振り向けば

糸坂 有

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十六

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 約束の日は、学の願いが届いたのか、晴天だった。待ち合わせの十五分ほど前に駅に着いたところで、人の流れから外れて適当な壁にもたれる。浴衣を着た女の子たちに、はしゃぐ子供の手を引っ張る家族連れなど、いつもより大勢の人が出入りしているのを眺めた。あの人たちも花火だろうか。ここは最寄駅ではないはずなのに、明らかに花火の格好の人がいる。どうやら学たちと同じ思惑の人間が多いようだ。楽しいことは良いことだけれど。好好爺の気持ちでいると、隣からつんつんと肩を叩かれる。振り向くと、人差し指でぷに、と頬をつつかれた。
「珍しく早いですね」
「俺の行動に何か言えよ」
 どうやら、陸は学より前に到着していたらしい。つまらなさそうな陸に、学は少し考える。
「古くないですか?」
「つまんねー反応」
 言葉の割に表情は明るい。花火というイベントに、少なからず浮かれているようだ。
 柄の入った白いTシャツに、カーキのカーゴパンツ。ラフなのに大人びて見える格好の陸は、さっきから浴衣女子たちの注目の的だった。同じグループなのか、浴衣男子たちはそんな女の子たちの視線を自分たちに向けようと必死である。
 学は、ほんの少しがっかりして陸を見上げた。
「浴衣じゃないんですか?」
「俺だけ浴衣っておかしいだろ」
「俺が浴衣を着てくる可能性もあったと思うんですけど」
「なら、祭りの時に着てるんじゃねえかと思って。別に着てくるならそれはそれでよかったし」
 正直なところ、男でも惚れ惚れしそうな浴衣姿を、間近で見たかった。学が見たのは一瞬だったのに、まるで周りとは違う光を放っているように見えた。
 こんなことになるなら、浴衣で、とあらかじめ言っておくべきだったか――と思いかけて、学は思い直した。浴衣だと、余計に目立ってしまう。そんな人の隣を歩く自分を想像するのも恐ろしくなって、頭を振る。
「まあ、持ってませんけど」
 やっぱ。陸は予想を的中させたいたずらっ子のように微笑んだ。
 案内されたのは、駅から少し歩いた橋の付近。花火の場所からは遠かったが、充分に見えるところらしい。確かに遮るものは特にない。それなりに知られた場所なのか、すでに待機している人がいた。
「けっこう人がいるものですね」
「ああ。昔は穴場だったんだけどな。年々人増えてるんじゃねえ?」
「もっと近いところだと、どれだけ人がいるんでしょうね」
 率直な感想をぶつけると、陸は欄干に手を乗せた。
「人混み嫌いか?」
「好きではないですね。けど、嫌いっていうほどではないです」
 陸は学をじっと見つめていた。そわそわして、学は花火が打ち上げられる時を待った。来る途中に買ったウーロン茶を飲み、体に溜まった熱を冷ます。
 どん、と大きな音がして、空に一発目の花火が打ち上げられた。陸の言っていた通り、綺麗に真正面から見えた。歓声が上がる。
 綺麗だった。人工物であるがゆえの儚さと美しさが共存し、学は見惚れた。ちらと隣を盗み見ると、陸も圧倒されたように夜空を見上げている。瞳には美しい色をした花火が映っていた。
 どんどん打ち上げられる花火を、二人は黙って見つめた。
「花火って、何で花火っていうんでしょうか」
「花みたいだからじゃねえの」
「花ですか」
 一瞬咲いてすぐに散ってゆく様子は、言われてみればまるで花だった。しかし学の目には星のようにも見えて、そう思うと同時にかつての記憶が芋づる形式に呼び起こされた。
 望は、今までに数えきれないほど夜空の絵を描いている。控えめに浮かぶ月や星は、はっとするほど美しくて、学は脳に刻みつけるように何度も何度も繰り返して見た。
 そんな彼が、数回だけ夜空に咲く花火を描いたことがある。自然こそ至極なれと言う望も、たまには花火も良いと言ったのだ。


「花火って、なんで花火なの?」
 小学生の望は、女の子に間違われるほど可憐で、学は問われてどきりとした。
「えっと、花火って、花の火ってことだよね。花に見えるからってこと、じゃない?」
「そうかな」
 望は小さな手を膝の上でいじりながら、顔を上げた。
「俺には星がいっぱいあるみたいに見える」
「星?」
 学には、ぴんと来なかった。
 けれど、その後、望と一緒に花火を見に行った日、打ちあがってぱんと弾けたその一瞬、星が散らばっているように見えた。望と同じ景色を見ることが出来たことが嬉しくて、とても興奮した。
 きらきらと輝いて、流れ星のように消えていくそれは、星だったのである。
 次の日、望は初めて花火の絵を描いてきた。




 一時間弱の花火は、あっという間に終了した。比較的遠くから見たはずなのに、圧倒されっぱなしだった。間近で見たらどうなることやら。
 学がやっと息を吐くと、隣で微かに笑い声がした。
「何ですか」
「いや、お前どんだけ真剣に見てんだろうと思って」
「花火は真剣に見るものですよ。芸術ですから」
「相変わらず堅いな」
「人が簡単に変わるわけないですよ。でも、先輩はけっこう変わりましたっけ」
 変わったというか、ありとあらゆる面を見ることで、本質が見え始めてきたのかもしれない。
「お前のせいだっつの」
「俺ですか?」
 特に心当たりはない。強いて言うなら、勉強を教えたことだろうか。しかしそれも、結局は自分の力で成し遂げたことだ。
「お前、頭いいのにボケることあるからな」
「俺はいつだって真面目ですよ」
「へいへい」
 適当に相槌を打った陸は、近くに見えた光看板を指差す。
人混みからそれたため、人はまばらだった。
「何かちょっと食いたい」
 学は金魚の糞のようになって、近くのコンビニに入ると、五つ入りの唐揚げを購入した。爪楊枝を学に渡すと、自分は手でつまんで唐揚げを口へ放った。
「んまい」
 高校生男子の豪快な食いっぷりは、見ていて飽きない。学は丁寧に爪楊枝の袋を取ると、「いいんですか」と尋ねる。
「いらねえならいいけど」
 ごくん、と飲み込んで二つ目へ。思わず笑うと、「何で笑うんだよ」と不貞腐れたように言った。
 特にお腹が空いた感覚はなかった。時間が時間なだけに、すでに晩ご飯はお互い食べてから集合だったのだ。同じ高校生男子なのに、どうしてこうも差があるのか。
「いえ、じゃあありがたく」
 実のところ、学はコンビニのレジ横で売っている唐揚げを食べたことがない。肉まんも、コロッケも、何も食べたことがないのである。
 食べたくないから、ではない。食べる機会がなかったのだ。
 ぷす、と爪楊枝を指して、一口で口に入れる。特別美味しいというわけはなく、もちろん不味いとも思わない。コンビニの唐揚げをゆっくりと堪能すると、陸は特有の目で学を見ていた。
「お前、こういうの食ったことねえの?」
「え。ああ、はい。ないです」
「やっぱ坊ちゃんだな」
 言っていないものを言い当てられて、面食らう。
「何でそう思ったんですか?」
「何が」
「俺がこういうの食べたことないって」
「そりゃあ、そんな顔してたからに決まってんだろ」
「俺、そんなに顔に出てます?」
 ポーカーフェイスは得意だと思っていたのに、陸には色んなことがばれてしまう。
「や、別に」
 ひどく曖昧な答えをされて、「もうちょっと詳しくお願いします」と言えば、陸はしばらく黙ってから口を開いた。
「俺以外にはぜってー分かんねえレベルの話だから気にすんな。お前はもうちょっと感情を開けっ広げにした方がいいくらいだ」
「レベル?」
「もう変なことは考えるな」
 頭を優しく小突かれて、学はこめかみを押さえた。
「にしても、お前花火行ってあんな感じだと、女にモテねーぞ」
「あんな感じ?」
 急な話題転換に、学は急速に頭を回転させる。そのせいで、さっきまでの話は頭の隅へ隠れてしまった。
「ずーっと花火を凝視してんの。普通ちょっと怖くね?」
「怖かったんですか? 先輩は」
「俺はそんなんじゃねえけど」
 陸は困ったように頭に手を置いた。何気ないポーズが様になるのだから、スカウトされるのも納得だった。今ではもう止めてしまうけれど。
「花火見に来る奴らなんか、どうやって女との距離を縮めようか、なんてことばっか考えてんだぞ。下心丸出し。少なくとも俺の周りはみんなそうだ」
「先輩もそうなんですか」
「俺は、んなことしなくても向こうから……って、いやこんな話はどうでもいいんだけど」
 陸は一人でごにょごにょと呟く。聞き取れなくて顔を近づけると、陸は学の手を取った。
「例えば、こんな風に手をつなぐチャンスを狙ってる、とか」
 陸の手は、じんわりと汗で湿っていた。きっと、学の手も負けず劣らず湿っているだろう。夜とはいえ、外は熱い。
「……何か言えよ」
 暗くて良かった、と思う。夜でも街は明るいが、青空の下に比べればまだ表情は見えにくい。俯いてしまえば尚更だ。
 陸の目を見れば、また金縛りに合ってしまう気がして、でも手を振りほどいて距離を取る選択肢は浮かばなくて、学は靴の先を見つめた。
「勉強になります」
「勉強すんな」
 陸は手を解いて、行くぞと声をかけた。
 花火を見終わった人の流れに乗り、二人は駅へと吸い込まれるように向かった。想像通り、どこを見ても人人人。花火の威力を思い知りながら、ホームで電車が来るのを待つ。
「今日はありがとうございました」
 素直に礼を言えば、陸は「べつに」と呟いた。
「誘ってもらえてよかったです。花火は何度も見たことありますけど、やっぱりいつ見ても綺麗ですね」
「あ、ああ、そうだな」
「何ですかその反応」
 茶を濁した言い方に首を捻ると、陸はふいと目を逸らした。
「いや、うん。綺麗だったよ。……お前と来れてよかった」
「それなら俺もよかったです」
 ホームに音楽が流れ、電車がもうすぐ到着することを知らせる。風と共に到着した電車に乗り込むと、涼しい風が流れ出した。暑さでじとりと湿った体が、ようやく休息できると思いかけた途端、人の群れに押しつぶされそうになる。学は否応なく出入り口とは反対側の扉に体を密着させた。
 パーソナルテリトリーなんて言ってられないくらい、人人人。しかし、すぐ隣が陸なだけ、まだストレスは小さかった。知らない人と密着することを思えば、ずっと楽だ。
 窓ガラスに額を当てる。外は暗く、鏡のようになった窓が映すのは、電車内の様子だ。
 すると、陸は扉に手を付いた。頭の横に陸の腕が置かれる形になって、学は体を小さくする。胸板が、学の背中に当たった。女の子がもしこんなことをされたら、きっとイチコロだろう。一人だけ頭一つ高い陸は、まるで周りから学を守るような態勢で固定された。
 学も身長は低くはないが、こういう時、陸との体格差を思い知る。
「俺なんて、ひょろひょろしてるだけだろ」
 身長の高さを指摘した時、そんな風に自虐した陸にとって、高いことは特に意味がないらしい。下手に目立つし、頭を打ちかけるし、運動部には熱烈に勧誘されて面倒だ。
 そんなことをぶつぶつと言っていた陸によると、平均が一番良いらしい。やたらと学の身長を羨ましがられたのが印象的だった。しかし、そんな風に言われたって、人間はないものねだりだ。頭一つ高ければ、人が多い電車内でもきっと息がしやすい。人が多いとどうしても息が詰まる学は、羨望の眼差しを、そっとガラスに映る陸へ向けた。
 知られないように、ばれないように見たつもりだったのに、ばちっと目が合う。しかも、またあの目をしている。
 学は慌てて視線を落とした。
 普段なら目を見たってじっと見返すことが出来るのに、これはまるで歯が立たない。色気の漂う真剣な瞳は、学の心を縫い付けて縛り付けてしまう。
 服越しにじりじりと体温まで感じ始めて、触れているところに血流が集まっていく。つうと汗が流れ、服に浸み込む。
 学は早く着けと念じながら、目を閉じた。
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