。そう思うのに、味蕾がバグでも起こしたように、全く機能していない。
生暖かい感覚。ざらざらした感覚。唾液が手に残っている感覚。
触感が鋭敏になりすぎて、味覚が一時的に機能しなくなったのかもしれない。
早く手を洗って忘れたい反面、もう少しこの甘美な気持ちに触れていたくて、学は機械仕掛けのロボットみたいにアイスを口に運んだ。ただひたすら冷たかった。なのにじんわりと心の奥が熱い。一瞬、獲物を狩るような鋭い目をした陸の横顔を思い出すだけで、背中がぞくぞくした。
「あ、ありがとうございます、美味しかったです」
「そ、そうか」
会話がぎこちない。目を見れない。
「じゃあな」
「はい」
学はいつもより深々と頭を下げた、不自然さを気取られないためだったが、逆に不自然だったかもしれない。
途端、学は駅のトイレへ駆け込んだ。その場ではウエットティッシュで拭いておいたが、体の底から疼くような、舌が皮膚を這う甘い感覚は消えていない。
ざばざばと、水を目いっぱい使って手を洗った。一分二分と洗うたび、自分が潔癖になったような気持ちになる。思い出すだけで体が痺れた。
何だあれ。何だこれ。
考えるなと心が叫ぶのに、頭は勝手に回り出す。
花火の時。教室にいた時。
あの、やけに艶っぽい目。触れた肌。舌の触感。
きゅっと音を立てて、水を止めた。
鏡を見れば、いつもと寸分違わない自分が映っていて、一つ違うとすれば似合わないおしゃれな紙袋だけだった。手をアイロンがけされた紺色のハンカチで拭くと、乱暴に紙袋を持ち、トイレを出た。
夏休みは、少なくとも二週間に一回以上は陸と顔を合わせた。望と塾の関係者を除けば、最も頻繁に会っていたことになる。しかしそれはすでに一番とは言えない。
――暇な時があったら教えて。
文面から陸の気持ちは窺い知れなかったが、その短い文にありったけの気持ちが込められている気がして、「忙しいので」なんて素っ気ない返信をすることは出来なかった。
見立ててもらった服を着て行けば、何も知らない風に笑う。
「やっぱり、いけてんじゃん」
何もなかったように、何もなかったと言い聞かせるように。
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