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第十七章

17-17.雇用

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 幸せそうな顔で穏やかな寝息を立て始めたリリーを残し、仁は、そっと部屋を後にした。慣れないことをして疲れているであろうリリーを起こすのは忍びなく、仁がどこで夜を明かそうかと考えながら廊下に出ると、薄明りの中、数メートル先にいる人影と目が合った。

「玲奈ちゃん? そんなところでどうしたの?」

 仁が声をかけると、玲奈はあたふたした様子であちこちに視線を彷徨わせた後、曖昧に微笑んだ。

「その、リリーとの訓練はどうだったのかなって……」
「あ、うん。リリーがすぐ寝ちゃったから、ちゃんとは聞けてないけど、魔力の動き自体は感じられていたみたい」
「そっか……。あ、仁くんもお疲れ様」
「ありがとう。でも、これからどうしようかな……」
「これから?」
「うん。リリーが俺のベッドで寝ているから、どこで寝ようかなって」

 まだアシュレイが起きているようなら別の客間を借りる手もあるが、メルニール組の集まっているところの一角にテントを張ってもいいかと仁が考えていると、急に玲奈がソワソワした様子を見せはじめた。

「あの、その、もしよかったら、私の――」

 玲奈がか細い声で何か言い始めたとき、廊下の先からドアの開く音が聞こえた。仁がその音につられてそちらを向くと、コーデリアに宛がわれている部屋からセシルが出てきた。セシルは部屋の中に向けて一礼した後、仁と玲奈の姿に気付いてドアを閉める手を止めた。

 セシルが部屋の中に向けて何事か告げると、コーデリアが顔を覗かせる。コーデリアはセシルを連れて二人に歩み寄り、夜の挨拶もそこそこに、仁に向けて口角を吊り上げた。

「ジン。もうお楽しみは終わったのかしら?」
「お楽しみって……」

 仁は半眼でコーデリアを見遣る。

「あら。何か言いたいことでもあるのかしら。感謝の言葉なら、いくらでも受け付けているわよ?」

 仁は文句の一つでも言ってやろうと思ったが、玲奈の手前、はっきりと言及するのははばかられた。まさかわざわざ警告したにもかかわらずリリーがネグリジェで仁の元を訪れたなどと、玲奈は思いもしていないはずだ。ここで仁がコーデリアに何か言おうものなら、その事実が明らかにされてしまう。

 仁に非があるわけではないが、眼福だったことも確かであり、そのことが玲奈に知られてしまうのは避けたい事態だった。

 そんな仁の気持ちを知ってか知らずか、コーデリアはニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「仁くん?」

 仁とコーデリアのやり取りから何かを感じ取ったのか、玲奈が探るような目を向けてくる。

「な、何でもないよ?」

 仁は後ろめたさを感じながら誤魔化すように言って、コーデリアに向き直った。

「そ、それより、コーディーはこんな時間にどうしたんですか?」
「セシルと今後について話し合っていたのだけれど、リリーさんとお楽しみ中のはずのジンがレナさんと一緒にいるって言うじゃない」

 仁と玲奈に話のあったコーデリアは、本当は明日にするつもりだったが、2人が揃っているならちょうどいいと、自身の部屋にいざなう。二人も後は寝るだけで特に用事もなかったため、その誘いに応じることにした。

 入室した仁と玲奈はセシルに促されて椅子に腰掛け、テーブルを挟んでコーデリアと向かい合う。セシルもお茶の用意をした後、コーデリアの隣に遠慮がちに座った。

「単刀直入に言うわ。ジン、レナさん。私を雇ってくれないかしら」

 真面目なトーンで告げられ、仁は眉間に皺を寄せる。隣の玲奈も同様に困惑の表情を浮かべていた。

「えっと、それはどういう……?」

 仁は全く理解ができず、問い返す。

「帝国から追われた今、私には部下たちを養っていくすべがないわ」

 コーデリア主従は今、エルフ族の厚意に甘える形で里に滞在しているが、コーデリアはいつまでもこのままというわけにはいかないと考えていた。

 帝国の皇女という立場で友誼を結ぶというのであればエルフの里にもメリットはあるが、今のコーデリアは帝国から追われる存在なのだ。仁を通して里の危機を伝えようとした経緯があるため一応は受け入れられているが、本来ならばコーデリアたちはエルフの里にとって百害あって一利なしといっても過言ではない。

 その上、里の住人から100%の信頼を得ているわけではないので里の防衛などに協力することもできず、奴隷騎士隊は穀潰しと言われかねない現状に肩身の狭い思いをしている。

 奴隷騎士隊がダンジョンに潜るようになれば少しは里へ貢献することができるが、ダンジョンに不慣れであることから、それもガロンたちには及ばないと予想された。

 帝都に戻ったルーナリアが主導権を握れば疑いが晴れて再び帝国に戻る日が来るかもしれないが、コーデリアは、それは難しいだろうと踏んでいる。ならば、コーデリアはこれまでと別の方法で部下たちを養っていく道を模索するしかない。

「それで、私を、あなたたちが元の世界に戻るための魔法陣の研究者として雇ってほしいのよ。それと、騎士隊の何人かは私の助手として使うけれど、その他はセシルの部下として一緒にあなたたちの元に出向させるから、ダンジョン探索でも子守りでも里の防衛でも、好きに使ってもらって構わないわ」

 仁と玲奈がコーデリアと奴隷騎士隊を雇うということは、少なくともコーデリア主従が里に仇なす存在ではないと里に周知することができる上に、奴隷騎士隊がダンジョンに潜ることへの住民からの理解が得られ、更にはダンジョン産の物資で里への貢献も可能。

 仁側としても、奴隷騎士隊をきたるべきときのための戦力として大手を振って鍛えることもでき、ルーナリアが帝都に戻ったことで滞っている魔法陣の研究をコーデリアが請け負ってくれることは、何よりのメリットと言えた。

 コーデリアの提案に、仁と玲奈は顔を見合わせ、頷き合う。一つ気になる点があるとすれば、仁と玲奈が帰った後のことだが、コーデリアはそのときはそのときの状況に合わせて考えるとのことだった。

「そういうことであれば、俺からもぜひお願いしたいです」

 ルーナリアはコーデリアなら研究を完成させてくれるだろうと話していたが、仁としてはコーデリアが力を貸してくれるかどうかは別の話だと考えていた。そのため、状況がもう少し落ち着いてから頼むつもりだったのだが、コーデリアの方から申し出てくれた上に、雇うという形であれば気兼ねなくお願いすることができ、言うことはない。

 次期皇帝の座を目指していたコーデリアがその道を諦めざるを得ない現状に思うところがないわけではないが、今は部下やリリーたち、それにエルフの里の行く末の方が心配だと語るコーデリアに、仁は尊敬の念を抱いたのだった。

「帝国の未来はルーナリア姉様に任せるわ。薄氷のように脆い希望かもしれないけれど……」

 コーデリアがそう締め、しんみりとした空気が流れる。しばらく無言の時が続くが、コーデリアが思いついたかのように口を開いた。

「あ、そうそう。あなたたちに雇われるのだし、もう敬語を使う必要はないわよ。レナさんはともかく、そこの変態――は、私を敬ってもいないのに丁寧な口調で話すのは苦痛でしょうし」
「いやいや、そんなことはないですけど。というか、何で変態魔王って呼ぶのを途中で止めたのか知りませんけど、それだとただの悪口ですよね?」
「わ、私だって少しは反省しているのよ」

 仁は変態魔王呼ばわりを受け入れていたわけではないが、ただ“変態”と呼ばれるよりはマシなような気がした。

「反省するのはいいことだと思いますけど、何をどう反省したら変態呼びに繋がるんですか? そもそも俺は変態じゃありませんし」
「知らないわよ。どうせ訓練にかこつけてリリーさんの際どい姿に欲情していたのでしょう? 変態に変態と言っても悪口にはならないわ。というか、敬語は止めなさいって言っているでしょう」
「それ、あんなピチピチのネグリジェをリリーに着せた張本人が言うことじゃないよね!?」

 徐々にヒートアップする二人はお互いの顔しか見えていなかった。当然、苦笑しているセシルも、なぜか温かさを微塵も感じさせない微笑みを浮かべている玲奈の姿も。

「ねえ、仁くん。コーディーさんも。ちょっと詳しく聞かせてもらっていいかな?」
「――あ」

 仁は、ギギギと油の切れたロボットのように首を回し、動きを止めた。

「ち、違うんだよ、玲奈ちゃん。俺は悪くない!」
「とりあえず、言い訳するようなことがあったのは間違いないんだね」

 にっこりと笑みを深める玲奈に、仁は背筋を凍り付かせた。

「仁くんのえっち、へんたい」

 仁がとつとつとリリーとのやり取りを事細かに説明した後、玲奈はそう言って、プイッとそっぽを向いた。

 本気で怒っているわけではなく、どちらかというと拗ねているかのような玲奈の態度に、仁は安堵と申し訳なさと、嬉しさを感じていた。

 玲奈にだったら変態と呼ばれてもいいかもしれないなどと考えて頬を緩めている仁を見つめ、コーデリアは「やっぱり変態魔王は変態魔王だわ」とボソッと呟いたのだった。
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