振り向けば

糸坂 有

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二十三

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「もう帰ってください。はじまりますよ」
「まだチャイム鳴ってないだろ」
「鳴ってから帰ったら完全に遅刻じゃないですか」
「俺ならいける」
 八時二十分。生徒たちが優雅に朝の時間を満喫している中、学のクラスだけは物々しい雰囲気に包まれていた。
 長岡陸が、最後尾の床に座り込み、教室を見渡しているのである。鋭い目は、狩人のようだ。
「先輩、何やってるんですか……?」
 知り合いらしい女子生徒に尋ねられると、「見張り」と言って長い腕を組む。
 事の発端は前日だった。明日は一緒に学校に行こうとお誘いメールがあり、気軽な気持ちで返信をすると、登校中のみならず休み時間も離れないから、と宣言されたのである。
「何でですか」
「犯人見つけるからに決まってんだろ」
「俺と一緒にいれば分かるんですか」
「とにかく見つけるんだよ」
 陸がいれば、抑止力にはなっているようで、張り付かれた数日間は何も盗まれなかった。ありがたいことではあったが、ありがた迷惑という言葉もあるように、朝も昼も夜もずっと陸が側にいると居心地が悪い。視線が痛いのだ。あることないこと噂も飛び交っていて、対応するのも面倒になってしまう。
 授業を全て終え、掃除のために机を後ろへ下げて移動させると、ひょっこりと扉から陸が顔を出した。目が合うと、手でこっちへ来いと合図される。
「どうしたんですか」
「ダッシュで来た」
 陸の息は、少し上がっている。そこまでして急ぐ必要が分からない。放課後の時間を迎えたクラスメイトたちの視線が突き刺さる。
「今日は、普通に勉強する予定ですよね」
「ああ、そうなんだけど」
 柱に置いていた手を身体の横へ戻すと、陸は続けた。
「始める時間、ちょっと送らせてくれ。で、一つ頼みがあんだけど」
 学の耳にそっと寄せると、耳打ちする。シャンプーの爽やかな香りが頭のてっぺんを刺激した。
「鞄、貸して」
 柔らかな声は、学の体に優しく溶け込んでいった。学は理由を訊くことなく、頷いた。



「んじゃ、適当に時間つぶして、二年B組集合な」
 数分前に聞いた声を思い出して、学は図書室へ向かった。鞄は机に置いたまま、陸に任せてある。
 雑誌コーナーのソファに座って、適当な雑誌を開く。
 陸が学の鞄を借りる理由。それは、おそらく犯人をおびき寄せるためだろう。果たしてうまくいくのだろうか、と学はページを捲る。
 ただでさえ、ここ最近は陸という不純物が混ざっていたのだ。これみよがしに鞄を置いて、まるで罠である。もし犯人が捕まるとしたら、罠だと気付きながらも直接対決を恐れていない場合ではないだろうか。
 考えていると、まるで雑誌の内容が頭に入って来なかった。しばらく座っていたが、掃除が終わる頃合いを見計らって、立ち上がった。
 一年の教室へ向かうと、廊下には人誰もいなかった。窓から光が差し込むばかりである。一つ一つ教室を見ていくが、がらんとしていてどこも素っ気ない。学のクラスも同様なのだろうか――そう思って近くまで行くと、ぼそぼそと低い話し声が聞こえた。足音を立てずにさらに近づくと、はっきりと話の内容が頭に入って来た。
「まあ、その気持ちは分かる」
 聞き馴染んだ声に、学は息を潜めた。
「俺も、最初はあいつのこと気に食わないと思ってた」
 ゆっくり、音を立てないように近づいて、学はそっと教室を覗く。
 蓋の空いたゴミ箱。学の教科書を持った、出席番号二十番の鈴木。隣には二十二番の千田。制服に身を包む二人の正面に、学に背を向けて立つのは、まごうことなく陸だった。
「だったらいいじゃないですか。ああいうの、何でも出来過ぎて気持ち悪いんですよ。生徒にも先生にも信頼されてて。たまに、人間じゃないみたいって思う」
「そうそう。良い子ぶって、裏ではとんでもない下種野郎なんじゃないの。あんなの、普通じゃないって」
「このこと、まだ周りに言ってないこともむかつくんです。俺らにまで気を遣ってるみたいだ。その内飽きるのを待ってるのか知らないですけど、それなら俺はやめない」
 陸は、腕を組んで静かに聞いていた。
 学は、考えを見透かされている人のように、唇を噛みしめた。吐き捨てるような声は、聞くに堪えなかった。けれど、不快な思いをさせているのは、他の誰でもない、奥山学だ。
 きゅうと心臓が握りつぶされるような感覚がした。ちゃんとやっているはずなのに、どうしていつもこうなるのだろう。
「でも、先輩に言ってたのは意外でした。もしかして、俺らをぼこぼこにしろって言われました?」
 陸は、ふっと笑ったようだった。
「それはねーよ。俺が知ったのも、向こうにとっちゃ不測の事態って感じだったし。勝手に俺が動いただけ」
「なんで、先輩みたいな人があいつと一緒にいるのか、すごく不思議です」
「いろいろあったんだよ」
 しんと静まり返る。お互いの息遣いまで聞こえそうで、学は息を止めた。
「あいつは、直接文句言ったところで何も変わらないと思ったんです。多分、笑って、「ごめん」って、それだけ。気持ち悪くて反吐が出る」
 まあな、と陸は同意した。続けて、でも、と腰に手を当てる。
「あいつを嫌おうが何だろうがどうでもいいけど、一つ言っておきたいことがある」
 叱るでもなく、怒るでもなく、努めて冷静に、陸は言った。
「あいつは人一倍努力してんだ。なのに、俺より駄目な人間だって思ってて」
 陸の口から吐露された学の心は、ひどく矮小であるように聞こえた。恥ずかしくなって、学は口を引き結ぶ。
「そういう学が、俺は好きだ」
 唐突に発された、友情のそれとは思えない、熱っぽくて力強い声。顔が見えなくて良かった、と心底思う。声を聞いただけで腰が溶けていきそうだった。心の中に生まれた恥ずかしさは、ベクトル変換してさらに巨大なものとなった。
 もう何も言わないでほしい。そう思うのに、陸の口は止まらない。
「これ以上何かするんだったら、どうなってもしらねーから」
 聞いていられなくなって、学は静かに歩き出した。空気が、とても澄んでいるように感じて、また唇を噛みしめた。


「もう、ないと思う」
 ほどなくして教室に戻って来た陸は、晴れ晴れした顔で笑った。直視することは出来なかった。鞄を学の前に置く。
「ないって?」
「だから、捨てられんのが」
「解決したんですか?」
「多分な。感謝しろよ、俺に」
 勉強勉強、と伸びをする陸を見ていると、胸がじんじんする。陸が笑うたび、それはひどくなていくようだった。
「ありがとうございます」
 礼を言えば、陸は哀愁を含んだ瞳で笑った。これから二人きりで勉強をすることを考えると、妙に緊張した。
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