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第二章

2-4.慣習

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 宴もたけなわ。祭りの会場の至るところで楽し気な声が響き、多くの酔っ払いたちが生まれていた。高千穂の実質的な長である彦五瀬も例外ではなく、嬉しそうに颯に甘えながら甲斐甲斐しくお世話をしている伽耶を、ニコニコとした笑顔で見守っている。

「両手に花に見せかけて、伽耶という線も……? それはそれで……」
「「彦五瀬命!」」

 彦五瀬がしみじみと言うと、沙々羅と五十鈴媛の声が重なった。彦五瀬が豪快な笑い声を上げ、颯は首を傾げる。今、颯の両隣には五十鈴媛と伽耶が陣取り、伽耶の向こうに沙々羅が座っている。

「えっと?」

 伽耶と楽しく話していた颯は、彦五瀬が何を言って女性二人が非難めいた声を上げたのか、わからなかった。

「邪魔者は退散するとしよう」

 彦五瀬は颯に意味あり気な視線を送ってから席を立つ。尚も首を傾げる颯の名を、二人の少女が呼んだ。

 二人は颯に他に食べたいものがないか尋ねるが、既に颯の腹は八分を超えていた。

「ありがとう。二人も僕を気にせずに自由に楽しんでね。もしお世話が必要になっても、伽耶ちゃんがいてくれるし」
「お兄ちゃんのお世話はお任せください」

 伽耶が胸を張り、ニッコリと笑みを浮かべる。呼び方にも慣れたのか、先のぎこちなさは既になく、颯は真菜の小さい頃を思い出した。真菜も幼い頃、颯のことを“お兄ちゃん”と呼んでいた。今の“兄さん”呼びに不満があるわけではないが、“お兄ちゃん”の方が甘えられているような気がした。

 颯は懐かしさを噛みしめると同時、真菜がどのような扱いを受けているのかわからない今、自分だけが楽しんでいることに罪悪感を覚えた。真菜なら気にせず楽しむよう言うだろうことはわかっていたが、颯は何かしなければならないという焦燥感に駆られた。颯は天之尾羽張あめのおはばりを手にし、一人、立ち上がる。

「お兄ちゃん?」

 伽耶と沙々羅、五十鈴媛の視線が集まった。

「あ、えっと。ちょっとお手洗いに……」
「ご案内します」
「場所はわかるから大丈夫だよ。伽耶ちゃんは沙々羅さんたちとゆっくりしててね」

 颯が努めて優しく言うと、伽耶は少し残念そうにしながらも了承の言葉を返した。

「颯。わたくしもご一緒していいかしら」
「あなたは先ほど行ったばかりでしょう」

 立ち上がろうとする五十鈴媛の腕を沙々羅が掴む。決して仲が悪いわけではないだろうが二人が口論を始め、颯はその隙に抜け出すことにした。

 颯は嘘にならないようにかわやに寄ってから、祭りの喧騒から離れるように歩を進める。少し外れると篝火の数が一気に減り、一瞬、暗闇に迷い呼んだかのような錯覚を覚えた。しかし、目が慣れてくると月明かりと星明りで十分な光源を確保できていることに気付く。

 現代と比べて月や星が明るく感じるのは人工の光が少ないためだと颯は感心し、しばし夜空を見上げた。

 その後、気の向くまま歩みを進めた颯は開けた崖に辿り着いた。崖の向こうから滝の落ちる音が聞こえる。

 颯は足を踏み外さないように崖際には寄らず、周りに人影がないことを確認してから天之尾羽張を正眼に構えた。

「はっ……!」

 掛け声に合わせ、颯は一心不乱に素振りを始める。真菜を助けると決めてからも欠かさず続けていた素振りは、最近になってようやく様になってきたところだった。

 沙々羅と五十鈴媛に師事している破邪の秘術はあまり上手く行っていなかったが、何か一つでも上達を感じられるということが颯の救いとなっていた。

 剣の空を切る音が木霊こだまする。

 ただ剣を振るうだけでは薙のような鬼や真菜をさらった化け物に太刀打ちできないことはわかっている。しかし、颯は剣にも意志があるという彦五瀬の言葉を信じ、天之尾羽張との絆を育むべく、剣を振るう時間を大切にしたいと考えていた。

 颯はあまり薙を倒した際のことを覚えていなかったが、沙々羅らの話を聞いて、天之尾羽張の信頼を得て秘めたる真の力を解放することこそが真菜救出への近道だと思っている。

「お兄ちゃん?」

 どのくらい時間が経っただろうか。颯が額に玉のような汗を浮かべながら素振りを続けていると、草むらをかき分ける音と共に不安げな声が聞こえた。

 颯は一時素振りを中断し、声のした方を向く。

「伽耶ちゃん?」
「お兄ちゃん!」

 伽耶が駆け出し、颯の腰に両手を回して抱き付いた。小さな二つの双眸が颯を見上げる。

「真菜様を探しに旅立たれてしまったのではないかと心配しました……」
「あ、ご、ごめん……」

 颯としては少し抜け出しただけのつもりだったが、帰りを待つ新しい小さな妹の気持ちにまで考えが及んでいなかった。颯は申し訳なく思いながら小さな頭を撫でる。

「ごめんね、伽耶ちゃん」
「いいえ。お兄ちゃんは、ずっと鍛錬をされていたのですか?」
「うん。厠に行った後で、ちょっと体を動かしたくなって」
「そうでしたか」

 伽耶が拘束を解いて少し距離をとる。

「お兄ちゃんが満足するまでお続けください。伽耶はここでお兄ちゃんの頑張る姿を見守っています」
「ありがとう。でも、その岩にでも座って待っててね」

 すぐに帰るべきかとも思ったが、せっかくの伽耶の申し出を颯は受けることにした。

 もう少しだけ。颯はそう考えながら再び素振りに戻る。

 妹のために剣を振るう颯と、それを見守る小さな妹。そんな二人を少し遠くから見つめる二組の目があることに、颯も伽耶も気付くことはなかった。





 やがて、一区切りをつけた颯が、いつの間にか眠ってしまっていた伽耶を微笑ましく見つめ、起こしてしまわないようにそっと抱き上げた。まだ幼い体ではあるものの、眠った伽耶は見た目以上に重く感じ、素振りで全身の筋肉を酷使していた颯は人知れず気合を入れた。

 天之尾羽張を背負った颯が伽耶をお姫様抱っこして森の中へ消えていく。

「い、五十鈴媛。声をかけずともよろしいのですか?」
「さ、沙々羅さんこそ」

 静寂に包まれた森の中で、美少女が二人、向かい合っている。その表情には焦りと戸惑いの色が浮かんでいた。

「ま、まさかこのまま二人でということにはならないでしょう。そ、そうですよね、五十鈴媛」
「そ、それはそうでしょう。さすがに伽耶にはまだ早いのでは。そ、それに、いくらなんでもわたくしや沙々羅さんを差し置いて颯が幼子を選ぶとは……」
「そ、そうですよね。今回は痛み分けというところでしょうか」
「い、痛みはないわよ。ええ、痛みはないわ」

 五十鈴媛が胸に手を当てて、頬を引きつらせる。二人は乾いた笑い声を上げながら、既に見えなくなった颯の背中を見つめた。



 この時代のこの土地には、祭りの最後に篝火を消し、日頃から気になっていた女性や祭りで気に入った女性を男が誘って一夜限り共に過ごす慣習があった。

 もちろんそのことを颯が知るよしはなかったが、颯に自分が選ばれようと見えないところで競い合っていた沙々羅と五十鈴媛がその事実に思い至ることはなかった。

 なお、祭りの会場に戻ろうとした颯は篝火が消えていることで祭りが終わったと考え、伽耶を寝かせるために自室に連れ帰ったのだが、当然、その夜、高千穂宮やその近辺で多くの男女が行っていたようなことをした事実はない。

 翌朝、伽耶を連れて現れたことに驚いた彦五瀬から一族の慣習を聞いた颯は、露骨に安堵の息を吐いてから取り繕うように微笑む美少女二人を見て、知らなかったことにホッとしつつも、少しだけ惜しいことをしたかもしれないと思ったのだった。
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