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十五
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「今度花火行かねえ?」
初めて来た陸の部屋は、マンションの一階にあった。生まれてこの方マンションに住んだことのない学は、物珍しさを隠すことのないまま周りを見渡す。望の部屋とは全く違って、生活感に溢れている。
陸はこの三LDKで、三人で暮しているらしい。年の離れた姉は、すでに家を出て行って久しいということだった。学が、自分は一人っ子だと言えば、陸はとても納得していた。
案内されたのは、玄関から真っ直ぐ歩いて行った左の洋室である。
どうやら陸の部屋のようで、机、本棚、クローゼット、ベッドなどが置かれたそこは、こざっぱりとしていた。本棚には何冊も漫画などが収納されていて、あれもそれも読んだことがあると言えば、陸は大層驚いていた。
張り切ったようにジュースやお菓子を持って来た陸の母に礼を言い、用意された小さな簡易テーブルの前で、座布団に大人しく座る。
日曜日。また会いたいという陸の母親たっての希望により、本日は家にお邪魔させてもらうことになったのである。
ひと心地着いてから何気なく、何でもない風に、世間話のように切り出された言葉に、学は返答を考えた。
男女問わず、陸ならお誘いはたくさんあるはずだからである。わざわざ、花火などという一大イベントに自分を誘う意味が分からない。
「俺とでいいんですか?」
そんな意味を込めて尋ねると、陸は甘くてほのかな爽やかさの香る髪を乱暴にかき混ぜるようにした。
「誘われたけど、行く気しねえんだよ」
そして小さく、それに、と付け加える。
「お前となら行ってみたいと思った。面白そうだし。男だけで花火行ったことないし」
沈黙の中、クーラーの機動音だけが静かに響く。
そう言ってもらえること自体は、学にとって光栄なことである。しかし、素直に頷いていいものか躊躇われていると、じれったそうに陸は答えを促した。
学は息を吸う。
「そういうことなら、はい」
誘ったのは自分なのに、陸は戸惑ったように視線をさまよわせてから、取り繕った返事をした。
「あ、ああ。じゃあ決まりな」
陸は、あと少し残っているプリントに文字を走らせていく。学はそれを何するでもなく見つめていたが、気が散ると言われたので本棚を物色させてもらうことにした。すでに学校の宿題は終え、塾の勉強道具一式を持って来てはいたものの、ついつい漫画に目が走ったことに気付かれた。
「読みたいのあったら読めば」
その言葉に後押しされ、少しだけ漫画に耽った。前に望が読みたいと言っていた漫画である。全体としてのラインナップは、王道というよりマイナーな本が多くて、陸の内面を盗み見た気がした。熱い少年漫画もちらほらあったが、特に目立つのはギャグ色の強い作品だ。
「こういうのが好きなんだ……」
「何か言ったか」
「いえ」
学は一通り楽しんだ後、立つ鳥跡を濁さずを体現するかのように、美しく本棚を揃えて陸に向き直った。瞬間、宿題をしていたはずの陸と目が合って、ふ、と笑われた。
「面白かったか?」
陸の表情は楽しそうである。妙に優しげで、学は一瞬答えに詰まった。
「あ、はい。ありがとうございました」
深々と頭を下げると、「別にそんなにかしこまらなくていいっつの」とペンを回す。
「お前、漫画読む時も姿勢いいのな」
「普通だと思いますけど」
「普通、もっとだらけるだろ」
「先輩の家でだらけるわけにもいきませんから」
幼い頃は、家でごろごろしていると、よく叱られた。宿題はしなくていいのかとか、お母さんの手伝いをしろとか。だから条件反射的に、床に腹や背中をくっつけると怒られる気がしてはらはらするのだ。安心できるのは、望の家だけだった。
何気なく時計に目をやると、時刻は五時。思っていたより、時間は早く過ぎていた。
なのに、陸の手元を見てみれば、当初から三ページほどしか進んでいない。
「というか先輩。あんまり宿題進んでないんじゃないですか」
指摘すると、その時初めて気づいたように「あ」と声をもらし、今更意味がないのにいそいそと手元を隠す。
「さっさと終わらせて遊ぶんじゃないんですか」
「だってお前が」
「俺が?」
視線をちくちくと刺していると、陸は背中を床に放り投げ、顔の上にプリントの束を乗せた。
「何でもね」
「何でもなくはないですよ」
側によって、寝転ぶ陸の顔からプリントを奪う。真正面から見た陸の顔は、目元にほんの少し朱がかかっていた。
「あの」
陸の目は、どこまでも澄んだ湖のようだった。美しくて、ついうっかりすれば見惚れてしまいそうだった。瞳には学しか映っていなくて、学しか映そうともしていない。陸の体に、こんなにもはっきり学という人間が刻みつけられていることに驚く。
反射的に体を離して、胸の中を駆け抜けた感覚の名前を考えていると、陸はゆっくりと上半身を起こした。
「なに」
やる気のない声とは裏腹に、表情は妙に改まっている。いったい、陸が何を考えているのか、学には分からなかった。
「……もしかして、体調悪いんですか」
「悪くねーよばか」
ばか、と罵られたのは久しぶりで、いつもの陸に学は一安心した。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
学の家は、六時半から夕食と決まっていた。基本的に、父は帰宅が早い。そのため、いつも父が帰ってきたら、三人揃って母が作った夕食を食べるのだ。
今日はどんなことがあって、何をしたか。何気ない会話に緊張し、母が作ってくれたごはんを味気なく食べる日々もあったが、それも昔の話だ。しかし、今だって一家団欒の場は、学にとって心安らぐ時間ではなかった。
鞄を持って立ち上がると、陸は学の手を掴んだ。
肌と肌の触れ合う感覚に一瞬息を呑んだが、悟られないように笑顔を作った。
「どうかしました?」
ぬるい体温に侵食されている。触れられた部分が、じわじわと熱を帯びて体全体に広がっていくのが分かった。なのに、陸はまだ手を離してはくれない。金縛りを発動させ、学の動きを封じる。
「土産を」
「は?」
「土産、良かったら持って帰ってくれって、ババアが言ってたんだよ。ちょっと取ってくるから待ってろ」
名残惜しそうに手が離れていく。部屋を出た陸の後姿をしばらく追いかけ、学は触れられた手を握りしめた。
詳しい日程については、後日改めて連絡があった。
ビニールシートで場所取りするほどの気合はなく、間近で臨場感を味わいたいという意気込みもなかったため、全面的に陸に任せることにする。遠くからにはなるが、人もそれほどいない場所があると言う。
――立ちっぱだけど大丈夫?
――俺は大丈夫です。
一時間ほどなら立って見ていられるし、座って勉強することが多い学にとって、たまにくらい足を使わなければ、足も力の発揮どころがないだろう。
待ち合わせ時間と場所を決め、当日は雨が降りませんようにと心の中で願う。
初めて来た陸の部屋は、マンションの一階にあった。生まれてこの方マンションに住んだことのない学は、物珍しさを隠すことのないまま周りを見渡す。望の部屋とは全く違って、生活感に溢れている。
陸はこの三LDKで、三人で暮しているらしい。年の離れた姉は、すでに家を出て行って久しいということだった。学が、自分は一人っ子だと言えば、陸はとても納得していた。
案内されたのは、玄関から真っ直ぐ歩いて行った左の洋室である。
どうやら陸の部屋のようで、机、本棚、クローゼット、ベッドなどが置かれたそこは、こざっぱりとしていた。本棚には何冊も漫画などが収納されていて、あれもそれも読んだことがあると言えば、陸は大層驚いていた。
張り切ったようにジュースやお菓子を持って来た陸の母に礼を言い、用意された小さな簡易テーブルの前で、座布団に大人しく座る。
日曜日。また会いたいという陸の母親たっての希望により、本日は家にお邪魔させてもらうことになったのである。
ひと心地着いてから何気なく、何でもない風に、世間話のように切り出された言葉に、学は返答を考えた。
男女問わず、陸ならお誘いはたくさんあるはずだからである。わざわざ、花火などという一大イベントに自分を誘う意味が分からない。
「俺とでいいんですか?」
そんな意味を込めて尋ねると、陸は甘くてほのかな爽やかさの香る髪を乱暴にかき混ぜるようにした。
「誘われたけど、行く気しねえんだよ」
そして小さく、それに、と付け加える。
「お前となら行ってみたいと思った。面白そうだし。男だけで花火行ったことないし」
沈黙の中、クーラーの機動音だけが静かに響く。
そう言ってもらえること自体は、学にとって光栄なことである。しかし、素直に頷いていいものか躊躇われていると、じれったそうに陸は答えを促した。
学は息を吸う。
「そういうことなら、はい」
誘ったのは自分なのに、陸は戸惑ったように視線をさまよわせてから、取り繕った返事をした。
「あ、ああ。じゃあ決まりな」
陸は、あと少し残っているプリントに文字を走らせていく。学はそれを何するでもなく見つめていたが、気が散ると言われたので本棚を物色させてもらうことにした。すでに学校の宿題は終え、塾の勉強道具一式を持って来てはいたものの、ついつい漫画に目が走ったことに気付かれた。
「読みたいのあったら読めば」
その言葉に後押しされ、少しだけ漫画に耽った。前に望が読みたいと言っていた漫画である。全体としてのラインナップは、王道というよりマイナーな本が多くて、陸の内面を盗み見た気がした。熱い少年漫画もちらほらあったが、特に目立つのはギャグ色の強い作品だ。
「こういうのが好きなんだ……」
「何か言ったか」
「いえ」
学は一通り楽しんだ後、立つ鳥跡を濁さずを体現するかのように、美しく本棚を揃えて陸に向き直った。瞬間、宿題をしていたはずの陸と目が合って、ふ、と笑われた。
「面白かったか?」
陸の表情は楽しそうである。妙に優しげで、学は一瞬答えに詰まった。
「あ、はい。ありがとうございました」
深々と頭を下げると、「別にそんなにかしこまらなくていいっつの」とペンを回す。
「お前、漫画読む時も姿勢いいのな」
「普通だと思いますけど」
「普通、もっとだらけるだろ」
「先輩の家でだらけるわけにもいきませんから」
幼い頃は、家でごろごろしていると、よく叱られた。宿題はしなくていいのかとか、お母さんの手伝いをしろとか。だから条件反射的に、床に腹や背中をくっつけると怒られる気がしてはらはらするのだ。安心できるのは、望の家だけだった。
何気なく時計に目をやると、時刻は五時。思っていたより、時間は早く過ぎていた。
なのに、陸の手元を見てみれば、当初から三ページほどしか進んでいない。
「というか先輩。あんまり宿題進んでないんじゃないですか」
指摘すると、その時初めて気づいたように「あ」と声をもらし、今更意味がないのにいそいそと手元を隠す。
「さっさと終わらせて遊ぶんじゃないんですか」
「だってお前が」
「俺が?」
視線をちくちくと刺していると、陸は背中を床に放り投げ、顔の上にプリントの束を乗せた。
「何でもね」
「何でもなくはないですよ」
側によって、寝転ぶ陸の顔からプリントを奪う。真正面から見た陸の顔は、目元にほんの少し朱がかかっていた。
「あの」
陸の目は、どこまでも澄んだ湖のようだった。美しくて、ついうっかりすれば見惚れてしまいそうだった。瞳には学しか映っていなくて、学しか映そうともしていない。陸の体に、こんなにもはっきり学という人間が刻みつけられていることに驚く。
反射的に体を離して、胸の中を駆け抜けた感覚の名前を考えていると、陸はゆっくりと上半身を起こした。
「なに」
やる気のない声とは裏腹に、表情は妙に改まっている。いったい、陸が何を考えているのか、学には分からなかった。
「……もしかして、体調悪いんですか」
「悪くねーよばか」
ばか、と罵られたのは久しぶりで、いつもの陸に学は一安心した。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
学の家は、六時半から夕食と決まっていた。基本的に、父は帰宅が早い。そのため、いつも父が帰ってきたら、三人揃って母が作った夕食を食べるのだ。
今日はどんなことがあって、何をしたか。何気ない会話に緊張し、母が作ってくれたごはんを味気なく食べる日々もあったが、それも昔の話だ。しかし、今だって一家団欒の場は、学にとって心安らぐ時間ではなかった。
鞄を持って立ち上がると、陸は学の手を掴んだ。
肌と肌の触れ合う感覚に一瞬息を呑んだが、悟られないように笑顔を作った。
「どうかしました?」
ぬるい体温に侵食されている。触れられた部分が、じわじわと熱を帯びて体全体に広がっていくのが分かった。なのに、陸はまだ手を離してはくれない。金縛りを発動させ、学の動きを封じる。
「土産を」
「は?」
「土産、良かったら持って帰ってくれって、ババアが言ってたんだよ。ちょっと取ってくるから待ってろ」
名残惜しそうに手が離れていく。部屋を出た陸の後姿をしばらく追いかけ、学は触れられた手を握りしめた。
詳しい日程については、後日改めて連絡があった。
ビニールシートで場所取りするほどの気合はなく、間近で臨場感を味わいたいという意気込みもなかったため、全面的に陸に任せることにする。遠くからにはなるが、人もそれほどいない場所があると言う。
――立ちっぱだけど大丈夫?
――俺は大丈夫です。
一時間ほどなら立って見ていられるし、座って勉強することが多い学にとって、たまにくらい足を使わなければ、足も力の発揮どころがないだろう。
待ち合わせ時間と場所を決め、当日は雨が降りませんようにと心の中で願う。
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