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第四章

4-4.朝

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「ジンお兄ちゃん。もう朝なの。早く起きて」

 仁は体を揺さぶられ、微睡まどろみから覚醒する。声のする方に意識を向けると、すっかり身支度を整えたミルがベッドの脇から仁を見下ろしていた。仁は大きく伸びをした。

「ミル。おはよう」

 昨晩は玲奈と話し込んでしまったため、仁はいつもより起きるのが遅くなってしまったようだった。ミルはやる気に溢れた表情で早くダンジョンに行こうと仁にせがんだ。ミルは仁が体を起こしたのを確認すると、続いて玲奈を起こしにかかる。

「レナお姉ちゃん。起きて。もう朝なの。早くダンジョンに行くの」

 ミルは先ほどと同様にベッドの脇から玲奈の体を軽く揺するが、玲奈はむにゃむにゃと口を僅かに動かすだけだった。仁は以前、玲奈がラジオで目覚まし時計を10個セットしても起きないと豪語していたのを思い出した。玲奈は自然に起きる分には寝起きは悪くないが、外部の刺激ではなかなか目を覚まさない性質たちのようだった。

 段々とミルの玲奈を揺する力が大きくなっていく。ミルは小さな体に力を込めて、両手で精一杯玲奈の体を揺り動かした。さすがの玲奈もようやく目を覚まし、眠気眼を右手で擦った。小さな欠伸を手で覆い、玲奈は体を起こした。仁はそんな玲奈の様子を眺めながら小さく生唾を飲んだ。玲奈が寝ている間にちょっとした悪戯をしても起きないのではないかと、ピンク色の妄想がジンの脳裏を掠めたのは内緒の話だ。



「今朝は遅かったですね~」

 身支度を整えてミルと共に1階の食堂へ向かった仁と玲奈を、女将のフェリシアの緩い笑顔が出迎えた。

「フェリシアさん。おはようございます。少々寝過ごしてしまいまして」
「あらあら~。昨夜は遅くまでお楽しみだったんですか~?」

 にこやかに微笑むフェリシアに、仁は脱力してしまう。

「え。ジンさん。そういうときはわたしも呼んでくれないと! メルニールへの道中、3人で寝た仲じゃないですかっ!」

 休憩中なのか、食堂で時間を潰していたリリーが両手をテーブルに突いて抗議の声を上げた。リリーのツインテールが勢いよく揺れた。食堂内にいた数名の客の視線が仁と玲奈に注がれ、玲奈が顔を赤くして俯いた。

「リリー。誤解を招く発言はやめなさい。フェリシアさんもですよ」

 仁が窘めるように言うと、リリーとフェリシアは揃って舌をペロッと出した。2人の姿が仲の良い姉妹のように感じられた。



「はいどうぞ~」

 フェリシアが運んで来た朝食を、仁と玲奈、ミルがテーブルを囲んで口に運ぶ。リリーが自然と輪に混ざっていた。

「そうだリリー。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「はい。わたしのスリーサイズは上から順に――」
「待った、待った!」

 仁はリリーが自分の体を見下ろしながら胸を指さすのを慌てて止めた。仁の目が主張の激しいリリーの胸部に自然と吸い寄せられた。玲奈の仁を見る視線に冷気が含まれたような気がした。

 違うんですかと不思議そうに首を傾げるリリーの姿に、仁は大きなため息を零した。

「信頼できる奴隷商に心当たりがないかと思って」

 仁の言葉に、リリーがすっと目を細めて立ち上がった。

「ジンさん!」
「あぁ。購入を考えてるのは戦える奴隷ね。それと、買うのは俺じゃなくて玲奈ちゃんだからね」

 リリーは口を開けた状態で固まって、すごすごと腰を下ろした。

「ジンさん。先読みするのは止めてください……」
「ごめん、リリー。それは昨晩通った道なんだよ」

 がっくりと肩を落とすリリーの隣で、玲奈が顔を朱に染めていた。

「それで、どうかな。もし知ってるなら教えてほしいんだけど」
「そうですね。そういうことならお爺ちゃんに聞いた方がいいかもですね。お爺ちゃんは今日もいつもの店舗にいると思いますよ」
「そっか。じゃあ後で訪ねてみるよ。ありがとう」

 仁がふと視線を感じて横を向くと、ぱくぱくと小さな口を一生懸命動かしていたミルが、手を止めて仁を見上げていた。

「ジンお兄ちゃん。奴隷を買うの?」
「いい人がいれば、だけどね。ミルに相談しないで決めてごめん」

 ミルはふるふると首を横に振った。

「ミルも仲間が増えるのは嬉しいの」

 無邪気に顔を綻ばせるミルの頭を仁は優しく撫でた。嬉しそうに犬耳をピクピクさせるミルを、対面のリリーが羨ましげに眺めていた。

「仲間になるお姉さんは奴隷だけど、俺にするみたいに普通に接してくれると嬉しいな」

 ミルが笑顔で頷くのを見て、仁はほっと胸を撫で下ろした。

「ジンさん。女性の奴隷なのは決定事項なんですか?」
「当たり前じゃないか。玲奈ちゃんの奴隷ということは、部屋でもダンジョンでも一緒に寝泊まりすることになるんだよ。もしかしたら一緒に着替えたりすることもあるかもしれない。それに、玲奈ちゃんの魅力に心を奪われて、命の危険を冒しても玲奈ちゃんに悪戯しようとするかもしれない。いや、絶対にするね。それなのに、男の奴隷でいいわけがないじゃないか」

 捲くし立てる仁の勢いに、ミル以外の女性陣が僅かに体を引いた。

「でも、ジンさんは男ですよね」
「俺が女に見えるとしたら、リリーの目はとんだ節穴だね」

 仁は首を横に倒しながら口を開いた。不思議そうな表情を浮かべる仁に、リリーは頭を抱えた。

「ミルは新しいお姉ちゃん、とっても楽しみなの」
「だから、ミル。ダンジョンはちょっとだけお預けね」

 頷くミルの頭に、仁は再び手を置いた。奴隷を購入すべきか悩んでいたが、嬉しそうなミルの姿を見ると、選んだ答えが間違っていないように感じ、仁の心が熱を持った。まだ見ぬ新たな仲間が、ミルや玲奈と良い関係を築くことができればいいなと仁は願った。
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